小説 | ナノ


 昨夜は全ての記憶を空っぽにして無理やり眠った。浅いレム睡眠のみで主に眼球の疲れが取れず、体が重たい。朝一の買い出し担当であった私は大きな溜息をついてから朝食のパニーニを買い込んでいた。


「おっちゃん、あとポテトとコーヒー」
「あいよ。お嬢ちゃん、お疲れかい? それならがっつり食わねェとな! おまけしとくよ」
「ありがとう。お釣りはいらないから」
「おう、良い日を」


 微々たる釣りに合わない程の量のポテトをどっさり紙袋に詰められる。受け取った大きな紙袋を抱えて、まだ温かい袋の口からパニーニの香ばしい匂いがする。もう片手に持ったコーヒーに口をつけると熱すぎて舌先を焼いてしまった。痛みに怯んだあと、彷徨った手はまだ飲めないと判断して下に降ろされる。
 このまま船に帰って少し遅めの朝食にするか、まだ観光客も疎らなためどこかのベンチで食べるか迷っていた。船の中には昨日の二日酔いを抱える野郎どもがゴロゴロ転がっている。多分「勿体ねェだろ」と言われて酒抜きされなかったのかもしれない。自分の飲める許容量くらい学習しないのは自業自得だが、あの艶かしいバーで羽目を外したい気持ちはわかる。しかし当番を代わる気はさらさらない。
 昨夜は。ふと足先がタイルの凹凸を蹴飛ばしてしまい、よろめく。露店の影の中、流れる水の音の中に紛れて垣間見えるそれが、私を苛む。今までもっと際どいものは見たことがあるし、接触だってないわけではない。キャプテンが路地裏で美女の唇を貪っていたり、二人で酔って縺れ合うように押し倒されて添い寝したり。何度だってあるじゃないか、そんなこと。何の感情の起伏もありはしなかったじゃないか。なのに昨夜は。
 酒のせいにできるほど酔っていなかったし、暗闇や照明のせいにするには現実味がない。私の体内にある歯車のどこが噛み合わなくなったのだろう。まるで、私ではない乖離した何かの思考につられているような。ぞわりとした気持ち悪い冷たさが身を冷やす。間違いだとは疑いたくないのに、そうであってほしいと願ってしまう。名もなき昨夜の男の人は幻であり、キャプテンは高潔なまま変わることなく、私の主であると欺いて。


「……あ、」


 建物の影の中から出た瞬間に光に目が眩む。不快なそれに目を細めて顔を上げると、遠くにキャプテンの高い背を見つけた。今朝は会うことがなかったものの、こんな早くに起きて外に出ているのは珍しい。それか一睡もしてなかったのかな。太陽光のおかげか昨日見た幻は霧散していて、私たちのキャプテンの背中だった。


「───キャ、」
「あっ、あの!」


 可愛らしい、小鳥が囀るような声がした。高身長のキャプテンに隠れていて分からなかったが、少し顔を傾けてみると少女から抜け出したばかりの女性がいた。そんな一目見て可憐な乙女だとわかる女性が可愛らしく頬を染めている。上目遣いの合わせ技なんて卑怯だぞ。
 世間一般の男性は、あのひ弱で可憐な少女に好意を寄せるだろう。キャプテンも普段は夜の女性ばかりを侍らせている姿を見るが、こうして朝の光の下だと可愛らしい女性もまた似合う。庇護欲が駆り立てられて存外甘ったるい一面を見せそうだ。更に言い澱むようにもじもじとする仕草もいじらしい。
 女性は花屋のようで、傍にある店の前には綺麗な花が朝露を弾いて輝いていた。見上げたキャプテンの短い髪が日に透けて藍色となり、円やかな頸と溶け込むようにして曝け出されている。爽やかな朝の日差しと手元にある朝食の良い香り、そこにキャプテンがいれば私は妹になる。ポテトいっぱいあるから一緒に食べましょう、と。私が再度呼びかけようと口を開いて言葉を発するより、女性が半ば押し出すように張った声が先制した。


「と、突然こんなことを言うのは不躾かもしれませんが……わ、わたしと、お付き合いしてください……ッ!」


 ─────────は?


「ッ……!?」


 唐突に振り返ったキャプテンに危うくコーヒーを落としそうになった。そのキャプテンは鋭い眼光の中に焦燥の感情を滲ませて、私の姿を捉えると大きく目を見開き驚愕を露わにした。珍しい彼の姿に此方がだじろぐ。どうしたんですか、という言葉がわたしの口の中で渋滞を起こして不明瞭な言葉しか出なかった。


「……お前、誰かに……いや、今誰かいなかったか?」
「えっ、いえ……? 私一人ですが……?」


 私の返答にキャプテンが不審そうに片眉を上げたが、それ以上の追求はなかった。一拍遅れて、全てを把握した。そうして、やってしまったと後悔してからでは遅い。
 キャプテンが俊敏に反応したのは殺気だ。何もなかった場所から急にそれを向けられて焦ったのだろう。そこへのこのこと近付いた私が標的だったのかと思い、問うたのだ。しかし反応は芳しくなく、一クルーである私でさえ感じ得ない殺気にも似た寒気の正体をキャプテンは決めあぐねているようだった。そして周囲を見渡してこちらに敵意を見せる人間がいないことを確認すると、誤魔化すように私のコーヒーを奪って口を付けた。流石に適温になっているであろうそれを喉を鳴らして飲む様を咎めようとはしなかった。
 だって、その殺気を出したのは紛れもなく、私だった。


「も、もしかして……お二人はお付き合いされているのですか!?」
「えっ……、ああー……はい、ソウデス」


 ちらりと見上げたキャプテンの見下ろす瞳が適当に合わせろ、と雄弁に語っていた。確かに唐突とはいえ、告白を断るのは此方が何も悪くなくても後ろめたい。更に昨日は新婚なんていう演技をしたのだ。話をどこかで聞かれているとしたら、少しでも合わせておくに越したことはない。


「そうならそうと早めに仰っていただければ……嗚呼、人様のものを誑かそうなんてなんてはしたない……大変申し訳ございませんでした! お詫びと言っては何ですが、此方を是非受け取ってください!」


 苦笑いの肯定だったが、少しばかり感情が先行しやすい女性は信じてくれたようだった。彼女から押し付けられた物を両手で受け取ってしまい紙袋を落としてしまいそうになったが、寸でのところでキャプテンが掴んでくれたおかげで中身を溢さずに済んだ。手渡されたものは花冠で、全てこの祭りで使われている白い花で統一されている。シンプルながらも編み込みは丁寧でしっかりしており、花も朝早く摘んだばかりのような青い香りが瑞々しさを自慢していた。


「朝っぱらから店前で騒いでどうしたんだい、ディアナ」
「お姉ちゃん!」
「あれ、あなたは……」
「あっ、アンタは前の島の!」


 店の中から顔を覗かせたのは見たことある女性だった。前の島でひったくりにあっていた女性で、たまたま進行方向から犯人が走ってきたので足を引っ掛けて鞄を取り返しただけだった。散々お礼を言われて、その特徴が特徴なだけに此方も覚えていた。女性はファッションデザイナーでショーのためにたまたまその島に来ていたらしいが、どうやらその業界は華やかなだけではない。ひったくりも金銭目当てではなく、一人でもライバルを減らすために雇われて仕事道具の入った鞄を盗むらしい。女性は時間がないからとお礼ができないことに後ろ髪を引かれながら急いでその場を後にしたが、此方にとっては業界の闇を垣間見たな、という感想だけが後に残った。


「本当にあの時はありがとうね!」
「いいえ。ショーには間に合いましたか?」
「もちろん! いいコネクション先が増えてさ、今はその仕事に取り掛かっているところさ。ディアナ、前に話しただろう。私がひったくりにあった際に助けてくれた子ってのがこのニイナちゃんだよ」
「えっ、凄いです……正しく運命ですね!」
「よかったら入りなよ。朝食食べるならお茶だすからさ」


 キャプテンが持つ紙袋を見た姉が目配せをする。夢見がちなディアナが目を輝かせて、姉のあとに続き是非どうぞと促すものだから断れない。ちらりと見たキャプテンに小声で何故この場にいるのか状況の確認をしつつ、許可を取ろうと口を開けた。


「……キャプテンってああいう子がタイプなんですか? 意外です、てっきり夜のお姉さんたちみたいに場数を踏んだ女性が好みかと思いましたが、あんなウブな少女がお好みだったんですね」
「馬鹿言え。あの花について聞いていた所だ。花の薬効通り大した話はしていねェよ。作用は鎮静だが弱めだ。新しい麻酔薬を考えていたが、あれじゃ精々睡眠薬の補助止まりだな」
「つまりアロマですね。次は薬屋にいって薬剤の精製方法聞きに行きましょうか」
「ああ。お前こそ大したことしてんじゃねェか」
「たまたまですよ、たまたま」


 キャプテンが店内に入っていくので私もそれに倣った。店内は植物園のように草花が生い茂っていて、それのどれもが丁寧に手入れされていた。端の窓際に小さなテーブル席があり、そこにティーカップが二脚セットされている。それぞれ席につき、お言葉に甘えて私は漸くパニーニにあり付いた。もっちりとした釜焼きの香ばしい生地に、シャキシャキした新鮮な水菜と厚切りでジューシーな肉汁が滴るベーコン、とろけて糸を引くまろやかなチーズとピリッとしたアクセントの粒マスタードの風味が堪らない逸品だ。全てが上手く纏まっており、屋台で出す品としては勿体無い。夜はダイニングバーとしてやっているようだから、後日誰か誘って行ってみよう。


「……なんで芋が多いんだ」
「おまけで貰っちゃいました」


 キャプテンは食べるものがないので私のコーヒーを奪い、恨めしそうにポテトを摘む。しかしその手を止めないのは腹が減っていたのか、それとも気に入ったからか。あのダイニングバー、米料理はあるのかな。
 飲み物がなくなった私は手元にある淹れたての紅茶に口を付ける。僅かに花の香りがする。すっきりした甘味もあり、正しく私の好みだった。フレーバーティーより主張せず、ハーブティーより飲みやすいそれが気に入った。


「美味しい……」
「それはよかったです。よろしかったら茶葉をお裾分けしますね。前に姉を助けていただいたお礼です」


 ディアナが持ってきた袋にたっぷり入った茶葉の中身にはあの白い花弁が入っていた。この花はこの島に住む人間の生活に寄り添い、収穫祭は誉なんだなとしみじみ思う。軽く礼を言って受け取ると、ディアナも微笑んだ。こうして見ると感情が先走ってしまう点を除けば見目麗しい女性だなとひっそり思った。


「さっきも思ったけど、アンタ結構いい男じゃない? どう? 私と熱い夜を過ごさない?」
「お姉ちゃん! その人はニイナさんの彼氏さんだよ!」
「ああ、だから花冠持っていたのか。被っていないからまだなのかと、てっきり」


 そしてその猪突猛進なところは姉妹揃って遺伝らしい。今度は姉の方がキャプテンの頬に手を添えて口説いたものの、その手を払われた挙句既にお手付きだと判明してもあっさり納得したのは妹より場数を踏んでいるからか。はたまた断られることを分かっていて冗談で口説いたのかは分からないが、キャプテンは相変わらず煩わしそうにコーヒーを飲んでいるだけだった。付き合っている設定にして良かったと思っているのかもしれない。その設定を付けていても強引に迫ってくる女もいたが、今回は役に立った。
 そしてそれは先ほど押し付けられた花冠に関わっているらしい。


「そうだ、この花冠ってなに?」
「年に一回、この収穫祭は開かれます。その時に付き合っている男性が女性にその花冠を贈ります。そうすることで付き合っている方がいると主張できるんです」
「祭りで浮かれてナンパされるからねぇ。余計な男避けってことで贈るのが習慣化したんだ。旅行客にも土産に人気だよ」
「流石に生花なので枯れてしまいますが、ドライフラワーにして部屋に飾っている方も多いですよ」


 つまり付き合っている男がいるという主張と、男のマーキングを兼ねているということかと納得した。昨日から確かに道行く女性が花冠を被っているのをちらほら見かけたが、そういうことなのだろう。毎年贈られればそれだけ年月を重ねた証でもあるし、別れたとしても生花だから捨てるのも楽だ。昔は処女の証だとかあったらしいが、現在はナンパ避けで買う独身女性も多いらしく、ファッション目的もある気軽なものらしい。まあ、ナンパされたとしても路地裏に誘い込み気絶させる手間が省けるなら被ってて損はないだろう。何より、可愛いし。
 単純にも被り出した私を、いつの間にかポテトを完食して肘をついたキャプテンが「お前に必要ないだろ」という目線を投げかけてきたことに関してはちょっと物申したい。


「そういえば街中で稀にキラキラした花冠付けた人見かけたよ。白じゃなくて」
「ああ、もしかして銀色の花の方ですかね!」
「同じ花なんだけどね、純度が高くて希少なのが銀色の方なんだ。白い方のグラムあたり三十倍の値段するよ。食用には向かないが、薬にするには最適らしい」


 いま、キャプテンの眉がぴくりと動いた。


「うちでもよく作っていました! もしかして去年うちで作ったお客さんだったかもしれませんね。銀色の花は不思議なことに特別な処理を施さなくても枯れないんです」
「だからその花冠を付けているのは夫婦だね。永遠の愛を誓う、プロポーズの時に渡すんだ」
「白いのと銀色のとで意味合いが違うんですね」
「……その花は何処で手に入る?」


 珍しくキャプテンが口を開いたかと思うと、やはり新薬の麻酔薬が忘れられないのだろう。最悪盗む気だ。その悪い顔には見覚えがある。とある研究所から希少な純度の高い薬品を盗んだ時と同じ顔をしている。私もそれにお世話になっているからあまり文句は言えないし、窃盗なんて可愛らしい犯罪を今更重ねたところでキャプテンは痛くも痒くもないだろう。この姉妹はその言葉で彼女にプロポーズしようとする彼氏に見えただろうが、まさか目の前の男が名だたる悪党だと気付いていないようだ。こんな悪人ヅラしているのに、と思った私の心を読んだのか一瞬キャプテンが流し目で睨んできた。その通りです、すみません。


「あー、それなんですが……」
「どうやら今年は収穫量が少ないのか一般には出回らないんだよね。噂ではカンパニーが買い占めたって聞くけど」
「カンパニー?」
「目の前の水路の向こうに教会があるだろ? それを囲っている木を抜けるとでっかい古城がある。そこがこの花を研究しているカンパニーのオフィスだよ」
「取り壊し予定があったんですが、観光地にしつつ上階を研究所にしているらしいですよ。一階部分は見学できるらしいので、是非」
「特に見所はないと思うけどね。ただ当時のまま残されているものも多いからマニアにはたまらないらしい。あ、紅茶おかわりいれるよ」


 その話を聞いてまた興味を無くしたキャプテンが顔を背けた。手に取るようにわかりやすい。カップを取る姉が屈んだ瞬間、襟口から鎖骨下に何か刺青を入れていることに気づいた。何かのモチーフなのかもしれないが、見たことがあるかもしれないのに思い出せないその形を目で追った後、はらりと頭の上から落ちてきた一枚の花弁に視線を持っていかれた。店先から声がかかって、ディアナは来店した客の接客に向かった。二人きりではあるものの、念のためと声を潜めたキャプテンに耳を傾ける。


「お前、これからどうする」
「買い出し再開します」
「なんだ、当番か。何もなければまた荷物持ちにしたんだが」
「キャプテン、本音出てますよ」
「終わったら三軒先のカフェに来い。昼飯に付き合え」


 それ付けてな、とニヤリと揶揄われる。手伝う気はないが、労る気はあるらしい。これは奢ってくれるやつだ、と現金な私は昼までに買い出しを終わらせようと、おかわりで出された温かい紅茶を飲み下して誓った。



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