小説 | ナノ



「くそ、酔っ払いどもめ……」
「あっれー、ペンギンがいるぅー! お姉さんどこー!?」


 此方にまで酒気が届きそうなほどシャチは顔を真っ赤にさせて、肩を支えていたペンギンが離せば地面に寝転がった。ケラケラと上機嫌に笑い、ペンギンの脚に纏わり付く様は正しく酔っ払いだ。他にも数名頭を抱えて蹲っている。というか、半分寝ている。
 船番をしていた私とペンギンの元に一本の電話が鳴ったのは一時間前程である。とある酒場で酔っ払い数名が騒いで叩き出されたので連れ帰ってほしい、という一報だ。その連絡を寄越したのは紛れもなくこの船の長であるキャプテンだった。仕方なしにペンギンが迎えに行き、叩き出された数名を抱えてきたもののこの有様だ。私一人でここを離れるわけにもいかないし、これから交代をするクルーを起こすのは気が引けたためペンギンだけが単独で行ったが、失敗だったかもしれない。軟体動物のように掴めないシャチを蹴り飛ばすペンギンの機嫌は急降下だ。一体どれほど飲んだのだろう。


「キャプテンは?」
「まだ残ると言っていた」
「今は宿取ってないんだっけ」
「ああ。この祭りで他の観光客で埋まってるらしくてな。悪いがニイナ、キャプテン連れ戻してきてくれないか?」


 私が、と自分を指してジェスチャーするとペンギンが深く頷いた。あとは足元に転がっている意識のない土嚢数体を寝床まで転がして、少し早いが交代にバトンタッチすれば船内の見張りは恙無く終わる。まあ確かに力のない私が彼らを運ぶよりはいいかもしれない。何より彼らの酒抜きを出来るのは能力的にキャプテンしかいない。
 だがしかし、万が一にも女の所に泊まるつもりならどうするのだろう。そして私が酒場に着いた時に隣に美女を侍らせていたらどうしてくれるのだろう。彼も一人の男であるし、一介の船の長であるし、何よりその美貌がある。この場にいない男たちのようにその柔肌を食い尽くそうと、それは正しい行いなのだ。
 だからペンギンと共に帰船せず、わざわざ迎えに来いということはまだ飲み足りないのか、女を侍らせたいのか。あとは単純に手持ちが少ないのか。何度かこういったことはあったし、その時起こったあらゆる予想を立てて、着替えてからふらりと夜の街へ足を運んだ。水の音と匂いが昼間よりも感じられて、往来の喧騒も何処へやら。落ちている花が白いからか、薄く発光しているようにも見える。月明かりで足元は確かだ。冷たい月明かりと涼やかな水面を撫でた風。穏やかで、和やかな夜だった。

 指定されたのは昼間通った大通りよりまた少し歩いた先にある。落ちている花弁も見当たらなくなり、妖しいネオンばかりが所々光っている。饐えた臭いと時折路地裏から聞こえる囁き声に健全な場所ではないことはすぐに分かった。表の居酒屋で海賊が騒ぐわけにもいかないし、妥当だろう。まだ店前に柄の悪い用心棒がいないだけマシだろうか。指定されたバーのよくわからないペイントを付けた黒い扉を潜る。
 鼓膜を揺さぶって控えめなピアノが後を引く音楽だった。短い階段を降りれば、薄暗い店内をブルーの照明が照らす。端の方に間接照明があるくらいで、世界は青く染まっていた。カウンターにいた上品を装った店主に声をかける。


「マッカラン。なんでもいい、シングルで」


 札をテーブルに置くと、それを手にした店主が軽い一礼をした後に背後にあるボトルに向き直った。目線を滑らせて奥のホールを見遣る。青いスポットライトの照らされた台座とそれに突き刺さるポールに女が艶かしい肢体を巻きつけている。店主の上品そうな服装とバーにしては静かな音楽のおかげか店内は騒がしくない。まるで女体を美術品のように魅せているが、結局のところは劣情を誘うストリップだ。乱痴気騒ぎが起きるよりはまだいいが。


「渋いもん飲むじゃねェか、姉ちゃん。女はプッシーキャットで十分だろ」


 カウンター席に座る男が下品な笑みを浮かべて人の尻たぶを掴む。全く唆られないそれに私が好きにさせるほど落ちぶれた女だと思っているのだろうか。


「マスター? 貴方の創ったこの芸術的なショーを悲鳴で塗り替えるのと、この下等生物を追い出すのは何方が売り上げに影響するかしら?」


 直立不動で何もせず、言葉も発しなかった私が恐怖に怯えているとでも思っているのだろうか。グラスを持ってきた店主に真っ直ぐ口を開く。羽織っていたジャケットに隠れて見えなかったのだろう。男が触ってきた時には既に懐から銃を抜き取って構えていたし、相変わらず気付かない男に呆れて少しばかり銃身を見せた。分かりやすく強張る手と、睨み付ける店主の視線に怖気ついたのか不明瞭な声が漏れる。手が離れたことを見届けると銃を仕舞ってグラスを片手にそこを離れた。
 一口舐めてみたが、思ったより上等なものが来て良かった。どうせ長居しないし、と出した金額は大まかなものだったからぼったくられる可能性もあった。もしかして店主は見ていたのかもしれない。だったらそれはそれで胸糞悪くなる。やっぱりサイレンサーでも付けて一発御礼しておけば良かったかもしれない。
 青いライトが境界線を曖昧にする。布面積の小さい下着を付けた女が高いヒールを生かしてポールをくるくると回る。筋肉もさることながら、そこに女の肉を保つ事は日頃から努力しているからだろう。同じ女である私だってその魅力に敬意を払って芸術だと思う。軽蔑したり嫌悪したりはしない。ただ、それを性的な娯楽の一つだと嗤う醜い人間が嫌いなだけだった。
 仰け反った白い腹が青い光に負けずに輝いている。逆さになった世界でこの場に女がいるのが珍しいのか、大きく目を見開いた後に笑いながら此方にキスを投げて寄越した。目を細めてそれを見遣った後に持っていたグラスを舐める。
 あまり広くない店内とはいえ薄暗くて目的の人を見つけるのはなかなかに難しい。てっきり女を侍らせているかと思ったが、意外にもキャプテンは散らかった広いテーブルにひとりで飲んでいた。そこにシャチ達もいたのだろうが、叩き出された後も席を変えずにいたのだろう。ソファに腕をついて踏ん反り返っていても、彼なら下品と感じないのは昔からの疑問だった。既に私に気付いていたのだろう。此方を真っ直ぐに見据えてニヤニヤと笑って揶揄われている。青い光が届かない薄暗いそこから射抜くような金の瞳だった。いつもより視線が鋭いような気がするのは気のせいだろうか。顎で隣を指し示され、従うようにテーブルにグラスを置いたのちキャプテンの腕の中に座った。


「帰りますよ」


 その声はフォルテにかき消された。唇の動きで伝わればいい。何も言ってこないキャプテンに仕方ないと溜息を吐いた後に正面のショーを眺めた。逆さになった女がポールを回りながら落下する美しい光景だった。乱れた髪を掻き上げて劣情を誘うように豊満な胸をポールに寄せてその形を変えている。
 不意に、肩を掴まれて引き寄せられた。一緒に傾けられた体に頭がぶつかる。何事だと顔を上げようとした私の頭を抑えるキャプテンの声が、鼓膜を揺さぶる音楽の合間から耳元に吹き込まれる。


「……もう少し、いい子で待っていろ」


 ───びくりと大きく体が戦慄いた。その動作に気付かなかったのか、吐息の体温が離れていく。肩に置かれた腕を残したままで。
 低く、ザラついた声だった。それが私の脳に引っ掛かって落ちていかない。掠れた音が尾を引いていつまでも鼓膜に残った。今まで聞いたことのない、男の声だった。何処かで駄目だと言っている。理解してもなおそっと顔を上げてしまった。顔は正面を向いていたからまたショーを見ていたのだろう。私の動きに気付いて瞳だけが見下ろす。初めて見る色を含んだ金色だった。それが徐々に細くなってゆったりとした瞬きの後にまた正面を見据える。青い色を反射した冷たい金色に私が映っていないことに言い様のない寂寥が生まれた。産声を上げるそれと鼓動がやがて共鳴する。たったそれだけの一抹。暗闇に浮かんで瞬きの度に過ぎ去る閃光が、馬鹿のひとつ覚えのように擦り切れるまで脳内で繰り返された。
 何なのだろう、これは。肩に置かれた腕よりも身を寄せている彼の体から熱を感じる。どれくらい飲んでいたかわからないが、少しは酔いが回っているのだろう。だけど、そんな熱で誤魔化せる視線ではなかった。声も視線も、私の知らない人のようだった。

 此処に、迎えにきたキャプテンはいなかった。在るのはただ、知らない、男の人だった。

 どくり、と気味悪く心臓が脈打った。そしてどろどろとまるで蛇のように血液が流れる音を腹の底で聞いた。
 徐に私の分のマッカランを呷った喉仏を見せて隣の熱が立ち上がる。ジーンズの後ろポケットから財布を取り出して数枚の札を、ナッツが散らばる皿や汗をかいたグラスを避けてテーブルに放った。半端な金額に支払いは済んでいたのかと、慌てて私も呆けた世界から財布を取り出して見物料を払おうとした手を緩く絡め取られた。もう払っている、ということだろう。
 大きな、固い手だった。乾燥した冷たい指先が、切ない熱を持つ私の手の甲と共有するように混ざり合う。青い暗闇にゆらりと浮かぶ広い背中は、昼間見たものと同じだ。それなのに、どうしてこんなにも違うのだろう。彼の背を追うことを許されているはずなのに、何かが違う気がする。幸福に疑問を持ってしまってはいけない。解けてしまうような気がして指先に力を込めると、それに呼応する掌が深く繋ぎ直された。
 繋がった先の大きな背が導くままに私たちは店を出る。作られた暗闇より、月明かりの綺麗な人気のない通路の方が明るかった。全てを暴く月光の下を避けるように細い路地裏の暗闇の中から蠢く気配はいくつかある。それのどれもこちらに関心はないようで、響く靴音に紛れてやがて消えた。私達は今だに手を繋いだままだった。キャプテンが離してくれなかったせいでもあるし、私もまだ離してはいけないと思っていたからだ。
 どう、言い訳をしよう。そうやって言い訳を探す自分に内心驚いた。いつもなら理由なんて必要ないし、お互いに気にしたりしなかった。だから目の前を舞う埃に気付いたように、なんてことなかった日常に名前をつけようとする自分がまるで他人のように感じられて、動揺を隠し切れない。靴音も、耳鳴りも、鼓動も、静寂も、月明かりさえ煩かった。ここは何処で、私は誰に手を引かれているのだろう。


「……キャプテン、」


 吐息のように吐き出した固有名詞に歩みを緩めた彼が振り返る。気まずさを誤魔化すために、知らない人の名前を呼んだことを後悔した。背の高い彼が無表情を携え、月を背負ってこちらを見下ろす。逆光の中でもその眼光だけは真っ直ぐに私を射抜いた。まるで、妹という立場に甘んじて微睡んでいる私の心臓を貫くように。奥底で燻る熱の名前を知らないわけではない。彼も一人の男であるし、一介の船の長であるし、何よりその美貌がある。この場にいない男たちのようにその柔肌を食い尽くそうと、それは正しい行いなのだ。
 しかしそんなものは漸く目の当たりにしてから綺麗事だったのだと、心臓から下腹部までを深く突き刺した。

 冷たい月明かりと涼やかな水面を撫でた風。背中を薄寒い気配が産毛を逆立てるように駆け抜けた。

 何も変わっていないのに、何かが生まれた恐ろしい夜だった。



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