小説 | ナノ



 見張り台から見下ろす風景はいつだって美しい。時間が経つ毎に温度を上げていく燃える残滓の光がチラチラと藍の雲の隙間から濃さを増し、いくつも見えていた。それは水平線で終焉を見せ、背後からは追い立てるように宵闇が迫っている。網膜を焼くその眩い光の中、私は彼方を想う。

 それは数時間前の昼下がりの柔らかい光の中、パラソルの影の下で食後のコーヒーを啜る彼の横顔から始まる。自分の当番が終わってキャプテンとランチを食べ終わった時だ。自分の手元しか視界には映らず、あとはキャプテンと往来が記憶に残されている。会話の内容は時折抜け落ちていて、重要な会話ではなくぽつぽつと取り留めのないことを話していたと裏付けていた。人々は騒がしく、どの会話も言葉として認識できるものではなかったが、どの人も笑顔でいる。祭りで祝うと言っても結局は楽しんでいるだけなのだが、それに託けて私も美味しい食事にありつけている。なんとも平和で、穏やかな日だろう。目の前を行き交う人や舞い散る花弁をパラソルの影の下で見る光景はまるで切り取られた絵画のようだ。
 客観的に、ぼんやりと見ている。隣のキャプテンも行き先を決めていない視線を宙に置いていた。そこに音はなく、会話の言葉も忘れてしまったただの記憶。
 日差しが傾いて肌を焼く午後、その光から離された精巧な横顔は溜息が出るほど美しく、大きな感情に揺さぶられていない。藍の髪の先、金環に繋がれた耳介、意味を持つ指先、その全てが正しい。嗚呼、その様をなにかの媒体として残せないだろうか。でもそれを欲するほど私は愚かではない。だって彼は私たちが辿り着けない高みににいる孤高で、高潔で、素晴らしい人なんだから。うつくしいひとに満足げな笑みを浮かべ、持ち上げたカップに緩やかに瞳を閉ざした虚妄が映った。

 断末魔を上げるように夕陽がチカチカと赤い閃光を放つ。網膜を炙られながら、最後のより一層強い光を今朝の出来事と重ねた。

 花屋を出る際に、背後からディアナに呼び止められた。朝露を弾いてキラキラした店内の中、可愛らしいディアナが俯いて指先を弄んでいる。恥じらっているというよりは、言い淀んでいるような。小さく「わたし、」と薄紅の唇からこぼれ落ちた言葉に紐付けされてするりと続いていく。


「お付き合いされていると分かってても、どうしても諦め切れないんです」
「えっ……?」
「こんなの、初めてで」


 もたらされた言葉は不意をついたもので、言葉が続かなかった。白皙のような傷一つない肌、ぽってり熟れた果実のような唇、蝶の羽ばたきのように瞬く睫毛の中、少女のように澄んでいる瞳の奥に強い光が見える。


「はしたなく高慢な女だと思われるかもしれませんが、そんなプライドなど捨てて、私はあの人が欲しいんです。お願いします、私にあの方の側に立つ権利をください」


 もう妙齢である彼女を少女のようだと形容したのは何もその見目ではない。瞳の奥の燦々たる光の流星の中、無垢なままで汚れを知らない清廉潔白の少女がいるのだ。
 自分が何を言って、どんな思いを抱えているかは知っているだろう。そこに打算はなく、宣戦布告でもなく、純粋な懇願なのだ。その手は銃を握ったこともなく、体を暴いたこともなく、人の死に様を目にしたことがない美しい少女だ。

 それと同時に、私は彼女のようになれないのだと打ちのめされた。

 眩しいまでの白で埋め尽くされた、美しい人なのだと。生まれながらの善人というものだろうか。その潔白の前で声を出すのは憚られて息を呑んだ。少しでもお似合いかなと思った破片が私を突き刺す。
 是と答えるわけにいかないのは、演技をしているからだ。だから否と言えばいいのに、半開きの口の中には花の香りがあるだけだった。別に演技をしていることへの後ろめたさではない。見透かされたかもしれないと動揺したわけでもない。可憐な少女から向けられた真っ直ぐな眼差しに怯んだわけでもない。───私の衝動が喰らい付こうとしたのだ。これは一体、なんなのだろう。
 後ろから静かに私を呼ぶ声がする。反射的に振り返ると眩しい光の中にキャプテンがいて、まだかと言うように視線だけを此方に向けている。そして逃げるように、ディアナという女を振り返らずに私は花屋を後にした。

 もしも、彼女とキャプテンが付き合ったら。非力な彼女をキャプテンは何物からも守り通そうとするだろう。肩を抱いて、隣に立って、思慕を模した笑みを向けるのだろう。更にその二人を敵から守ろうと奮闘するのは私たちだ。酷く滑稽で、流れる血は誰に向けて誓ったものだろう。後ろで身を寄せ合う二人の弾除けになるためにこのジョリーロジャーを背負ったわけではない。向けた震える銃口の先は誰に向く。引き金は引けないまま、グリップを握りしめた手が弛緩して真っ逆さま。それで終わりだ。

 夜が来た。夜目を取り戻すために目を閉ざした。目蓋の裏に不明瞭な光が散る。本当は夜の見張りに光を見ることは許されないのだろうけど、酒を飲めないならひとつの楽しみである風景を眺めることはやめられそうにない。今日はキャプテンがペンギンを引き連れて飲みに行っている。二日酔いから復活したシャチとウニが次の見張りのために寝溜めしていて、私とペアのイッカクが船内で待機している。目を開いてもそこは暗闇一色で、下弦の月と遅れてやってきた星たちでさえ穿つことの出来ない帳といつもより騒がしい潮騒が不安を煽る。
 水筒の温いコーヒーを呷ってからジッポで照らした時計の針が定時を指していることを確認する。双眼鏡を持って立ち上がると、肩からかけていた布が無常にも私の体温を連れ去り落ちていく。四方と気になるところ。甲板と砂浜に人影なし、岩場に気配なし、海面は波がさざめいている。異常なし。イッカクに知らせようと伝声管を開いた。


「イッカク、定時連絡。こちら異常なし」
「……」
「イッカク?」
「……あ、ああ、悪いね。食堂も異常なしだよ。───それじゃ、気をつけて」


 向こうで伝声管の蓋が閉じられた音がする。数多ある違和感に一瞬呆然とした。態々場所を指定して異常なしとは言わないし、見張りの際に伝声管の蓋が閉じられることはない。吃るイッカクが言った此方を気使う言葉なんて見張りの人間にかける言葉ではない。けたたましいアラートが脳内で鳴り始めた。たったいま、異常がないことを確認したばかりなのに。足元に転がっていたバトルベルトを腰に巻いて、セーフティーを外した先日改造したばかりのトムキャットを持って甲板に降りた。物陰を見回して外には敵がいないことを確認し、左舷の手摺りにロープに繋がれた小船があるのに気付いて舌打ちをした。いつの間に侵入されたのだろう。私が阿呆にも夕陽を眺めている時かもしれない。己の失態を諫めるためにグリップで頭を叩いた後、懐から電伝虫を取り出した。数コールですぐに繋がったそれに焦燥を抱えて吐き捨てる。


「星!」
「夜鷹。ニイナか」
「えっ……あ、キャプテン……?」
「ああ。ペンギンは潰れている。どうした?」


 それで納得した。確かにペンギンの電伝虫に掛けたのに、思ったより低い声の呼応に一瞬反応が遅れた。先を促すかのような声に緊迫のトーンが混ざる。


「夜討ちです。海面側より小型のボートで乗り上げられました」


 波の音が煩く、それに乗じて乗り上げたのだろう。遠くの海面や砂浜ばかりに気を取られていたから、水を掻き分ける音なぞ気付かなかった。船を半分隠すように岩場に停めていたから、それも仇になったのかもしれない。繋がれたロープを切り離し、小船が波に攫われるまま漂わせた。


「少人数でしょうが、イッカクが敵に囚われている可能性があります。即刻始末する許可を。……申し訳ございません。私の不手際です」
「わかった、目立たないよう俺だけが戻る。お前は自分のケツは自分で拭けるやつだろ?」
「アイアイ、キャプテン」


 ───扉の軋む音がする。夜の中で動く影があった。イッカクへの提示連絡をして見張り台にも仲間がいることに気付いたのだろう。脅されても喋らなかったのかもしれない。
 甲板の上でゴツゴツと靴音が鳴る。案の定その方向へ足を向けた男の背後から音もなく近付き、口を塞いでからダガーで喉笛を斬り裂いた。ブーツの形状からして他の海賊でも海軍でもない。甲板に歩き慣れた者なら音を殺して歩くはずだ。賞金稼ぎでも少人数で賞金首のいない船に乗り込む馬鹿はいないだろう。そして飛びかかった際に思ったのは、傭兵のような筋肉のつき方だった。総合的に考えて陸の雇われの傭兵だ。そんなものに目を付けられるなんて、キャプテンは何をしたのだろう。
 滑るように船内に入って、いつもは何の警戒もしない船内が今は別物に見える。非常灯のみがこの闇夜が船内だと教えてくれた。イッカクの言った食堂のみが明かりがついており、開け放たれた扉から煌々と漏れ出していた。話し声も物音もしない。外の奴が倒されたと分かって誘われている可能性がある。3、2、1。カウントの隙間で細く息を吐き、ツーステップで食堂へ銃口を向けた。予想通りと言ったところだろう。イッカクが手を後ろで拘束されて銃口を米神に突きつけられている。その横に武装した二人の計三人の少人数だ。しかしながら、人質を取られている此方が不利である。


「目的は」
「状況は想定済みってわけか、お嬢さん。外に一人向かわせたはずだが」
「気絶しているだけだ。私達は医療集団だ、殺しはしない」
「ふん、海賊が医療従事者とは笑わせる」
「っあ!」


 選択肢は間違っていなかった。グリップで米神を殴られたイッカクが椅子をなぎ倒して無抵抗のまま倒れる。多分大丈夫だ。キャプテンから女という性だけで人質に取られることが多いからと護身術や殴られた際の衝撃緩和や受け身を習っているから。奴らと共にここを離脱したら寝ているシャチ達を起こしに行ってくれるだろう。
 あそこで素直に答えていたらイッカクは殺されていたかもしれない。医療集団とはいえ、簡単な応急手当しかできない私は除外されるだろう。キャプテンの思想に反する気はないが、現実は無情だ。元から染まっていたこの手をあといくら染めようと構わないし、彼の前に立ち塞がる困難は全て“クリア”していく。今までも、これからも。


「目的は」


 再度語気を強めて問う。仲間を倒されて怒っているように見えるだろう。そんな演技くらい容易い。


「話をしたいならまず武装を解け」


 人差し指でトムキャットのセーフティーを掛け直して近くのテーブルへと置いた。床に放るには勿体ない気がして。この前ようやく手入れが終わった可愛いじゃじゃ馬だ。ダガーやグロッグが仕舞われたバトルベルトも一緒に置いてからそこから一歩離れて両手を上げる。


「脱げ。他に武器があるかもしれん」
「つなぎだけでいい? 寒いし」
「駄目だ」


 傭兵とはいえ、男。女は何処にでも暗器を仕込むからそれの対策のためかと思ったが、その瞳の奥に劣情の炎を隠せないようじゃ三下だ。つなぎをゆっくり扇情的に脱いでいけば、薄いタンクトップとホットパンツでボディラインが出る。女体は久しぶりなのか喉が鳴る音さえ隠そうとしない。裾のチャックを上げてブーツは履いたままつなぎを脱ぎ去る。ナイフを隠し持っているからこれ以上は詮索されると困る。動きや武器を見ていると分かる。傭兵とはいえ軍隊上がりではないゴロツキだ。やはり、男は扱いやすくていい。


「馬鹿だな。こんなことでモタモタしてていいの? 仲間が来る時間を私が稼いでいるかもしれない。ならここから船を離してから、ゆっくり、ね」


 三人同時なんて久しぶり、と意味ありげに小首を傾げて目を細めれば下卑た笑みを見せて案内しろと言わんばかりに背中に銃口を突きつけられた。前を一人、後ろを二人に取られている。態と操舵室へ行く道を細い道に絞る。暗い道を進むのは容易ではないのか歩幅が狭く、ゆっくりとした速度だ。階段を下りたり、上ったり少しだけ時間を稼げば隙が出来る。


「そこを、左」


 星明かりが一番明るい時間帯の窓が続いて、その先は闇に入る。瞳孔の拡張が戻らないこの瞬間を、待っていた。先頭の男が曲がる。続いて私も曲がる。後に並んでいた男のうち私の背に銃口を向けていた一人の男も曲がってきた瞬間に飛びついて銃口を下に向けて発砲した。


「ッぅおオ!!」
「ッ、!? くそッ!」


 足の甲を撃ち抜いたそれに怯んだ隙に銃を抜き取り、悲鳴に気付いた先頭の男が振り返って銃を向ける。壁に沿って這っている配管を蹴って後ろにいたもう一人の男の背後に回り、弾除けにする。飛び散る血飛沫を避けるように屈んで弾除けの男の脇腹から二発発砲した。それが先頭にいた男の肩と太腿に当たって倒れ込む。すると足の甲を撃たれた男が雄叫びを上げながら襲いかかってくる。体を反転させて二本の腕を掻い潜り、まるで身を預けるようにその胸へ背中を付け、顎下に銃口を当てたまま発砲した。


「三回目だ。目的はなんだ」
「くそビッチが……この船の乗組員の抹殺とあるコインを盗んで来いと言われた、それだけだ」
「あるコインとは?」
「知らねェよ。あんたらなら知ってンじゃないのか?」
「残念ながらうちのキャプテンが収集家という以外検討もつかないね。次からは此処に来る前にアポイントを取ってよ」


 汚い罵りの言葉を吐いてまだ隠し持っていた銃を構えた往生際の悪い男の胸部へ発砲する。薬莢の落ちる音が響いて、硝煙が立ち込める。深く呼吸をしようとして咽せてしまった。銃はありきたりのものだが弾は貰っておこう。思わぬところで物資の調達ができたなと屈むと同時に慌ただしい足音がする。


「ニイナ!」
「おはよー、シャチ。おかえりなさい、キャプテン」
「……お前がやったのか」
「正当防衛ですって」


 走ってきたのはシャチと戻ってきたキャプテンだった。イッカクはウニに治療されているのかな。惨状に眉を顰めるキャプテンにへらりと笑って持っていた銃を見せて自分のものではないとアピールする。


「ところでキャプテン、この方達は何かのコインを狙っていたらしいですけど心当たりは?」
「コイン?」
「この中で記念コイン収集の趣味があるのなんてキャプテンしかいないじゃないですか。今度はなに悪いことしてきたんです?」
「あー、前に今は製造していないからってわざわざ博物館から盗んだりしたしな!」
「あのまま埃被るくらいなら、価値のわかる俺が引き取るって交渉しただろ」
「その怖い脅迫にも屈しなかったから盗んだんじゃないですか」
「で、今回は何処で盗んだんです? 結構その辺で売っていましたけど」
「正式に購入した以外、心当たりは───」


 あ、とキャプテンが珍しく目を見開いて私と視線が合う。心当たりなら、一つあった。
 その事実を言葉にしようとした私の視線が何かを感じ取ったようにスライドする。壁の配管の一つに小さな計器が取り付けられていて、その針は今は動くことはない。針ではない。動いたのは、計器のガラス面に映る背後の死に損ないの男の銃口がゆっくり上がる瞬間だった。振り返り様にキャプテンを庇うように立ちはだかり、トリガーを引く。銃口が二つ重なる。私の銃声は男の眉間に吸収され、男の9ミリパラベラムは私の脇腹に命中した。勢いを殺しきれなかった体がよろめいてキャプテンにぶつかり、支えきれなかった体が床に崩れ落ちる。


「ぁッ……ぐっ……!」
「ニイナッ!!」


 床と接触する前にキャプテンが支えてくれて、服が汚れるのも構わずに私の傷口に止血のため手を当ててくれる。なんて優しい人だろう。大声で私を呼ぶ声とシャチに荒く指示を出す声が遠い。
 この人もこんなふうに取り乱すことがあるんだ。まるで、人間みたいじゃないか。
 傷口は焼け続けるように熱いのに、体はどんどん冷たくなっていく。視界が鮮明と朦朧の狭間で霞んで、痛覚と意識が乖離する。荒い息を噛み殺して、一瞬だけ意識を保つことを許してほしい。忙しない肺の隙間から声帯を震わせる強がりをちょうだい。
 ずっと呼びかけていたのだろう。辛うじて顔を上げた私とキャプテンの視線が合った。表情を見る余裕はなかった。知らないその顔の感情を探る余裕なんてなかったから。


「……これで、おあいこです、ね……」
「ニイナ……? おい、ニイナッ……!!」


 知らない人の呼びかけを最後に、私は意識を手放した。聴覚も視覚も意識もなくなる手前に届いただろうか。心配なんてしなくていい。クルーである私はただ、揶揄の通り笑えていればそれで充分なんだ。



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