小説 | ナノ


 廊下はすでに綺麗になっていて、着替えに戻った部屋に私の愛銃も返ってきていた。何事もなく、恙無く、いつもの光景だ。滅多に自船に敵が侵入してくることはないが、それでも私が怪我をして手術室から戻る時と変わりはない。ただ一つだけ持ち帰ったものといえば、疼くような恋慕だった。
 わかっている。船長とクルーという立場で、欲しいと望んですぐ手に入るわけではないことも。あの人は私を甘やかすから何かを欲しいと望めばすぐに与えるけど、貴方が欲しいと言ったとて本当にその身を投げ出してくれるとは思わないのだ。同じ熱度を持った感情など互いに抱くことはない。むしろそうされてしまったら想いが通じ合ったというよりは、己の身一つで私が満足するならと心を殺して犠牲にしたと思ってしまう私自身がいる可能性はある。長年培った歪な信仰心が尾を引いていて、ただ今までの虚妄に恋をしてしまっただけだと錯覚しそうになる。いい加減やめなければならないのに、異性として意識するとなると記憶が飛びそうなほどくらくらする。そうだ、彼は顔がいい。危うい駆け引きに天賦の才がある色男だ。そんな経験豊富な彼に、私が太刀打ちできるわけない。


「ニイナ」
「ひゃい」


 ひっくり返った返事に追求されることなく、今日これからの予定を話し始めるキャプテンに跳ね続ける心臓を抱える。


「恐らくは医療施設、及び財団を直接調べる必要はある。だがお前も理解している通りむやみやたらにこのコインを見せたり調べていることを臭わせるわけにはいかねェ」
「情報屋も捕まらないでしょうか」
「場合によってはグルの可能性がある。コインを拾ったのが俺で、不在の船を襲われたとあればな。周囲の人間や何も知らなそうな職員から攻めていくしか手立てはねェよ」


 確かに動きにくい。重要なコインのことをそこら辺の下っ端が知っているものだろうか。
 それでも何も手立てがないよりはマシで、ちょっとでも糸口が見つかれば幸いだ。ペンギンも動いていると聞いたし、派手に行動を起こすよりは良いだろう。


「怪我人をこき使うようで悪いが、準備したら甲板に来い。勿論あの花冠をつけて、な」


 ニヤリと笑ったキャプテンはどのタイミングで私をからかったのだろう。前者ならいつものことだし、後者だったら意図を図りかねる。確かに街に出る際は男女でいても怪しまれない恋仲や新婚夫婦を装ってきた。それがまさに今、仇になるなんて思わなかった。
 俯いた顔と耳を赤くしない自信はない。

 薄く化粧をして、街に出ても違和感のない服を着て。あの白い花冠を頭に飾る。私の部屋の机に無造作に置かれていた冠は、ただ捨てるだけでは勿体ないほど綺麗だ。リースとして飾っても良いが、私の部屋に飾るスペースはない。
 二人で甲板を降りた時に気にしていた私を、キャプテンが先を促すように見つめる。


「この花冠、後で飾りたいんですが……置く場所がなくて」
「なんだ、そんなことか。俺の部屋はどうだ」
「お邪魔なんて出来ませんよ」
「物がいっぱいのお前の部屋よりはいいに決まってる。それに、俺の女だろ」


 その言葉に一瞬、何も言えなくなった。
 分かっている、そんなことは。実際に彼は悪戯よりも悪どい光を宿す瞳を持ってして、私とこの状況を揶揄っているだけなのだろう。だからこそ、返す言葉がなかった。錯覚と妄想が渦巻いて彼の言葉を否定するための材料が肉薄していく。頭を振ると、いくらか花弁が落ちていった。赤くなる顔でそれを追って、熱くなる頬と瞳でその先を見て。ぎゅう、と締め付けて拍動をする苦しい心臓を掻き抱いて。私は今、恋をしているのだと教え込まれる。
 自覚すると厄介な物だ、恋心というものは。


「おっ、お兄ちゃんたちこの前振りだなぁ!」


 かけられた声に顔を上げると、あの小舟を漕ぐ男性が声を掛けてきた。いつのまに水辺に来ていたのだろう。キャプテンはその舟乗り場に近付いていくので慌てて取り残された私も付いていく。細身なのに広いその背中と太い頸に彼も男の人なのだと再確認させられる。ただ頼もしいと後ろを追っていた頃とは訳が違う。


「お姉ちゃん、その花冠買ってもらったのかい? よく似合ってるよ」
「ありがとうございます」
「また向こう側まで頼めるか?」
「あいよ、まいど」


 キャプテンが紙幣を男性に渡し、前回で学習したのか新婚という演技のためなのか、私に手を差し伸べる。大きくてすらっとしている指先だと思っていたが、実際は骨張っていて血管が這う男の人の手だ。早くしろと言いたげな訝しげな目が帽子の下で細められて、怒られる前にとその手を取る。体温の低い少し乾燥した掌が力強く私を支える。ひぇ、と吐息と混じった声が出てしまったが聞こえただろうか。今更船が揺れることに関して怖がるタチでもないが、上手い演技だと思ってほしい。微笑ましく見る男性は一先ず騙せたようだ。
 通りはまた花祭りの騒がしさで賑わう。舟なら掘の高さで往来と切り離された空間になるため、誰にも聞かれたくない聞き込みには丁度良い。降り注ぐ花だけが私たちの会話を聞き、涼やかな水の音が遠くなった音楽たちよりも耳に残る。


「この国の国旗の後ろに、蛇が巻き付いた杖のあるマークを見た。何かの記号か?」


 ゆったりと進む水面から、一つの白い花を掬い取ったキャプテンがそれを男性に見せる。手のひらを伝って水滴が幾重にも腕の筋や血管の影を伝って落ちていく様に小さく喉を鳴らしてしまった。


「それはこの国病院のマークだねぇ。この奥にある古城の隣に大きな建物があるだろう。そこがこの国唯一の総合病院さ」
「何かの研究施設も一緒か?」
「ああ、古城の上階にあるよ。この花祭りで撒いていたりお姉さんの花冠にも使われている白い花、そして真の愛の証とされる銀の花を研究しているカンパニーが運営しているからね」


 やはり国旗にアスクレピオスの杖を持ってくるほど仰々しいマークを掲げるなら、カンパニーほど巨大な組織がこの国にはあるのだろう。キャプテンの見立ては合っていた。そこでふと、記憶が蘇る。ディアナの姉が言っていたことと同じだ。つまりこちらが所有しているコインに描かれているマークは、彼女たちが言っていたカンパニーと同じ組織らしい。
 すると男性は少し身を屈めて、内緒話をする様に声を潜めた。


「ここだけの話、今年銀の花が市場に出回らないのは少ない花をカンパニーが全て買い取ったからって噂があるんだよ。街の花嫁達が嘆いているさまは見ていられないね」


 ディアナ達も同じことを言っていたことを思い出す。根拠のない話だが、筋は通っている。ただの憶測に過ぎないが、地元の人が怪しむくらいなら信憑性は増す。研究施設が買い占めているとなると、薬効目当てでの研究だろうか。銀の花については目的地が確固たるものになり、原因も判明しつつある。しかし、未だにこのコインの謎は解けぬままだった。
 ちらりと隣のキャプテンを見上げると、膝に肘をつきつまらなそうに水面を眺めていた。その顔が私の視線に気付き見下ろした後、揶揄うようにニヤリと笑った。


「……そうか、それは残念だな」


 なにを、とは問えなかった。火傷したようにパッと視線を離してしまう。流れていく白い花が水滴を反射し、銀色に輝いているようだった。

 ───だからその花冠を付けているのは夫婦だね。永遠の愛を誓う、プロポーズの時に渡すんだ。

 何故今更その言葉が頭の隅で蘇るのだろう。水面に映った私の顔は不明瞭ながらも血色が良いことがわかる。心臓が耳元で鼓膜を揺らすほどに煩い。舟が描く航跡波に私の振動が混じってしまいそうなほどに。
 舟はやがて波止場に停まり、先に降りたキャプテンが私に手を差し伸べる。薄い逆光でさえ彼の表情を隠さなかった。普段の無表情が和らいだような、心穏やかな表情だ。私がよく見る光景で、他の女性の前でしたことがない心を許してくれている顔だと自惚れている。触れた手は先程よりも日差しで暖まっていて、離れるのが惜しいと思った。
 嗚呼。胸中に溢れる甘酸っぱいような、熱された果実のようなこれはなんだろう。馬鹿の一つ覚えのようにただ一つの言葉しか湧き出て来なくて、反芻されるそれが余計にとろりと臓腑を撫で上げる。甘美なその疼きに耐えきれなくて、服の裾をぎゅっと握った。

 偽りでなければいいのに。彼もまた、本心であればいいのに。何度も何度も、そう願ってしまうずるい自分がいた。


「最後に、聞きたいことがある」


 背後を振り返ったキャプテンが舟の男性に声を掛ける。なんだい、と柔和な笑みを浮かべる男性は信用に足るだろう。


「カンパニーで、記念コインを発行したことはあるか?」
「国のお土産用はあるけど、カンパニー独自が出しているってのは聞いたことがないねェ。カンパニーのある古城の一階部分は見学自由だから行ってみなよ、お二人さん」


 それじゃ、良い日を。そう言ってオールを漕いでどんどん離れていく男性を見送りもせずに、いつの間にか繋がれていた私の手を引き連れてキャプテンは階段を上った。いや、いつの間にか、なんかじゃない。さっき私を引き上げたときからずっと握っていたんだ。私から離そうと力を抜いても、それを許さないように指の間にキャプテンの長い指がするりと入ってきて簡単に絡め取られた。


「このコインがそのカンパニーとやらに関わっているのは分かったが、態々賊を寄越す意味がわからないな」
「そうですね。恐らく偉い方の持ち物でしょう。あの、それよりはな……」
「そうだな。病院というより、その銀の花を研究しているという古城の方が怪しい。そこの重鎮や幹部のものかもしれねェ」
「海賊が所有しているとわかってすんなり返してくれると思わなかったから賊を寄越したのかもしれませんね。いや、そうじゃなくて、はなし……」
「何かしらの理由でこれが必要になり、強行手段にでたってわけか。筋は通ったな」


 私はただ、離して欲しくて懇願しているというのに。態とやっているのかと疑ったが、少し早歩きで独り言のように私に問うから思考を纏めているのだろう。だから、手が繋がれていることに彼は気付いていないのかもしれない。それはそれで悔しいが、今は熱くなって手汗がじんわりと滲むことに気付かれる前に離して欲しかった。彼の帽子に訴えかけてもそれは叶わぬままで。
 だが、それはあっさりと解かれた。


「とりあえず俺はペンギンに報告してくる。お前は待機だ」


 するりと絹が肌の上を滑るように指先が解ける。あれだけ離して欲しいと思っていたのに。失われつつある熱にまだ離れたくないという矛盾が生じた。代わりに上方から降ってくる言葉に顔を上げると、キャプテンが此方を見下ろしていた。帽子の鍔に翳った琥珀の瞳が瞬く。スッと通った鼻筋の下、口角の下がった薄い唇の中から覗く白と赤のコントラストに目眩がして思わず目を逸らしてしまった。


「どうした、さっきから……ああ、傷、痛むか?」
「えっ、いや……いいえ、」
「報告が終わったら一度休む。その間にお前は、」


 近付いてきたキャプテンについ身構えてしまった。彼はそのまま私の背後に立ち、身を屈めて耳元にその精悍な顔を寄せた。先程繋いでいた刺青だらけの指先が私の顎を固定して、前方へ角度を調整する。


「大人しくメニューでも決めていろ。出来るな?」
「……でき、ます」


 突然に近付いた距離と熱に脳がイカれたと思うほどうまく呂律が回らない。思考さえ煮え固まって、傷の痛みなんて彼のおかげで感じずに済んでいるというのに。


「そうだ。いい子にして待っていろ、ニイナ」


 空気が僅かに振動している。キャプテンが笑っているんだ。普通の声より掠れたそれが近くに聞こえ、さっきより近付いたことを知らせる。熱く過敏になった耳に誰かの吐息が触れた。真昼間の石畳が、薄暗いフロアに変貌していく。呼水にしたそれのせいでざらついた、男の人の声が蘇る。自分の名前が、理解できないほどに。少し強めに顎を固定した指先が呆気ないほど、しかし何かの名残を残すように顎先を撫でて離れていった。背後の気配も遠去かっていく。明るい陽光が目に痛かった。
 は、とようやく吐いた息は思ったよりも短くて、水の匂いを含んだ新鮮な冷たい空気が肺に染み渡る。ほんの一瞬の出来事だった。麻薬のようにトリップして、何かに憑かれたように幻惑を見た。それら全てをなかったものにするように、キャプテンの大きな手が私の頭に触れる。それが離れると同時に、キャプテンは振り返りもせずに懐から小型の電伝虫を取り出して路地裏へ入ってしまった。
 これ以上はだめだった。本当に、彼は何でもない風にあんなことをしたのだろう。打算も駆け引きもない、行動だ。頭を振って追求する思考を放棄した。

 そうでもしないと、わたし、なにかをたがえてしまう。

 ──────なにを?

 ぼんやりと眺めるメニュー表は頭に入ってこなかった。なんだか見たことがあるなと思ったら、最初にこの街に来たときに訪れたカフェだった。期間限定のパンケーキはまだある。キャプテンはいつも、私の好物を覚えててくれる。膨れ上がる想いに自嘲を溢す。どんどん欲張りになっている自分に気付いてしまった。あの頭に置かれた手に、前髪が張り付いて追い縋るような瞬間を見てしまったら。クルーとしての一線を超えることを願ってしまったら。
 渇いた笑いしかでない。頭の上でズレた花冠に触れて、ただどうしようと迷っていた。初めての恋で舞い上がっていたが、彼はキャプテンだ。少しの触れ合いで一喜一憂してはいけない。況してや今は大切な行動中。この感情を持つのが自由であったとしても、きっと永久に伝える必要はないだろう。こんな戯れは全て「妹の代理」でしかないのだから。
 だからこれはひとときの悪い夢で、ひととせもすれば風化する甘い嘘だ。もう私はこれ以上を望まないし、ただひりつくような熱傷を引っ掻いて生きていきたい。


「お嬢ちゃん、お一人?」


 和かに話しかけてきたのは筋骨隆々とした爽やかな笑顔を持つ好青年だった。ぼんやりしていて接近されたことに気付かなかった。面倒なナンパだな、と被っている花冠を見せつけるように握ったが効果はない。地元民ではないのだろうか。


「連れを待っている。失せろ」
「気の強いお嬢さんは好みだ。それなら一つ教えて欲しいんだが、」


 道なら知らないぞ、と口を開けようとした私の肩に無遠慮に重たい腕を乗せて近付いてきた男は和かな笑顔のまま、そっと口を開いた。


「……素敵なコイン、持っているだろ?」


 体全体で体重をかけてきて、逃さないように私の両足の後ろに片足を置かれている。そして、その悪魔のような口上。護身術で切り抜けられると上げた腕を下ろした。全てが後手だった。知られている。抵抗しようものなら首に巻かれた腕が即座に締められるだろう。
 抵抗しない代わりにイエスともノーとも言わなかった。従順になった私を見下ろした男が笑い、腕を解く代わりに背中を押されて促される。ジャケットの下にホルダーが見えた。昨日同様、手練れの傭兵だ。困ったことになったが、銃声を聞けばキャプテンも直ぐに来てくれるだろう。
 連れ込まれた路地裏の前方に下品な笑みを浮かべる男が二人。三人でこの狭い通路なら男より小さな女の体である私の方が有利だろう。あとはタイミングを図るだけだ。


「何の用?」


 立ち止まったタイミングで分かりきった言葉を吐いた。姑息な時間稼ぎだが、キャプテンが異変に気付いてくれることを願っていた。そんな浅はかな考えなどお見通しと言うように背中に銃口を突きつけられる。


「そんなもの、状況見たらわかっているでしょ?」
「さァね、コインだったっけ? カツアゲなら他を当たれ」
「お嬢ちゃん、あまり賢くないねェ」


 ゴッ、と鈍い音がして脳が揺れる。グリップで殴られたとわかったのは少しの血飛沫が倒れた地面に散ったからだった。霞む意識の間際、落ちた花冠が踏みにじられた様が目に映ったのを最後に───私は意識を手放した。



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