小説 | ナノ



 気付いたら、そこは海底で踊る私がいる世界だった。跳ねるように足先を使ってくるくる回る。らったった。暑さも寒さも感じられないのに、仄暗い海の底で私は軽快にステップを踏む。遠くは見渡せないほど闇に飲まれているのに恐怖はなく、やけに白いワンピースが飜る様が目に焼き付いた。なんの曲で踊っているのだろうか。そこまで遅いテンポではない。でも早いそれではない。なんだろう。でも楽しい。観客のいない海の底で上がることのない息と泡に楽しそうに踊っている私。一縷の差し込む光がまるでスポットライトのように私を照らす。ここでターン。ひらりと広がるフレア。終わりの見えないダンスのせいで余所見が出来ない。
 ここはどこだろう。なぜ海底なのに息ができて自由に動けるのだろう。体の私と、心の私は別物だった。
 どのくらい踊っていたのだろう。バレエのように跳ねていたかと思うと、相手のいないダンスのようにくるくると回る。こんなに踊ったことはない。音楽がなくても体を止めることができなかった。とても楽しくって、満たされている。それに疑いもしなかった心に、小さな泡のように湧き立つ疑念がぽっと出てくる。私は、誰。私は、何故。疑問は恐怖に似た仮面を付けて、ターンと共に上がる腕が少し上がりきらなかった。
 その手にぽとりと落ちてきたのは白い花だった。突然のことで驚いた私はそれを振り払ってしまったが、次々と花弁や萼が付いたままの花が降ってくる。有難いことにそれに踊る事を止められて上を見上げる。雪のように降り注ぐそれらの源は見えず、遠くに水面のように光がゆらゆら揺れていた。最初は動揺していた私の心に、何かざわざわと擦られるような言葉にできない感情が生まれた。それを焦燥だと気付く前に、私は本能のように「何か大切なものが取られる」ということに取り乱していた。それが何かわからなくともなりふり構っていられなかった。脹脛を覆うように今だ降り積もる花と比例して呼吸が荒くなる。どうしたらいい、どうしたらいい。遠くに行くわけにはいかない。この花を止めなければ、私は私ではなくなる。触らないで、やめて、連れて行かないで、もうやだ、嫌だ、やめて。
 いて叫んでも口から出るのは泡で、どこからか降ってくる花に私の両腕は届かない。一体何に恐れ慄いているのか。一体、何に恐怖を抱くほどの焦燥に駆られているのか。理屈も感情も、今はどうでも良かった。ただ、何かに大切な何かを取られてしまうんじゃないかという原動力だけで一心にゆったりと揺れる水面に手を伸ばしていた。
 やがて胸まで花で覆われたかと思うと、僅かな光源を覆い隠すように大量の花が降ってきた。焦燥は絶望に変わり、息を飲んだ私は咽せ返るような花の香りと共に海底に埋葬された。

 ゆっくりと顔をあげた。冷たい空気と湿っぽい空気が混じった暗闇の中、手元を照らすように月明かりがある。目の前には格子があり、ここが牢屋だと気付かせる。その先に通路があり、届きもしない上方に格子がついた簡素な窓があった。土や草が見えてそこから月明かりが僅かばかりの照明になってくれている。
 この地下牢は見たことがある。かつて私の家の地下にあったところだ。一般家庭にはないだろうが、マフィアのボスの娘であった私も何度か立ち寄ったことがある。ここに囚われて拷問や尋問、始末された人間を何人も見たが囚われるのは初めてかもしれない。
 背後には壁に繋がれて垂れる海楼石の枷と、透明な液体のついたボールギャグが床に転がっていた。誰か囚われていたのだろうか。その主は居らず、何の気配もない静寂だけが静かに息衝いていた。それに大きく安堵を覚えて心地良さを感じる。これからを考えずに、ただここにいたい。自分の呼吸さえ大きく聞こえるほど静かな夜で、雑念がするすると絹が素肌を滑っていくように解けた。
 かつり、と何かが打つかる音がして大きく肩を波打たせた。規則正しいそれは靴音で途端に感じられた人の気配に心臓は忙しない。その靴音が私の目の前で止まる。月光を背負うその長身は見慣れた姿だ。


「……キャプテン」


 声を出す量を間違ったように小さな声だった。まるで此方に来いと誘うようにキャプテンが顔を上げる。暗がりでもその瞳だけは真っ直ぐ私を射抜いて、思わずふらふらと足を運んでしまう。目の前の格子が邪魔で、触れると鈍い錆の臭いがツンと鼻届いた。


「ここから、出してください」
「早く出てこい」
「だから出してくださいよ。キャプテンのその能力で」


 力を込めると連動した格子が姦しい音を立てた。その音が鼓膜を突いて脳を揺さぶる。途端にこの牢の中が違和感で溢れて不快になった。悍しい何かが這い寄ってくるような、家に帰ってきたら何かが住み着いていたような、見慣れた光景が変貌するような不快感が全身の肌を撫でる。それに慣れようとする防衛反応さえ嘲笑うように違和感は絶えず歪曲し、狂ってしまいそうなほど行き場のない感情を唸り声として吐き出した。


「何言ってるんだ、鍵持ってるだろ」


 キャプテンはただ私を観察するように温度のない瞳で私を見ている。なんの感情も篭らない声が示す先を見て、私は驚愕した。左腕に見たことのある鍵束がぶら下がっているのだ。一本はこの地下牢へ入るためのもの。一本は海楼石の錠のもの。そして一本は、この牢の扉のもの。持っていなかったはずだが、そんなことはどうでもよかった。狭い牢内を幾度も振り返って怯える私になんの情も持たないキャプテンが再度私に言葉をかける。


「早く開けて出てこい」
「む、りです……できない」


 何故か出来ないと思っている私がいた。使い方がわからなくなったように、子供のように泣きじゃくりたかった。いっそそうやって醜く泣いてしまえたらどんなに楽か。この揺籠の泥濘に身を任せられたらどんなに楽か。彼がいなければそうしていた。彼がいなければ、私はこんなことにならなかった。


「キャプテン……!」
「お前が欲しいのはこれだろ?」


 格子の窓の下、壁沿いに丸椅子がぽつりと残されている。それに腰掛けたキャプテンが手に持っていたのは白い花冠だった。暗闇で発光しているようなそれは美しく、月の光を反射する夜露に濡れている。見たことがあるのに思い出せないそれを私は本能的に求めていた。そして、この場所に留まっているとそれが手に入らないことも。
 ……ああ、そうか。これは夢なのか。胃の底にストンと落ちてきたそれに深く納得した。同時に、目頭が理由もなく熱くなる。私はこの牢を出ることが悲しくも恐ろしい。かつてここで生まれた情がそうさせるのか、今まで築いてきた関係を全て壊してしまうことにだろうか。でも、そんな多大な犠牲を払ってでも出ないといけないと頭の奥では言っている。

 そうしてまで私を動かす衝動の名前を、私はあの夜から知っていた。


「それ、私にくれますか?」
「ああ」
「あのね、キャプテン、わたし……」
「おい、それは出てから言え」


 振り絞った声は震えていて、私の虚勢を見透かしたように今まで微動だにしなかったキャプテンが格好良く口角を上げた。私の一番好きな顔。不敵で全ては自分の手中にあるような、トラファルガー・ローとしての。
 格子越しに伝った手が扉に触れる。震える手で左腕から鍵束を取り、一本の鍵を摘む。格子の隙間に手を回し、外側の錠に鍵を差し込む。それを回す前に後ろを振り返った。跪いて祈るように手を組んだ抜け殻に微笑んでから、私は鍵を回す。解かれた音が軽やかで、手を戻した後に羽のように軽い扉を押した。


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 ──────
 ───


 きらきらした光の残滓に導かれる。重い目蓋の裏側にまで侵食してきたそれを追うように、ゆっくりと目を開けた。光はほろほろと離れていき、残るのはあまり見慣れない天井で。付けていない手術台の照明を夕焼けが染めていた。暗くなりつつある部屋と思い出したように迫りくる疝痛にぼんやりと夢と乖離した現実を思い出す。
 初めてキャプテンに会ったのはあの地下牢だった。囚われていたキャプテンを一目見て私の世界は変わってしまった。此処から出して望みのものを与える代わりに、私を仲間として受け入れてほしいと願った。妹として扱ってほしい、とも言った。初めはそんなギブアンドテイクの関係で始まったが、馴染んだ後はその望み通り彼の妹として扱われただろう。私に兄はいないし、彼に妹がいたと聞いていたが遠い昔だから本当にこれが世間一般で言う兄妹関係とやらであるかはわからない。それでも、敬愛なる彼に大切にされているということだけで私は満たされていた。
 私は彼を神のように思っていた。元来信仰心は薄い方であるが、彼の容姿や思考の美しさに勝るものはないとあの牢の中で確信してしまったのだ。なんの疑いもなかった敬虔なるその信心が変質して歪曲したのは、長い沈黙を破った、その秋波。
 視線を傾けると私の顔の横に鬼哭が突き刺さっている。そこから更に下ると、私が横たわるベッドに突っ伏しているキャプテンがいた。浅く上下する肩を見ると寝ているのだろう。此方からは旋毛しか見えないが、言いようのない感情が込み上げる。長らく会っていなかった歓喜のような、胸の奥がじんわりあたたかくなる愛いという感情のような。


「……キャプテン」


 掠れた声だったが無事届いたようで、ぴくりと動いた髪の先に合わせて頭が擡げる。怪訝な顔で更に眉間に皺を寄せていたかと思うと、一瞬で目を見開き、らしくもなく飛びついてきた。


「ニイナッ!!」
「おはようございまーす……」


 へにゃりと笑った私の反応を見て驚愕の眼をゆっくり細めていき、長く息を吐いて、情けない顔で「馬鹿、」と小さく呟いた。その表情は正しく私だけの身を案じるそれで、いつもの仏頂面からは想像できないほど痛ましく、優しい。


「なにがあいこだ。お前の方が重傷だろ」
「すみません……」
「もう、あんな無茶するな」


 手に違和感を感じて視線だけでそちらを見ると、痛いくらいに握られていた。侵し始める痛みにそっと笑って、強張って動かしにくい関節を折り曲げて私も握り返した。
 このことを伝えるにはまだ早いだろう。少女のように衝動だけで動く恋は終わった。目先だけでなく、この船の終わりまで見据えなくてはいけない。それが、海賊になってしまった、運命。時間はまだある。ゆっくりとで構わないから、貴方の妹から一人の女としてそばに居させてほしい。
 男女の差なんて性器や筋肉など肉体的なもので、精神的には差はないと思っていた。彼は兄で、私は妹で、ただそれだけのことだと思っていた。その中で、彼は群を抜いて神に等しい存在だと信じていた。そんな偶像を崇拝する自分に酔い、虚妄を信仰することこそが私の安寧であった。独善的な虚構を崩されたあの夜、彼は宛てのない欲を静かに燻らせる一人の男だったのだ。
 初めて目の当たりにし───いや、今まで彼が欲の捌け口として女と戯れているのを見ていたことはあったが、その矛先が私の耳元を掠めていって漸く目に映ってしまったのだ。

 手が届く存在であると、認めてしまったがために。

 欲しいという欲が、私の中で芽生えてしまったが為に。


「目覚めてすぐで悪いが、話がある」
「はい」


 離れていく熱を、惜しいと思ってしまった。自覚して加速する生温い温度を諫めるように、空っぽの手を握りしめた。


「あの男たちはコインを探している、そう言ったな?」
「はい、恐らく雇われでしょう」


 キャプテンがポケットから出したのは二つのコインだった。二つとも色も大きさも全く一緒で、違いなんてよくよく目を凝らさないと見えないくらいだ。一つは私のバレッタと共に雑貨屋で正規に購入した、なんの変哲もない記念コイン。もう一つはその前に私にぶつかってきた男が落として、キャプテンが”預かっている“コインだ。その時は二人ともまじまじと見たわけではないが、今こうして並べてみると僅かに違いがある。記念コインには国旗にもなっている花が交差したようなデザインであるのに対し、落とし物のコインには花の後ろに杖に巻き付く蛇がいる。さながらアスクレピオスの杖だ。


「死者を蘇らせる杖ともなれば、医療財団あたりか」
「よかったですね、落とし主が現れて」
「だが、気にならないか? 真っ当な財団様がわざわざ賊の船に乗り込んで、物騒な手段を使ってまで取り返したいほどのコインなんてよ」


 偽の記念コインを眺めるキャプテンの目が怪しく光っている。これは好奇心が最大まで膨れ上がった時の瞳だ。こうなったら私たちクルーの言葉なんて届きもしない。ログはもう溜まっているとベポが言っていたし、こうなったら最後まで付き合うしかないか、と諦めて笑った。キャプテンがそれに、と言葉を続ける。


「お前だって、やられっぱなしは性に合わねェだろ?」


 目が合って、細められる。私のことをわかってくれている。それに口角を上げて同じように笑って見せれば、ペンギンに調べさせていると先手を打たれた。


「俺だって人のモンに手を出されて黙っているほど、大人しくはねェよ。明日は町を調べにいく。今のうちに寝ていろ」


 クルーとしての仕事を命じられた。キャプテンは私がどう思っているのか知っているのだろうか。クルーとして尊敬していると思っているなら大間違いだ。変貌してしまった情はそんな可愛らしいものではない。貴方が必要で、欲しいから、見失わないように後ろを着いて行っているに過ぎない。
 なんとも厄介な情なのだろう。こんなことなら、知らぬまま妄執に取り憑かれているままでよかったのに。
 キャプテンが枕元に手をついて、私の額におやすみのキスをする。かつては子供のようにその仕草を甘受していた。今となっては彼が近づく度に胸が高鳴り、視線が交わる度に世界が輝き、触れた唇の柔らかさに惑わされる。

 ああ、なんとも厄介な情なのだろう。私はトラファルガー・ローに恋をしてしまったのだ。



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