小説 | ナノ


 僅かな光が薄い目蓋の皮膚を通して意識を呼び覚ます。震えた目蓋が持ち上がれば、朧に現実が輪郭を現してきた。鋭い痛みの後に鈍く響く痛みが米神からする。血は既に固まっただろう。目蓋に乗ったそれに亀裂が走って割れる幻聴が聞こえた。冷気が素肌を撫でる。薄く開いた瞳で己の頭が俯き、辛うじて下着を付けている姿だと認識できた。手は後ろ手で手錠で繋がれており、腹に幾重にも巻かれた包帯の白が膝をついているタイルよりも目に痛かった。人の気配は三人。それ以外の物音はせず、郊外の朽ちかけた小屋か何処かだろうか。


「やあ、起きたかい、お嬢ちゃん」


 目覚めた際にわずかに揺れた髪の先を見られたのだろう。太い男の声がする。足音と体格で傭兵だと悟った。それが三人分。気絶する前、私を誘い出した奴らだ。油断していたわけではないし、どこかに連れて行かれるだろうとは予想していた。しかし私の考えていた選択肢に殴られることはなかった。己の平和な頭を呪えばいいのか、女の扱い方も知らない野蛮な目の前の連中に腹を立てればいいのかわからなかった。
 気絶している女を白昼堂々運ばなくてはいけないリスクは高い。況してやあそこは路地裏とはいえ街中だった。祭りで観光客で人通りはあった。だからこそ、無抵抗にしなくてはいけない理由があのコインに隠されている。


「気分はどうだい?」
「……最悪だな」
「悪いなァ、この怪力野郎が先走っちまってよォ」
「ああ、悪いと思ってるよ」


 全く悪びれた様子もなく謝罪をする私を殴った男は近寄ってきて顎を掴む。それをただ無感情な瞳で見上げるも男は愉快そうに笑った。此方はただただ不快だというのに。
 顔を上げて気付いたが、前は住人がいた小屋だろう。そこ彼処に生活感があった家具が放置されているものの全て朽ちかけて古い。窓は全て割れ、ベニヤ板で雑に塞がれて隙間から薄い陽光が差し込む。十年以上前に持ち主を失ったこの小屋は誰の目にも触れない。つまるところ、拉致監禁された絶望的な状況ってやつだ。脳の芯が冷えていくのが分かった。


「それで? コインはどこにある?」
「あれはなんだ」
「質問してるのはこちらだぜ、お嬢ちゃん。違えるなよ」


 耳元でいかずちのような轟音が響き、鼓膜を痒いほど震わせた銃弾は後方の壁にめり込んだ。そんなもので今更怯みはしない。それが飛び交う戦場に身を投じることなぞ日常茶飯事だし、なんならそれで開いた風穴がまだ疼くのだ。男もそれに満足そうに笑い、銃口を私の腹に向けた。


「もう一つ、傷口増やしてもいいんだぜ?」
「おい、顔はやめろよ。それにあんまり傷付けるな」
「別に指示受けてないだろ。殺すなとも言われてない」
「だから、殺すには惜しいって言ってるんだよ」


 私に銃口を向ける背後で残りの二人が下卑た笑みを浮かべて下着姿の私を品定めするように眺める。軍人の間では、拷問する際に捕虜の服を剥ぎ裸にして自尊心を擦り減らすものもある。その模擬的なものだろうが、裸になろうとその辺の女より死線を掻い潜ってきた数が違うのだから今更折れるわけがない。


「殺す前に"お楽しみ"したって構わないだろ?」


 それは想定外だが。


「まあ壊さない程度にしろよ。あとは売って金にすればいい……見目はいいからな」


 無遠慮に伸ばされた腕により顎を掴まれ、振り解けないほど力が強い。キャプテンのあの指先とは違う、此方の都合など一切考えない力だ。


「その前に正常な思考が残されているうちに再度問おう。コインはどこにある?」
「くそったれ」
「……躾のなってない雌犬が」
「ッ、ぅああぁ……っ!!」


 塞がっていた傷口を無理やりこじ開けられる焼けるような鮮烈な痛みが体を貫く。白い包帯が映える腹にアーミーブーツの靴底をめり込ませてそのまま左右に何度も捻られる。噛み潰した悲鳴の一部が漏れ、全身に立った鳥肌と背筋を駆け巡る煮えたぎった骨髄に目の前が白んだ。冷や汗が噴き出し、合間に血の香りが鼻腔に届く。ああくそ、治りかけだっていうのに。
 ぜえぜえと荒いざらついた息が逃れていく。そうでもしないと腹を失ったようなこの痛みが紛れそうになかったからだ。


「痛みこそが躾だと思わないか、お嬢ちゃん?」


 白い包帯が、赤で侵食される。俯いた私の顔を上げるようにバレルで顎を掬った男が嗤う。偏った自身の持論を掲げるのは自由だが、賛同するのかどうかは否だ。正しさなどどこにも転がっていないこの朽ちかけた小屋の中で、助けなど望めそうにもない。一般に言う正義の味方である海軍に助力を乞うなど頭の片隅にもないが、私にはまだ仲間がいる。
 刹那だった。薄青の膜が私を通り越していく。視認するには一瞬だったが、違和感を感じるには十分だったらしい。その違和感が波紋のように広がって、三人の男が視線を彷徨わせる。


「……なんだ?」
「はァっ……レディの扱い方も知らないなら、躾けられて来い」


 もし手が自由なら中指でも立てていただろう。一番身近で見てきたキャプテン相応の悪どい笑みを浮かべてやると、再度男が銃口を向けるもその姿は白い花冠へパッと変わった。床にぽとりと音もなく落ちたボロボロの花冠に背後にいた二人の男が狼狽る。コツリ、と木の床に革靴が鳴る音がして、男たちは一斉に振り返った。
 薄暗い閉鎖的な部屋に、長身の男がいつの間にか一人佇んでいる。その手には身の丈ほどもありそうな大太刀が一振り。帽子で翳って見えない表情は、何も知らない人の不安を煽るには十分だった。


「だッ、誰だテメェ!」
「リーダーを何処にやった!?」
「……リーダー?」


 ゆったりと含みを持たせた低い声が這い寄ってくる。得体の知れない、暗い深淵から覗き込まれているような気味悪さを後味に残して。知っているスペルが理解できないほど芯まで凍りついた脳が揺さぶられ、冷たい刃がスッと臓腑に入ってくる。人の形を成した殺気に話しかけたことを後悔するような、畏怖がそこに在る。


「外で俺の仲間に躾けられている子犬のことか?」


 深淵から一つの瞳が此方を見据える。金色が映えるほど瞳孔が開いている、捕食者の瞳。余裕を見せつけるように口角がゆったり上がる。大太刀にこれからのことを予期させる刺青に縁取られる指先を掛け、するすると音もなく上方に引き上げて白銀の鋼を見せつけた。赤い紐の先が笑うように揺れる。もう既に彼の盤上の上で踊ってるのにすぎない。救いなど何処にもないというのに、二人の男は僅かに残る虚勢を震わせて果敢にも吠えた。


「テメェ……っ! こっちには人質がいるんだぞ!」
「この女を殺されたくなかったら武器を捨てろ!!」
「……ふっ、どうやら思い違いをしているらしいな」


 忍び寄る薄ら笑いと氷よりも冷たいその息に乗せられた言葉が鼓膜を震わせる。その痩身から放たれたおどろおどろしいほどの殺気に、現実という名の悪夢が歪み始めた。
 全てが手遅れだと気付かぬままに。


「俺の女をそんなことで泣き寝入りするように躾けた覚えはねェよ」


 静かに体勢を整えて、折り畳んだ足で床を強く蹴り跳躍する。臨戦体勢のように状態を低くしている左側の男の肩に飛び乗り、突然かかった重力にふらついた男の上でバランスを取って、右側の男の米神に向かって蹴りを放った。同時に彼が刀を振るう。暴漢二人の膝下がスッパリ斬られて、私が蹴った男の上体が吹き飛ぶ。乗っている男が私の足首を掴んでくるも、その手首すら斬られてしまう。頸に片足をついて後方転回で跳躍すれば、反動で下がった男の上体を彼の見えない刃が真っ二つにした。
 着地した瞬間、傷に重苦しい痛みが走った。開いた傷口から生温い血液が溢れて包帯をじんわりと余計に汚した。微かに噛み合わせた奥歯から出た呻き声と彼が納刀する金属音が重なった。手枷がなければ私が直々に手を下していたのに。手を煩わせてしまったと、叱られた子供のように少しだけ項垂れた。


「……シャンブルズ」


 ガチャリ、と冷たい金属が目の端に転がり、私の手を後ろで拘束していたそれが花冠に変わったことが感触で分かった。ようやく前に持ってこれた手でそれを見ると、殆ど花が落ちて土台である草ばかりが目立つ輪になってしまっていた。ただなんとなく、寂寥のなかに潜んだ物悲しさが顔を出したようだと思った。


「傷、開いてやがるな」


 靴音を隠さぬまま舌打ちを溢したキャプテンが気絶して転がる男達のパーツを長い足で蹴散らし、屈み込んで私の包帯を見遣る。赤い血で侵食されつつある包帯の一部に靴跡があるのを見つけたのか、また舌打ちが溢された。私ではなく、今は外で調教という名の私刑を受けている男への苛立ちだと知っている。しかし無様に捕まって、彼が手ずから縫合した傷を開いて、その彼に助けられるという体たらくだ。小さな謝罪の言葉にキャプテンは頬を撫でてくれた。米神から続く乾燥した血液が彼の指先に乗る。


「無事なら、それでいい」
「どうしてここが……」
「……」


 小さな金属音が代わりの答えになるわけもなかった。刀と帽子を側に置いたキャプテンがシャツを勢いよく脱ぎ、私に無理やり被せた。下着一枚の私を気遣ったのだろうが、その際に至近距離で見た彼の鍛え上げられた上半身に頭を下げてしまったせいで襟口から私が顔を出すことはなかった。しかしそれで良かったのか、キャプテンは裾を掴んだまま動かなかった。言葉の気配がして、さらに暗くなった服の中でその続きを待つ。


「……あのカフェの店員が俺らを覚えていて、お前が他の男に連れて行かれたと知らせられた。その先に入った路地裏で踏みつけられた花冠と血飛沫を見たとき───……肝が冷えた」


 最後は当てもなく呟くような吐息だった。私の問いへの答えではない。彼の悔恨だ。そこからがむしゃらに私を探したのだろう。そのらしくもない行為を彼の口から知らせられる日はない。
 でも、それでいいと思った。ただ悔やみさえすればいいと思った。それだけ、私を大事だと言って欲しかった。私を、それ程大事だと思って欲しかった。
 腕を袖からなんとかして出し、襟口から頭を出した。自分の口から、伝えようと思った。溢れ出てしまうこの気持ちを、貴方へ。帽子に遮られないキャプテンの瞳が静かに瞬きを落とす。凪いだ金色が美しくて飲み込まれてしまいそう。私の言葉を待つそれが近付くような錯覚の中、息を吸うために唇を薄く開く私の姿が映る。貴方が私の身を案じるその分だけ心臓が小さくなってしまったように溢れる気持ちが、もう止められなかった。


「キャプテン、私……ッ!」


 ──────トン、トン、トン、

 びくりと震わせた肩が空気を霧散させてしまった。合間が開く外からの緩やかなノックは終了した合図だろう。一目そちらを見遣ったキャプテンが何事もなかったように帽子を被り直してしまった。伝えられずに終わってしまい畝るように渦巻く言葉と今からでも飛び出してしまいそうな言葉が傷口からどろりと溶け出して、痛み始めるそこを掻き毟るように掴んだ。キャプテンのシャツに染み込んでいき、それが伝わればいいという馬鹿な考えが過ぎる。やりきれない気持ちに比べればこんなものは道化と変わりないだろうに。
 その手をキャプテンに払われた。もしかすると痛む傷を乱雑に抑えるように見えたのかも知れない。咎めるようなそれに顔を上げると、腹の上に花冠を置かれて横向きに抱き上げられた。突然の浮遊感に驚いて彼の首に縋ってしまう。近くなった耳元に彼の呆れたような溜息が直接吹き込まれ、次いで同じ温度を保った言葉が落とされた。


「嫁入り前の体くらい大切にしろ」


 一瞬、理解できなかった。私の思考を置き去りにするようにキャプテンの長い足が緩慢に歩み始める。私に気遣っているのだろう。前に抱えられた時よりも優しい揺籠のような振動に揺さぶられる。
 扉が見計っていたようにゆっくりと開き、ペンギンが近くに立っている。数人の仲間がただ私たちを見上げた後に、痕跡を消すためと情報を聞き出すために入れ違いに中に入って行った。茂みにアーミーブーツが埋もれているのを見た。どちらも正義でないなら、妥当な落とし前だろう。生命の所在は知る所ではないが、私たちの脅威が排除出来るならなんだっていい。遠去かるそれらを見送った後に巡り巡って彼の言葉が落ちてきた。

 嫁になんて行けるわけないじゃないか。こんな生業をして生きていくしかないこの今生で、一体誰と添い遂げるというのか。海賊として今更傷の一つや二つ、失ったりしてもキャプテンの背についていくと決めたのだ。況してや貰ってくれない貴方ただ一人を想っているというのに、この体を大切にしろと言われる道理なぞないと憤りが腹の底で熱く唸った。


「べ、つに……行きませんし」
「当たり前だろ。……誰がお前を嫁になんぞくれてやるか」


 視線は合わなかった。真っ直ぐ前を見るだけの彼の無表情の中なんて、読めやしない。それが私達の間柄を示しているようで、現実で頭を殴られたようだった。彼の腕で支えられている体が奈落の底へ落ちていく感覚がして、縋っていた腕から力が抜けた。裸の首筋を這って、落ちてきた手を胸元で握る。
 その言葉が全てだった。私は彼の"妹"という立場から逃げ出せないことを悟る。月夜が照らすあの冷たい牢の中で、彼の身と引き換えに誓ったクルーと妹という立場が私を縛る。
 自分から願った。
 自分から彼に乞うた。
 彼は何も間違っていない。私との誓約を守ってくれているし、それが馴染んで当たり前になっている。そう思えば彼の今までの行動一つ一つが腑に落ちる。自分を性的に見ない、男女の駆け引きの立場にすらいない、庇護する立場にある、妹、としか思っていないのだから。あくまで舞台上で彼の女を演じることしか許されず、小道具として花冠を持たせられたに過ぎない。永遠に交わることがない、ニアミスさえしない立場だ。
 力のない私はこの苦しみから逃れる術を持たず、救いの手は差し伸べられないだろう。だが、悪い人は誰もいない。悪いのは、その循環を乱そうとしている私だ。自分にかかる忌々しい呪いは、自業自得という形をしているのだと今更ながらに知った。

 ───嗚呼、

 馬鹿な信者のように盲目に信仰していればよかった。馬鹿な女のように恋に執着し飲み込まれてしまえばよかった。それ以上を望むまいと誓ったあれは、ただの薄っぺらい偽りの強情だと嘲笑われているようだった。
 ひとときの甘い嘘だと思っていた。ひととせの悪い夢だったのだと願っていた。
 こんなものだと思わなかった。吐露できない感情と秘めたまま受け取って貰えないことへの苦しみが、こんなに痛いものなんて。

 この人に、その感情は、届かない。



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