小説 | ナノ




 知っている?
 お金って、何でも買えてしまうんだよ。
 美味しい食事に可愛い服や煌びやかなアクセサリー。人の信頼や命まで何もかも、全て。あればあるだけ、使えば使うだけ損はしない。この世の全てを支配するのは人徳でも力でも統治でもない。その全ては金で補えるのだから。
 でもただ、一つだけ。たった一つだけ買えないものがある。

 死んだ人の魂までは、大枚叩いたって買い取れない。


「どうかしましたか?」


 揺れていた視線を隣の女性に移す。他を彷徨っていた思考も帰ってきて何でもないと曖昧に返した。シャンパンのグラスから真っ直ぐに気泡が立ち上り、辺りに華やぐ香りが弾けるようだった。
 とある資産家のパーティーだった。豪勢にも大きなダンスホールには各島からの重鎮や見たことのある貴族達がひしめき合う。これだけ居れば偽装した招待状さえ気付かれることさえないだろう。少しだけ拍子抜けだ。


「……あら?」


 揺れるドレスやタキシードの隙間から何処かで見た顔が覗く。端正な顔には見覚えがあって、隣のパートナーに秘密事をするように口元を寄せる。


「あの素敵な殿方はどなたかしら?」
「トラファルガー・ロー氏です。ハートの海賊団船長で、このパーティに立ち寄った目的は恐らく次の島の……」
「……ふうん。ありがとう、また後でね」


 子飼いにしている情報屋の女に視線を一瞥してからグラスを呷り、人並みに紛れ込む。ちらりと余所見をすればトラファルガーも抜け出す所だった。決めあぐねていたピースが全て埋まる。私の目的のため、彼の目的のため、利害の一致のためにシナリオを書き直さなくては。





「ごきげんよう、トラファルガー・ロー氏」


 薄暗い室内で心許ない明かりは一人の女の横にある蝋燭の火のみだった。そこに艶美に笑む様はこんな場所でなければどんな男でも目眩がするほどだろう。何せその足元には開いた金庫と二つに分かれた袋が置かれ、手にはローが求めていた手紙が握られていたのだから。
 あまり事を大きくしたくないが仕方ないと右手を上げると、知っていたように女が制止の声をかける。


「ああ、待って。別に私は争い事をしたいわけではないのだよ」
「……何が目的だ」
「大した事じゃないさ。私の出した条件を飲んでくれるならこの招待状を譲ろう。そうだな、担保もほしいからここにある袋の一つもつけよう」


 どうやらその条件とやらは大層なものらしい。ローとしては今ここにない鬼哭を取り寄せることは可能だが、見たところ手練れというわけでもなさそうな女の心臓をいつ抜くかということばかり考えていた。ただしそうするには手に持つ招待状が近付きつつある蝋燭の火に触れてしまう。選択は一つのみに絞られた。大人しそうな顔をして度胸はある。


「……」
「無言は肯定と受け取ろう。君はこの招待状を盗み、次の島で手に入れるつもりだったんだろう? "マリアの瞳"を」
「知ってるのか」
「ああ、勿論」


 目的を知られる失態に目を細める。自信に満ちた女の笑みは絶やされない。着ているドレスや装飾品を見ればいい所のお嬢様と言っても過言ではない。だが、不敵に笑むその手に握られるローの命運を隙も見せずに弄ぼうとする様はどこぞのご令嬢とはかけ離れている。
 ローが探しているのはまさしく"マリアの瞳"と呼ばれる薬だった。だがそれがどんな薬かは曖昧としてて、ただ一言「若返りの薬」とだけ伝えられていた。形状や効能効果は調べても出て来ず、居場所さえ突き止められなかった。しかしとある伝手から得た情報によると次の島の美術館に存在するという。更にそこで行われる一週間通して行われる会員限定記念パーティーの時期と被るため、一目拝もうと招待状を拝借しようとしたまでだ。


「私はこの招待先である美術館のとある絵画が見れればいい。君はこの美術館にあるという"マリアの瞳"が欲しい。だがこの美術館へ行くには男女ペアがドレスコードだ。ほら、後はわかるだろう?」


 翳された手首を振ると束ねていた招待状が露わになり、人数分の手紙が揃う。封を任された蝋がちろちろと炎を映し出す。もう後には引けない。担保と称して凡そ三千万ベリーが入っていると推測できる資金が手に入るし、罠だとしても逃げ出せる能力はある。利用されることは癪に触るが、"マリアの瞳"のことを知るただ一人の情報源を逃すわけにはいかない。損得を天秤にかけ、舌打ちをして肯首を返すと片方の招待状を差し出された。


「契約成立だ」
「"マリアの瞳"とはなんだ」
「それは次の島に来てくれたら話そう。それでは、ごきげんよう」


 ひらりと手を振られてしまえばそれ以上聞きだせるはずもないと理解する。全てが後手で、こちらの手の内さえ知られている。ローが最も嫌いな女だ。能力で担保と共にパーティ会場を後にする。見上げれば華やかな明かりを窓から零れ落とすのに反し、薄明かりの主催者の書斎は静かに閉ざされたままだった。





 船の一週間の旅路も天候が荒れるわけでもなく、敵や海軍と当たるわけでもなく、海獣が襲いかかってくるわけでもない緩やかな航海だった。ちょうど着く頃には美術館のパーティーも四日目となり、人も落ち着いてきた頃合いだろう。
 航海の最中、例の女からロー直通の電伝虫へ連絡があった。教えた覚えなど勿論ないので何故知っていると問えば、情報網など手の内だと言う。その後集合場所を一方的に告げられ、すぐに切れてしまえばこちらから連絡など取れない。仕方なしにローはゆったりとした波を背中で感じながら、ベポの腹を枕に昼寝を堪能した。
 そこの時計台の下、昼下がりの麗らかな陽気の中で待ち合わせだった。ローの腹の中は陽気とは真逆だったが、プライドを押し込めてでも知識欲が顔を出す。道端のレンガを睨み舌打ちを零すも気が晴れることはない。罠だったら心臓を抜き取ってから先日のパーティー主催者の目の前へ捨ててやると心に決めて。


「そんなに眉間にシワを入れると取れなくなってしまうよ」
「……うるせェ」


 呆れたようなため息をついて現れた女は前のイメージとはかけ離れた姿だった。稀に見る箱入りの令嬢とばかり思っていたが、今は小綺麗な格好をした街娘と変わりはない。化粧も変えているのだろうが、その代わり映えに一瞬罠かと疑った。


「おい、いい加減知っていることを洗いざらい話せ」
「せっかちさんだな。歩きながら話そう」
「その前にお前のことを聞きたい」


 歩き始めた足取りを止めて、ローは目の前の女に問う。容姿はよく見れば悪くない部類で、立ち振る舞いから教育もあるように見える。あのパーティー主催者の自室に忍び込み窃盗を働く行為を鑑みて犯罪者の一人であることに変わりはないが、手慣れているところからして犯罪歴は長いはずだ。同じ犯罪者たる海賊を丸め込み、何をしたいのか今のローに検討はつかない。


「私のことは何でもいいだろう。私は君の望む物を提供し、君は私の望む物を提供する。ギブアンドテイクで平等。それ以上でもそれ以下でもない。そして今日の夜には他人になっているはずだからね」
「関係ねェっていうのか」
「まああまり隠して不仲になってしまっては元も子もない。実は私はお金が大好きな故に怪盗業を嗜んでいてね。今回もそれに関わるだけさ」
「お値打ちの絵画を盗むのか?」
「いいや、価値を頂くのさ」


 少しばかりズレた回答にローの片眉が上がる。反してニヤリと笑った女はとあるカフェの入り口に立ち「お茶はいかがかな?」と言い扉を開けた。開店直後なのか中に人はおらず、ターコイズを基調とした店内に星型のランプが垂れ下がっている洒落たカフェだった。店員がすぐ飛んできて、扉に付けられた開店表示を「close」にする女を目にして全てを察したのか奥の席に案内して明かりを落とした。間接照明の仄かな明かりだけが届き、往来は目張りで覗かれる心配もない。アイコンタクトのみの繋がりでここまで手懐けられているのなら、何度か足を運んでいるのだろう。店員がアイスコーヒーを二つ置くと、女は持ってきていたクラッチバックを店員に渡した。それを受け取って一礼した店員はカウンターの照明を消して奥に下がっていった。


「……お前の店か?」
「いや、三度目の来店さ。連れを入れたのは今回が初めてで、最後だろうね」
「手懐けるためのあの鞄には金でも入ってんのか」
「ご名答。一日の売り上げ以上渡せば黙認してくれる。金は偉大だよ」


 にっこりと昼間の薄暗さで笑んで見せる女に邪心はない。心から貪欲なまでの守銭奴だった。
 薄暗いあの書斎では気付かなかったが、女の瞳の色は深い。このカフェの中もまだ照明は足りないが、おそらく瑠璃色の類だろう。珍しいその瞳の色にどこかで聞いた話を思い出そうとしていた。


「お、来たな」


 目の前の女が楽しそうに声を上げると、閉めたはずのカフェの扉が来店の鈴の音を伴って開いた。息を弾ませた赤毛の女が手をあげる。


「はぁい、ダーリン。頼まれた物持ってきたわよ」
「ありがとう、ハニー。先払い分で足りたかい? 今日は天気がいいからこれでランチでもしておいで」
「最高ね、ダー。またよろしくね」
「勿論。頼りにしてるさ」


 頬にキスを落として赤毛の女は貰った札をヒラヒラと振って出て行った。ローの見立てではここらのランチの物価より何倍か大きいはずだ。それを気に留めた様子もなく目の前の女は受け取ったばかりの海図より一回り大きい紙面を開く。何かの見取り図のようだった。


「これは私達が招待されている美術館のものだ。一般公開されているのはここまでだが、バックヤードに用がある」
「何故そこにあると言える」
「私の情報網は君より広くて信頼性のある物ばかりだ。それは全て金で買えるのだよ。前の島の資産家には感謝しているとも」
「疑問に思っていた。あれほどの資産家が俺とお前の取り分のみを金庫に入れていたとは思わない。隠していたのか」
「ご明察。元あった金額の半分は予め排気口へ隠しておいた。後日取りに来ればいいしね。後は君の見た通りさ」
「……守銭奴め」
「褒め言葉と受け取っておこう」


 楽しそう女が笑う度に、ローは見る間にやる気を削がれていった。そろそろ罠の可能性の方を考えた方がいいかもしれない。この島に着くまでの数日、ローなりにこの女と"マリアの瞳"のことを調べた。しかし依然として確固たる情報を得られたわけではない。得体の知れない女に頼るしかないのは馬鹿なことだと思う。適当な理由を付けて船をクルーに預けてきたが、このことを知られたら真っ先にらしくないと非難されるのは火を見るより明らかだった。


「それと、君は"マリアの瞳"の詳細を知らないようだね」
「……」
「だが、その存在を調べ上げたのは称賛に値する。その労力と洞察力に報いて、もう少し情報をあげようじゃないか」


 それは、紺碧の夜の海を溶かして固めた薬物だ。
 マリアは貧しい家系の次女として生まれた。その瞳は家族の中で唯一夜空のように青く、海のように深い青色だったらしい。容姿の良い次女ともなれば妙齢に達すると出稼ぎと称した娼婦として売られることもままある村だったが、丁度薬を売りにきていた貴族の薬師に見初められたらしい。初めは身分の差から断っていたマリアだったが、真摯な対応の男にやがては恋に落ち無事に一人娘も設けた。そんな可愛い娘と愛する嫁を想った夫は代々家に伝わる手法と最新の技術を用いて"マリアの瞳"を作った。"マリアの瞳"は紺碧の夜の海を溶かして固めたような丸薬で、瞳と称されるだけあり目玉大が二つあったという。一つは夫が、もう一つはマリアが持つそれは「若返りの薬」とだけ噂された。
  しかし許されざる愛は二人は引き裂く。夫婦はそれを表沙汰に出さず密かに隠し持っていたものの、"マリアの瞳"を狙う何者かに夫は殺された。事態を恐れたマリアは夫の方の瞳を隠し、もう一つは自分が持って消えた。一説によると丸呑みしたためにその当時の姿のまま何処かを彷徨っているという御伽噺もある。勿論夫の親族がマリア達の家を訪れる頃には蛮族による家探しが終わった後で、マリアは一人娘と"マリアの瞳"と共にその端麗な姿を世の中から消した。


「それで、今回出所が分かるのは夫が隠した方の瞳か」
「流石、鋭いね。実はあの美術館にあるという情報と裏方にあるという情報しかないから誰かが持っているのか隠されているのかまでは私にはわからない」
「ガセじゃねェのか」
「それはないな。女の勘ってヤツだよ」


 曖昧な答えにローが決して朗らかというわけではない顔をさらに険しくする。どちらかというと非科学的なものや曖昧模糊としたものを嫌うローにとって「女の勘」というものは信憑性が最も薄いものだった。
 そんなローの心の中を察した女は信じてよとばかりに目配せする。


「先ほども言った通り私はバックヤードにある絵画を見れればいい。君の目的も後ろにある。"マリアの瞳"には興味がないから好きにするといいさ。もちろんレシピはマリアの夫の頭の中だけだから今更それを再現することはできない。でも君なら、可能かも知れないね」
「……」
「さあ、私が知る情報は全て話した。今からなら降りてもらっても構わない。後は、君次第」


 薄暗く、間接照明のほのかな明かりだけが二人の顔を照らす。外から見ればただの休業日のカフェであり、二人が重要な決断をしようとしているなんて夢にも思わないだろう。女は薄らと笑みを浮かべているが、本心は見えない。
 ローは己の知的好奇心を今ばかりは恨んでいた。"マリアの瞳"の話を聞きつけ、是非とも相見えたいと思ったばかりに尻尾を掴まれ選択を迫られることになったのだから。ここまでの話し合いでさえその偶像が形取らないものだから、ローのスキャンでも手にすることは叶わない。そればかりか警備の固いパーティーで刀を手にするなど言語道断だ。つまるところ、お互いが手を取り合わなければならない。悪魔の選択など、この女に踏みにじられたばかりだ。

 ジッと見定めるその瞳は真偽を確かめる猛禽類そのもの。反して女の瞳はそれさえも飲み込もうとし愉悦に歪む。

 その眼球が次に光を取り込むのは豪華なシャンデリアが淡い光を溢す高級ブティックだった。他の客は居らず、またしても女が人払いをしたためである。その閑散としたフロアに二人の声が木霊し、今日の売り上げを不正に達成したため笑顔のスタッフがどんな要求にも従う。


「いやー、素材がいいから何でも似合うねぇ」
「テメェ……遊んでんじゃねェぞ!」
「はっはっは、遊んでなどいないさ!」
 

 ローは今まさに着せ替え人形だった。ダークブルーの光沢が抑えられたスーツを着て、黒いシャツに映えるよう帽子と似た白地に黒斑が散るネクタイを閉めていた。手の甲の刺青が見つからないよう黒い革手袋をし、ピアスも金縁に彩られた嫌味のない黒真珠の一つを付けている。正装というよりは少し遊び心のある格好で、これから行く会員限定のパーティーには相応しい。絵画を見つつ料理を楽しむようなもので、懇意にする会員向けの型苦しくない催しだ。現在は丁度一週間のうちの四日目で、警備も慢心している頃合いだと女は予測している。女の方もローに合わせたドレスや装飾品で飾られており、一見すると貴族の若い夫妻のような出立だ。


「チッ……もうこれ以上はいい。さっさと行くぞ!」
「ネクタイよりスカーフとか……こんなカフスとかはいかがかな?」
「いい加減にしろ!」


 若干ローの言う通り楽しんできた女は最後に嫌味のないコロンを吹き付け、共にブティックを出た。金に糸目をつけない女は束になったものを事前に置いていった。ローの見立てではこのスーツとワンピースをあと三着買えるはずだ。金遣いが荒いというより金を積んで信頼を得ることが目的のようだ。湯水のように使ってはいるが必要以上には出さず、どれくらいあれば人の心を動かせるか把握している節もある。金は裏切らない、を体現しているような女だった。
 ひっそりとルームを発動させる。薄青いそれは一瞬で広がり、視認できたものはいないかと気配を探る。美術館をすっぽりと覆い隠し、近づいて来た夜空と調和を見せる。


「さ、手筈通り行こうか」


 城門前の警備員がジロリと二人を睨む。背筋を伸ばし、優雅に腕を組む様は先ほどのいざこざを感じさせない。心なしか気品も見受けられる。この女は自分は怪盗だと言ったが、実は上流貴族の生まれだと言われても信じるほど場に慣れ親しんでいた。
 受付が招待状の有無を聞く。あまり華美ではないゴールドのバッグから二枚の招待状を渡し、隣で手荷物のチェックを受ける。あっさりと解放されて大理石と装飾にふんだんに使われる宝石達の光を浴びることになる。


「……目立ちすぎだな」
「君が格好良いからだよ」
「お前程の女もなかなかいない」
「褒めているニュアンスじゃないね」


 その舞台に降り立った時、会場の視線は二人に注がれる。着飾ればそこらへんの女よりも美しいパートナーは憂いを帯びたような表情で男共を惑わせる。もしお互いを知らぬままで出会えばローも舌舐めずりをしていたはずだ。


「視線が散るまで散策しよう。馴染めば抜け出しやすくなる」


 小声で話す声も身長差でシャットアウトされることなくカクテルパーティー効果で聞き取りやすい。ゆったりと値打ちがイマイチわからない絵画を見て回る。周りも二人がいる空間に落ち着いて、其々絵画を目に映す。回廊の側で人目が全て離れたことを確認し、関係者立ち入り禁止の中へ侵入する。腕をどちらともなく外し、バックヤードへ向かう。


「誰にも合わないのは予想外だったな」
「警備どころかスタッフさえいないなんてね。ま、安全に事を運ぶには保険が必要だ」


 女がバッグから口紅を取り出した。外見はなんて事ないブランドの口紅だが、親指でキャップを弾き飛ばしてスイッチを押した。遠くで小さな爆発音が響く。柱の影に隠れて様子を見ると警備員が数人駆けて行った。吹き飛ばしたのはバックヤードの反対側に位置するゴミ置き場で、小火くらいの小さな規模だった。消火や検分をしている間さえ稼げれば十分だ。


「オッケー、クリア」
「……一つ、疑問に思ったことがある」
「なんだい、外科医くん」
「何故お前は"マリアの瞳"について知っている」
「質問ならお金取ろうかな」
「何故"マリアの瞳"を欲しがらない。売れば大金になる。守銭奴のお前には持ってこいの案件なのに、絵を見るだけの目的の為にコストとリスクを掛ける」


 今だって迷いなく足を進めている。地図を頭に叩き込んだにしては悠々たる足取りで、欲しいものがそこにあるという確信だ。


「謝ることがある。私は嘘を二つついた。一つはもう"マリアの瞳"の在り処は知っていること。もう一つは……私を最後まで守り通したら、教えてあげよう」


 一番豪華な両扉を開ける。奥まったこの場所の扉が華美ならそこには何か大切なものがある。その予想は当たりで、手前は倉庫のように脚立や額縁が置かれているものの、奥に行くにつれて広い階段があり最上階に三メートル以上はある絵画が飾られている。そこに描かれているのは男女の夫婦らしき人物と、真ん中の椅子に座ったまだ幼い女の子だった。血色感や立体感が絵画だと思わせない。今にも話しかけられそうなほど精巧で、女性は特に柔らかな笑みを浮かべていた。
 ローがそこまで視認した後直ぐに聴覚へ第三者の靴音が届いた。革靴が固い床をゆっくり叩く音がする。白髪を丁寧に纏めた恰幅の良い老人が奥から姿を現した。


「……ここは立ち入り禁止だ。立ち去れ」
「用が終わればすぐにでも」
「驚いた。てっきりあの女もろとも死に絶えたと思ったが、生きていたのか」


 老人の声には厚みがある。身なりからして貴族の類だが、女は果敢にも噛み付いていく。老人の方も女を見知っているようだが、好意的でないのは明らかだった。


「あの爆発は貴様か。反対側に人を集めるにはいい案だが、その分警戒度が上がると思わんかね?」
「短時間で事を済ませるつもりだった。貴方がいるのは計算外だったけどね」
「貴様だけがもう一つの"マリアの瞳"の在り処を知っているのは調べがついている。この場で吐けば今までの無礼を無かったことにしてやろう」
「……無礼?」


 女の喉から、冷えた声がする。鋭いそれは肌を刺し、今まで見せていなかった牙を剥いた瞬間だった。


「実の息子を薬欲しさに殺し、その嫁を死ぬまで迫害したお前がそれを宣うのか?」
「我が家に代々伝わる秘術を下らぬことに使う愚息など必要ない! 折角見合いの場を作ってやったのに何処ぞの馬の骨ともわからぬ女を孕ませて私の顔を汚しやがって! 妾にするか縁を切れと迫ったら駆け落ちすると愚かな選択をした哀れな男だ!!」
「愚かでも間違った選択ではなかった! 道を外したのはお前だろう!」
「黙れ小娘が! その瞳はあの下賤な売女と瓜二つよ! 生きること全てが我が血族においての恥だ!」
「お前の中での評価がどうあれ、私の中でのあの人は気高いままだ! お前達はまだ私が裏切り者の一族に名を連ねると思っているのか!?」
「このっ……! 恥知らずめが……!」


 真っ赤な憤怒の形相をして激昂した老人が懐からワルサーP38を取り出す。セーフティーを親指で引き上げる隙がローに刀を取り寄せる時間を与えた。鬼哭の鯉口を切り、僅かながらに見せた刀身を女の前に出して飛び出した弾を弾く。跳弾した弾に肩を貫かれた老人が呻きながら後退する。銃声を聞きつけたのか、護衛のような黒服達がローに向かって発砲する。能力を使って次々と斬り伏せていくものの、数が多い。先ほどから展開していたルームのせいで体力は削られつつある。疲労を感じるほどではないが、そろそろ倦怠感が背後に付き纏う。


「おいっ、早くしろ!」
「頼もしいね!」


 ローの一言でその瑠璃色に金色の光が翻るのを見た。それは大海原に差し込む陽光であったり、暗い夜空に散りばめられた明日を指す星々のようだった。
 僅かばかりの照明を弾くゴールドのバッグを投げ捨て、中から取り出したブラシの接続を解除すると仕込みナイフが現れた。大きめの脚立を拾い上げ、階段を駆け上がる。その間ローは近付く輩を倉庫内のガラクタと位置交換し、バリケード代わりに築き上げる。狼狽て近付かなくなった敵を一瞥したローはパーツごとに切り分けてトルソーを作り上げる。シュールレアリズムを地で行く光景に何人の屈強な黒服達が吐き気を催しただろうか。包囲網が崩れた間より漸く頂上へ着いたかのか脚立を上るヒールの音を聞いて一瞬、振り返った。

 ローより少し鮮やかな瑠璃色のドレスだった。少しばかりのレースやチュールもその濃い色で染まり、曝け出された背中が眩しいばかりに見える。手首と足首にある円環や揺れるピアスの金色が現実に戻し、それでも夢を見させるような心地にさせるのは彼女が気高く、美しいからだった。ローはその光景を、生涯忘れない。あれ程までに神聖で、どうしようもないほど鮮烈に自身の情緒に揺さぶりをかけて傷をつけた光景を。
 彼女は慈しむように絵画の女性にキスをした後、持っていたナイフで一閃を放った。そして中に手を入れて小箱を取り出しすぐに脚立から飛び降りた。そこで我に返ったローは隣で獣のように咆哮を上げガラクタをよじ登り、彼女に突進する老人と位置交換をする。器用に着地をして不安定な山をヒールで駆け下りる彼女にローは手を差し伸べる。


「貴様ァ!! この先生きていけると思うなよ! 世界政府に地の果てまで追われる恐ろしさを、生きていることさえ後悔する地獄を味合わせてやるわァ!」
「上等だ、クソジジィ。老い先短い人生せめて楽しんでるといいさ!」


 中指を立てて不敵に笑う彼女が地を蹴り大きく跳躍する。手どころか腕で彼女を受け止めたローは直ぐにシャンブルズで外に逃げ出す。高級ブティックの裏手に降りて、一度ルームを解除した後もう一度展開し直して港まで飛ぶ。喧騒とは程遠い静かな波音を聞いて、ローはそこで自分が大きく呼吸したことに気付く。


「はい、外科医くん。約束の品だ」
「……は?」
「なんだい、いらないのかい? あぁ、箱は開けるから待ってくれ」


 女が箱の裏側を弄るとカチカチと音がする。仕掛け箱だったのかやがてカチリとはまった音がして女がその箱を開く。中には紺碧を固めたような、ローが求めていた"マリアの瞳"が入っていた。そっと台座にある布ごと取り出して光に当てる。匂いはなく経年劣化もないようだが、これだけではなかなか判断しにくい。


「アンタ、娘だったんだな」
「そう。マリアの娘のニイナだ」


 そう説明されれば事情に詳しいことも頷ける。最初に気付くべきだった。二つめの嘘は最初から巧妙に刷り込まれていた。全てニイナに仕組まれただけの舞台で、額縁の内側で踊っていただけに過ぎない。


「あの老いぼれが私達の絵を美術館に移動したと聞いて冷や汗が出たよ。あの額縁、他よりも厚かっただろう。てっきりもう破棄したか埃をかぶっているとばかり思っていたから気付かれたと思って、これは急いで回収しなくてはってね」
「それに俺を使ったのか」
「言葉は悪いがね。でも望みは本当さ。もう一度両親の顔を拝めてよかったよ。母は居場所を転々とするうちにスラムで病死だった。私は少しずつ"マリアの瞳"を飲んでいたからこそ生き永らえたものの……」
「……」
「金がなかった。金があれば母の病気も治せてあの老いぼれに復讐を遂げる盤石ができたものを……。だから必死に掻き集めた。そして、成し遂げた。その"マリアの瞳"には経年劣化が起こらない特殊な技術を施している。あの御家芸ってやつさ。でも最近本家は高齢化により腕が落ちてきたようでそれを秘匿するため多量の防腐剤でコーティングしているらしい。勿論、人体に悪影響を及ぼす。丁度今頃御用達先の貴族達に密告状が届いている頃だろう」


 ウインクしてみせる女にローはげんなりした。ただでは転ばないこの女のタフさに称賛を送ればいいのか、これから本当の地獄を味わうことになる老人へ労りの言葉を投げればいいのか。


「ところでトラファルガー・ロー氏。私と取引をしようじゃないか」


 演技がかったその艶美な笑みには見覚えがある。そうだ、嵌められた夜のことだ。下手に探り回っていたらニイナ直属の情報屋に当たってしまいこの状だ。出来ればこの厄介な女に関わりたくないし関わるなと脳内が警鐘を鳴らす。だが、ニイナは巧妙にローの知的好奇心を刺激する。


「私達の約束はそれの譲渡で終わりだ。だがその"マリアの瞳"の使用方法、効能効果は君も知らないだろう? 私ならそれを知っているし実際に飲んだことがある。レポートも書いてあげよう。なんなら、その作り方も」
「テメェ……これは父親が作ったものでレシピはもうないとか言ってなかったか」
「そう、彼の頭の中さ。それを覗ける唯一の魔法を私は知っている」


 何処からともなく取り出した古ぼけた本は手記のようだった。気付けば女の背には積み上がった木箱があり、一番上の蓋が少しズレている。
 ───またしても嵌められたのだ。三つ目の嘘があるなんて聞いていない。近づいて来る黄色い自船に来るなと叫びたい気分だ。


「そうだな、担保も欲しいからこれもどうだろう。気に入ってくれると、嬉しいのだけれど」


 ニイナが足元にあった木箱を蹴り転がす。瑠璃色のドレスから伸びた白い脚を惜しみもなく曝け出して。そこから溢れたのは金銀財宝で、換金すればあの美術館丸ごと買えるような金額だった。
 ローは割りに合わないと思った。こんな興味があっただけの薬一つ引き換えに世界政府を相手にするようなものだった。"マリアの瞳"は存在し、製造法を知るただ一人の愛娘なんて世の中は喉から手が出るほど欲しいだろうに。だけどもう引き返せないところまで来たことを聡いローは知る。全てはニイナの額縁の中だからだ。


「よろしく頼むよ、外科医くん」
「……とりあえず、その呼び方をやめろ」
「サー、キャプテン・ロー」


 本日三度目の能力を船に伸びるまで展開する傍らローは考える。果たして自分が戻って来るまでに終わらせろと言った甲板掃除は終わっているだろうか。終わっていたら、甲板にある石や埃で十は積み上がる木箱まで運搬できるかと。疲労が濃い。頭痛がする。クルーに事情を説明する前に目の前の女を自室に引っ張って"マリアの瞳"を使わせるしかないと心に決めて。
 だがしかしローは一つ計算外だった。着飾った男女が何も言わずに船長室へ消えるのを目撃したクルーの心情を。幾度もの説得の末誤解が解けるまで、あの瞳は美しい紺碧の涙を零し続ける。




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