小説 | ナノ




「───この度の昇格、おめでとう大佐。貴官の武運の賜物だな」
「はっ、お褒め頂き光栄です!」


 女は、弱い。この海軍においてもその前提はある。上に立つのは専ら男性ばかりで、一部いる女性はそれに負けないほど強くなくてはいけない。いけるところまで上り詰める予定ではいるが、そろそろ私の限界はここだと突き付けられているようだった。目にかかる敬礼の隙間から、業務連絡を告げるように淡々と言う上司を見る。この地位に就く女性は私が初めてではないからか、その言葉に祝福の温度はなかった。
 師匠の跡を歩いている。三年前に殉職した彼の後を辿ってここまで来たものの、既に指針は折れている。私は何処へ行くのだろう。漂うだけの魂は疲弊していく。


「早速貴官には任務を遂行してもらう。詳しくはつる中将の元へ行ってくれ」
「ちゅうじょ……畏まりました」
「武運を祈る」


 重厚な扉を潜り、廊下の嗅ぎ慣れない空気を吸い込む。昇格のために訪れる以外に用がないこの本部には未だ慣れない。廊下に美しい花瓶があったり毛並みの良い絨毯があったり、来客の多い本部は小綺麗にされている。地方との差なぞ見ぬふりをして。階段を二階分上がる。幸い本部といえど誰とも擦れ違わずに大参謀の部屋の前まで来れた。


「……入りなさい」


 よく通るように大きめのノックを二つすれば厳かな、壮年といえど凛とした女性の声が扉の奥からする。それに従ってドアノブを下ろして厚く上等な扉を開く。目の前に机に着席された大参謀殿がいる。もうこれで逃げ出せない。彼女に呼ばれた理由は未だに不明だ。まさか昇級してすぐに降格や解雇はないだろうし、彼女の部隊に抜粋されるにしては地位と実力が足りない。後ろめたいことなどないし、片田舎の支部でダラダラと仕事をしているだけの私に大参謀が直々にある話など一体。


「海軍G・L第27支部大佐、ニイナ。着任致しました」
「宜しい。昇格おめでとう、ニイナ大佐」
「汗顔の至りに御座います」


 柔和な笑みを浮かべ、私の世代の祖母と言われても差し支えのない大参謀からは意図せずとも頭を下げなくてはいけないような気にさせられる。正直に言うと、怖い。これならまだ視察に来て頂いてクビを宣告される方がマシだ。
 そしてもう一つ。私が逃げ出したい理由がこの部屋にもう一つあるのだ。


「早急で恐れ入りますが、ご用件というのは……?」
「なんだい、あの少将は言ってなかったのかね? これだから無愛想な男は嫌いだよ。何から話せばいいのかねェ」
「……いつまで客人を待たせるつもりだ?」


 話に割って入ってきたのは私が退室したい元凶だ。なぜルーキーの七武海がつる中将の部屋のソファーセットにその長い御御足を組んで寛いでいるのか。聞きたいのはここからだと言うのに。


「せっかちな男は嫌われるよ。大佐、貴官に頼みたい任務とは貴女の故郷にこの男を案内してやってくれないかね?」
「……え、」


 落とされた一言に刮目する。先に話を聞いていたのだろう、男は忌々しそうに鼻を鳴らして脚を組み替えた。


「勿論貴官の気持ちも分かる。だがあそこの道先案内人は貴官しかおらん。先日の研究施設襲撃の件は耳に届いているだろう。奴らの目的は他の薬剤だが放火までされちゃ貴重な資料まで台無しだ」
「……資料の補給が任務でしょうか」
「それともう一件、街全体を立ち入り禁止にしているはずだが最近ならず者が屯していると聞く」


 サンプルの収集、及び侵入者の排除。もし感染していればいい被験体となる。つる中将の言葉に裏表もなくそういったことだろう。
 しかしそうなるとこの男が呼ばれた理由がわからない。私の視線の意図に気付いたのかつる中将が今回の任務の資料と共に言葉を差し出した。


「わたしゃ基本的に海賊は信頼しない。だがこの男は医者でもある。思考こそ剣呑としていても医者としての立場を芯まで理解している奴はなかなかいない。この海軍においても、悲しいことだがね」
「……しかし、医者といえど海賊です。野蛮で下劣極まりなく、命を塵芥だと弄ぶ残忍な生き物にすぎません」
「随分な言われようだな。傷つくぜ」


 全く面白くもなさそうな笑い声と、傷付いたそぶりもない表情だった。机の上の資料を掴み、組み直したばかりの脚を解いて立ち上がる。私よりも頭一つ飛び抜けた彼はゆったりと私の隣を過ぎようとして、一拍立ち止まる。見下される形になるが帽子の隙間から覗く眼光は酷く冷たかった。


「前におれを偽善者だと、殺しもしない臆病者だと笑った奴がいた。テメェらと一緒だな」


 温度のない暗い瞳、蛆を見る瞳だった。吐き捨てるようなそれは明日から共に任務をする仲間ではない。ただの案内人と馴れ合いなどせず、必要とあらば殺す勢いのある拒絶だ。
 私は海賊が嫌いだ。犯罪者だからという理由だけがそうさせる。王下七武海といえど、根は海賊なのだ。いつ裏切られてもおかしくない。だが、自ら七武海への参加をもぎ取ったと聞くから、折角手に入れたばかりの地位をすぐに手放す真似はしないだろう。しかしある程度用が済めば事故として殺される確率も存在する。大佐といえど地方にいるため、この本部において私は少佐か大尉くらいの実力だ。緊張を緩められる間柄にはなり得ないかもしれない。
 渡された資料を読む。トラファルガー・ロー個人のことと、今回の作戦の仔細が載っている。トラファルガーの半生はゾッとするような悪夢だった。出典元として同じ七武海の方の名前が書いてあり、かつてはそこにいたというのだから情報源としてある程度信憑性はある。
 フレバンス。聞いたことのある名前だ。かつて私の師もそこへ赴いたと言っていた。良い医者のいる国だと。トラファルガーもきっとその卵だったのだろう。オペオペの実を食べて完治したと報告もある。彼が食べるべき実だったと推測する。もしかして彼なら、今回の任務の適任かもしれない。大参謀が選ぶ理由がわかった。当てられた一室のベッドに倒れこむ。重いコートを脱ぎ捨てて、資料を机の上にばらまく。明朝出発、二人きりで。それまで安息でも得ようと小さくその背を丸めた。





 一週間もあれば帰れる程の距離だ。荷物は片手に持ったボストンのみで、待ち合わせ場所にて落ち合ったトラファルガーも同じ考えのようだった。


「……おはようございます」


 形式だけの挨拶など無用とばかりにトラファルガーが背を向けて歩き出す。その先は一隻の軍艦があるはずだ。二日と五時間ほど。静かに穏やかに航海をした。巡視船を装ったその船には最低限の人数しかおらず、部下からの報告によればトラファルガーは部屋に篭りっきりのようだった。用意された食事にあまり手をつけていないという点以外目立った行動はなく、行きは良い航海ができた。
 最低限の衣類や食料を持ち、武器として使うライフルや弾切れのためのナイフも腰につける。ちょうど着岸して梯子を下ろしている時にトラファルガーも出てくる。船内では顔を合わせていなかったから二日ぶりの再会だ。あまり食物を口にしていないと聞いたが、その顔は大参謀の前と何ら変わりはなかった。元から食が細い方なのかもしれない。


「……噂には聞いていたが、酷い有様だな。お前の意見が聞きたい」
「資料に書いてあることが全てですが」
「何のための案内人だ? テメェが見聞きしたこと全て話せって言ってんだ」


 ピリッとした空気が頬を撫でる。彼の表情からは何も読み取れなくとも、その瞳だけは氷柱のように鋭く冷たかった。

 この街はかつて潮風の吹き抜け、青い海と空を挟む白い煉瓦造りの建物が映える自慢の街だった。治安も良く、天候も安定しているため食糧も豊富だ。人々はお互いに手を取り合い、海軍の支部もあるため安穏とした生活を送っていた。私もかつては大尉として駆け出しの毎日を送っていた。
 その中でもこの街はある果物を特産品としていた。マンゴーのように濃厚で、齧ると果汁が滴り落ちるほど水々しい。子供達のおやつであり、栄養価も豊富なことから街の人たちはほぼ毎日食べていたと思う。その果物がこの街の残状を生み出した原因でもある。
 その果物とこの街の磁場の影響が重なり、街は崩壊した。果物に含まれる成分単体では意味を成さない。だが、この街に住む限りその果実は牙を剥く。人が、樹になるのだ。今やあれほど美しかった街の光景など片鱗さえ見つからないほどに倒壊し、至る所から樹が生えている。建物を内から壊すように、美しい煉瓦の整列の隙間へ根を張るように、何かを拒むように地を這い、樹々が生い茂る。人の気配はなく、鳥の声だけが木霊する。
 政府としても手の施しようがなかった。それは代々遺伝子の中に果汁が染み込み、今の世代がちょうど発芽時期だった。とある時期に個人差はあれど侵蝕され、様々な医者や学者が調査して原因の追求はできても解決策はなかった。そして、今の無人の廃墟と中途半端な森が出来上がった。


「───……果実は輸出されたりしたんだろう。それを口にしたやつは大丈夫なのか」
「果物を先祖の代から日常的に口にしており、この街で育たなければ発芽はしません。現に移民の方やこの街から出た人に影響はありませんが、万が一を考えて政府もこの街を立ち入り禁止にしています」


 政府はこの件を公にしていない。してしまえば世界中がパニックになり、この街に興味本位で立ち寄ることもあるだろう。忘れられた進入不可の島。それくらいの知名度で十分だ。私の憶測では研究が終了すればこの島ごと海の藻屑になる。故郷が無くなってしまう憂いはあれど、私にはどうしようもないことだった。


「フレバンスの白鉛と一緒です。この世代に染み込んだ果汁がいま、その芳香に乗せて呪いを解き放とうとしている」
「……なぜそれを、」
「貴方の資料には私の経歴が書いてあったと推測します。おあいこってやつですよ」
「……成る程な。お前は無事なのか」


 経歴と言えどもあまり仔細には書いていないのかもしれない。だから彼はこんな質問をしたのかもしれないし、その瞳の奥は揺らぐことがない。
 帽子から翳った目元に安否を気遣う優しさは見受けられない。言葉も柔らかさを帯びているわけではなく、きっと案内人に途中で死なれるのが困る程度のものだろう。


「私の師が異動願いを出していて、それに乗じて脱することが出来ました」


 ───甘い匂いが、込み上げる。
 耐え切れずに咳き込むとハラハラと薄桃色の花弁が散った。一枚一枚が大きく水々しい。それが気管を撫で上げるものだから、苦しくて苦しくて仕方ない。両の手では抑え切れない花弁が零れ落ちる。見るだけだったらさぞ美しい光景だろう。今まで仏頂面だったトラファルガーが目を剥いている表情に少しばかり仄暗い嬉しさが灯った。


「あの果物を口にせず、土地を離れてから3年……それでもダメですね。急ぎましょう」


 最初の症状はこうして花弁を咳と共に吐き出すことで発覚する。薄桃色の甘い香り。暫くそれが続いたのち、体が重くなり臓器の鈍痛を感じる。手足が思うように動かなくなり、呼吸がままならなくなれば樹木が宿主の体を食い破り一気に成長する。そこに咲く花は初期に吐いていたあの花弁のもので、たっぷりの栄養を補給できた大輪は美しい。血の一滴、肉片の一抹すら残さず、その木々にぶら下がるかつての衣類の端さえなければ何故こんなところに樹が、と思ってしまうほどに。
 根に躓かないように先に進んでいく。倒壊の度合いが比較的少ない建物に入る。確か、ここは教会のはずだ。


「……教会か」
「ええ。神父が樹になった後は誰も立ち入らなかったので」


 壇上の前にステンドグラスを突き破り、十字架に絡みつくように枝を伸ばす様は何かに助けを求めるようだった。椅子の一つに荷物を降ろし、腰も降ろした。夕闇が迫ってくる。今日は足場が悪く視界が鮮明でないためもうここまでにした方がいいだろう。トラファルガーも同じ思いらしく、私に倣って腰を落ち着けた。燭台を引っ張ってきて、まだ残っていた蝋燭に安堵してマッチで火を灯した。通路を挟んで私とトラファルガーの間に明かりが広がる。後で消さないと灯りが外に漏れてしまう。その前に持ってきた銃の整備をする。簡単なところだけを素早くチェックする。
 グリスの臭いに混じって花の香が舞い上がる。


「っ、ぅ……げほ、ッふ」


 手で押さえても直ぐにその椀から溢れ出る。黒い銃身には鮮やかすぎる色だった。薄暗がりの中でも主張する、私の中から這い出た花弁。私はこれを憎めばいいのか恐れればいいのかわからなかった。仕方ないと諦念もあまりなく、冷静に受け止めている自分に驚いた。この任務が終われば故郷と共に潰える覚悟も併せて。


「……おい」


 咳がうるさいと叱られるだろうか、と顔を上げれば手元に茶色い紙袋が落ちた。袋に入れろ、と短く言われてそっぽを向かれた。寝るつもりなのか体勢を変えたトラファルガーの心情は読み取れなかったが、恐らく言葉通りだろう。この街に足を踏み入れたのは私達だけではない。症状が発症しているのは私だけだ。第三者がこの島にいると知られてしまうのは痛手である。彼の指示に従いその紙袋へ花弁を入れようと掬い上げる。心許ない明かりの下で白く降り積もっていたそれらを避けると、下敷きにされた黒い銃身が露わになる。一気に現実に戻されたような心地だ。
 ああそうか、とそのライフルへ額をつけると固い感触が頭蓋を感じさせる。


「そうですね、私はまだ生きているんですね」
「……」


 冷たい鉄がリアルになる。人を殺すことは生きることだ。私はまだ生きている。犯罪者を殺してでも成すべきことが。正義を背負う、この海軍で。





「───大佐! どういうことか説明を……!」
「ニイナ大尉、扉は静かに開けるものだ。ケホッ」
「ですが、なぜ……! 私は異動を希望していません!」
「知っているとも。私が異動願いを本部に提出したからな」
「何故ですか……!」
「君はまだ症状が出ていないからな。今の内に他所へ渡った方がいい。そういった研究結果が、ゲホッ、ぐ、出ているし、な……」
「断固として拒否します! 私は、大佐を置いてこの街を離れるわけには……!」
「そこまで従順なことは良いことだ。大佐として大変喜ばしいことだし、師匠冥利に尽きる」
「ふざけないでください……私がこれを恩恵だと甘受するとでも思っているんですか!」
「そうだ。もう私には残された時間がない。ゴホッ、敬愛してくれる愛弟子には生きていてほしいだろう」
「なにを、言って……」
「もう私はここから動きたくないんだ。内臓を食い破り骨が軋む音がする。ほら、早く行ってくれ。どうか、きみに、神の加護、を、」
「師匠───!!」


「流石だ。あの遠い獲物を一発で仕留めるなんて。もう私が教えることはないんじゃないか?」
「そんなことありません。私はまだ大佐に師匠でいてほしいです」
「とは言えど、狙撃手に必要な基礎は全て学んである。後は実践のみだが……やはりまだヒトは躊躇いが出るだろう」
「そんなこと、ありません」
「……ニイナ、あの虹は何色に見える?」
「……九色、でしょうか」
「まるでイヌワシのようだね。君には四色目の色が見えているんだ」
「紫外線は人間には見えませんよ。私はただ目が良いだけです」
「そうだ、君はただ目が良い人間だ。だからこそ先月の海賊との小競り合いで急所を外してばかりいる正確な狙撃は止めるべきだったな」
「……申し訳ございません」
「いいや、君にとって苦い思い出かもしれないがそのおかげで捕縛した後に芋蔓式にアジトまで調べがついたんだ。賞賛に値する。だがもし混戦や戦場でただ一人を射止めるならそれは名乗りを上げるのと変わらない。充分に注意することだ。それと、時には殺めることも必要だ。骸になれば反撃は出来まい」
「留意します」
「この世界に置いて、君は我々と見えているものが違うのかもしれない。その感覚を大事にしなさい」
「はい、師匠」


「大佐、何故です。その者たちは指名手配で生死問わずのはずです。確かに急所を外してしまった私の責任かもしれませんが、こいつらは死に値する海賊です。今までしてきた蛮行と残された遺族達の未練を思えば死が妥当です。どうせインペルダウンでのうのうと生きるなら、今すぐ、」
「ニイナ大尉、落ち着きたまえ」
「何故殺さないのですか。まるで私の失態を世間に晒すようなものです。そんな辱めは受けたくありません」
「ニイナ大尉、二度も同じ言葉を言わせるな」
「……失礼致しました」
「我々は私刑をする集団ではない。法の下で裁きを下すのは政府であり、使命は捕縛までだ。その後の生死は裁判官に委ねられる。暴走してはそこの海賊と何一つ変わらないと思わないか。貴官は正義の下に無差別の人殺しを容認するわけではないだろう?」
「はい、サー」
「よろしい。しかし、人を人の手で裁くのは不完全で褒められたものではないのだよ」
「ですが海賊という悪人を野放しにすることは出来ません。神が捌きを下さない世界なら、我々がけじめをつけるべきです」
「そうだ。だが、覚えていてほしい。海賊と言えど一纏めに出来ないことを。市民を襲う者と義賊のような者達の違いを。その偽善は偽りか、善意かを」


 ───前におれを偽善者だと、殺しもしない臆病者だと笑った奴がいた。テメェらと一緒だな。


 では、彼らの善とは何だろう。偽善とは、我々が思うことで為るのか。彼らがその内に悪意を潜ませることなのか。何が彼らを悪と見なし、善と囃し立てるのだろう。
 一般論で言えば海賊というのは酷く利己的で、法を犯すのも厭わない。彼らも一線はあれど海賊に相応しい暴行罪や略奪をしていると聞く。市民への被害は少ないものの、海軍への反抗は凄まじい。だが、他の者の利益になる医療行為もすると聞く。その矛盾はなんだ。利己的な海賊が利他的で偽善のような医療行為を?
 ふわふわと、思考が浮いていく。駄目だ。考えないと。彼らの、トラファルガーの言葉を。考えることを止めるな。繋ぎ止めろ。ここで怠ってしまえば、師匠に叱られる───





 建物の中が白み始めていることに気付いて、瞼を持ち上げた。体も起こそうとして固まっていることに気付き、ゆっくりと解いていく。次に花の香りがした。寝ている間にも咳をしていたのか、片側に花弁が積もっている。そこで漸く自分が寝落ちしたことを知る。傍に七武海がいて、故郷といえど廃人のこの地を前にして緊張の糸が切れるなどまるで素人みたいだ。失態を、怒られてしまう。───だれに?

 ───コツ、コツ、
 靴の音が石畳に反響し、近付いてくるものだから銃を片手に握って振り返った。


「……起きていたか」
「申し訳ございません。見廻りでしたら代わります」


 昨日でなんとなくトラファルガーの靴音や歩幅は頭に入っていたから彼だと気付いたものの、もし暴漢であれば私は海兵失格だ。自分に叱咤を入れ、立ち上がる。


「必要ねェ。仲間と連絡とってただけだ。もし総指揮を任されるアンタの許可が下りるなら、俺の船を近場に寄せてもいいか」
「貴方の船は潜水艦でしたよね。目立ちにくいところに潜水しているなら許可します」
「……それと、随分魘されていたようだが」
「お気遣い感謝します。此方こそ、明かりを消して頂いたり咳で起こしてしまったようで」


 火を灯したままでいるのは良くない。暗闇にぽつねんと目印が存在するだけでなく、倒れれば眠っている間にあの世行きだ。さらにこんな明け方から起きていることを鑑みるに、私の咳でトラファルガーは眠りが浅かっただろう。積もった花弁の量を見れば、大分咳き込んでいたはずだ。
 しかし頭は下げずに言葉で謝罪するとゆるりと首を振られた。


「元々熟睡できるタチじゃねぇから構わない」
「左様ですか」


 だから隈が酷いのか、と言えばきっとまたあの冷たい目で見下されるのだろう。会って数日とお互いを知るには短すぎる期間だが、トラファルガーは理知的ながらも何処かしら喧嘩っ早い。此方から煽らなければこうして会話は成立するのだ。
 会話を切ったはずの私の横顔にお前は、と低い声が落ちる。ジッと観察するような視線にたじろいだ。


「……何故そこまで気を張る」
「そんな、私はただ……」


 ただ、なんだって言うんだろう。師が死んでから私が生きるための指針はとうに失っているというのに。


「……ただ、任務の成功だけを願ってます」


 見当違いの答えだと理解している。言葉が途切れてから一拍の後視線が揺れた。けほ、と空咳が甘い香りを伴って出て行った。

 軽い朝食を取ってから散策へと出た。木の根や経年劣化で崩れている所があれど、万が一を考えて近道や逃げ道をトラファルガーに告げながら歩く。辺りは静かで、時折鳥の声や虫の声ばかり聞こえる。夕方には野生化した元飼い犬の遠吠えも聞こえたものだから、襲われないかと少し銃を背負う紐へと力を込めた。


「そこ、右に曲がればかつて本屋がありました」
「……今は植物園のようだが」
「大した資料もないので寄らなくても……。ああ、医学書も数冊ありましたが大手出版の物しかないので代わり映えしませんよ」


 フラッとそちらへ足が向くのを止めるための言葉を投げれば一瞬止まった後に軌道を修正した。案外興味が湧くとそこへしか思考が偏らない所が子供っぽい。意外にもそういった性格があるのが驚きだ。
 一通り周囲を警戒しつつ散策する。段々と足取りは重くなってくる。明るみに出た、かつての街並み。それは一つの街が木に滅ぼされたわけではなく、その一つ一つの樹木がかつての人々だと思うと、どうにも気味が悪い。いっそのことただの森になってくれれば良いのに、幹や枝に洋服や貴金属の一端が引っかかっていると、受け入れるための思考の隙間が狭いような気がする。ああ、あれはメアリーだ。あそこの黒い木はパン屋の主人の。対の指輪が交差する木はパーシヴァル夫妻だ。割れた美しい髪飾りを踏むように根を張るそれはジュリエッタかもしれない。海軍の制服を着た木は誰だろう。

 遠くから、目眩がする。


「───……おい」


 ハッとして顔を上げた。固い顔をしたトラファルガーがただこちらを見下ろしていた。いつのまにか歩みは止められていて、私達は街路のど真ん中で立ち往生していた。案内がなくて先に進めないトラファルガーが怪訝に思ったのだろう。なんでもないとばかりに頭を振れば少しばかり眉が動いた。


「ここまで全く気配がねェ。あと行ってない場所はどこだ」
「物資が残っていそうな場所や倒壊していない場所を見て回りましたが……あとは、そう……駐屯所」
「反対側じゃねェか。急ぐぞ」


 敵が何処にいるかわからないためトラファルガーも能力が使えない。苛立ちからくる小さな舌打ちに自分の無力さを知る。本当は部相応な地位なのではないか、という懸念だけが膨らんで私の照準を濁らせる。足踏みをして止まるこの地に、私の吐いた花だけがはらはらと積もり落ちる。
 一つ一つ歩みを進める度に想う。あの駐屯地の大佐の席に座る樹のことを。とても大きくて天井を突き破った枝葉は今だに目に焼き付いている。私も、師匠のような大樹になれるのだろうか。鼓動を打つ度に苦しくなるそこを掻き抱けど、幼芽の一つさえ存在を感じられない。
 だけどもこの胸に巣食う根が私を滅ぼすまで。そこに咲く大輪が美しいことを切に願う。


「───ここか」


 トラファルガーが壁を背にする。久方ぶりに見た駐屯地は当時のままで、思ったよりも倒壊の度合いが酷くない。街の建物の中でも綺麗な方で、港も近いことからこいつらのアジトに選ばれたのだろう。
 下品な笑い声とタバコとアルコールの匂いがする。静かに裏口を開け、忍び込めば一番広い大佐の執務室に奴等はいた。扉の左右にトラファルガーと張り付き、様子を伺う。人数は五人で酒瓶に混じって銃やナイフが転がっているところを見ると素人のようだ。このまま制圧してもいいが、今の会話はもう少し聞かせてもらいたい。


「……しっかし、ボスもよくこんな辺鄙なところを見つけられたよなァ!」
「本当にな。政府が立ち入り禁止をしているから取引に最適だと言っていたが、見張りさえいないんなら好き勝手させてもらおうぜ!」
「例の商品の保管にも丁度いいしな」
「ああ、もうそろそろ来るらしいぜ」
「そしてここを倉庫拠点として世界へ流通する……俺ら億万長者になるのも夢じゃねェよな!」
「バッカお前まだそれは早ェって!」


 ギャハハ、と教養の一欠片さえ感じられない不快な声が唱和する。話の流れからして武器か麻薬の保管庫としてこの島を選んだらしい。適任といえば適任だろう。アイツらは恐らく感染者ではない。笑い声に混じって押し殺した咳をする。花弁をポケットへ押し込むと、トラファルガーが顎で部屋の一角を指した。少し顔を斜めにすると、奴らの荷物に混じって黒い大きな鞄がある。そこにデカデカとあるギャングのマークが描かれていた。代替わりをしてからは自己顕示欲の強く、最近名を馳せ始めた新参者の率いる弱小ギャングだ。近頃は大人しいと思ったら新しいビジネスへと手を広げたらしい。


「でもこの島も不気味だよなァ!」
「まるで人間が木になったみたいでよォ……」
「なんだよお前、ビビってんのか!?」
「ンなわけねーだろバッキャロイ!」
「いって! 枝が刺さったじゃねーか!」
「たしかに邪魔だな……切るか」
「あんまり切りすぎるなよ。この木が天井を支えているところもあるんだからな」


 その言葉達に全身の血が引いていった。執務室に鎮座するただ一本の大樹はかつての恩師だった。海軍らしく戦死するわけでも、寿命を全うするような大往生をするわけでもなく、理不尽なまでの病気と呼べるのかさえわからない奇妙な異物と成り果てたかの恩師を。殉職した軍人の墓地に置かれた空っぽの墓にさえ入ることができなかったというのに!
 血の一滴さえ滴らないその身体になろうとも、最早誰も彼のことを覚えていなくても!
 嗚呼、嗚呼、憎い、憎い! 


「おい、よせ!」


 自分の喉からこんなにも獣じみた唸り声が聞こえるとは思わなかった。飛び出そうとした私を抑えたのは扉を挟んで反対側にいたトラファルガーで、揉み合うように抵抗したが壁に押し付けられるように拘束されては非力な女の力で抜け出せるはずもなかった。馬鹿騒ぎと打ち付けるような鈍い音がする。刃物が擦れる音と、引き裂く音。葉が揺れて擦れる音、折れる音。
 もう、こんなところに、いたくない。


「……やめて」


 泣き出したい程に蚊の鳴くような声しか出なかった、無力な女の音。トラファルガーが何かを呟き、涙が溢れないように瞬きをした一瞬で景色が変わった。押し付けられていて背にした壁が消えたため体がぐらつく。それを支えるように軽くトラファルガーが手を回す。安定した体幹を見て直ぐに手を離されるも、皮膚の圧迫は消えない。目が眩んだがここは屋外だと気付く。駐屯所の裏庭だ。壁一枚を挟んでアイツらはまだ蛮行を繰り返しているだろう。屋根や壁を突き破る樹が風ではない揺さぶりをかけられているのを見るに、私達のことは気付かれていないのだろう。食いしばった歯が嫌な音を立てる。


「───すみません、軽率な行動でした。時間がありませんし、一先ず大参謀へ連絡します」
「……この果物、例のやつか」
「そうです。殆どの木は処分されましたがここのものは残っていたんですね」


 海が見渡せる自慢の裏庭はたっぷりの陽射しがそこに聳える一本の木に降り注ぐ。まだ若く背丈もトラファルガーほどしか無い木だ。葉も少ないが一つだけ実がなっている。食べごろで私の吐く花弁よりも甘い匂いがする。昔は美味しいとよく食べていたはずなのに、何故こうも遣る瀬無い気持ちにされる冷たい実だろう。この木にもたれて居眠りをする師匠をよく見ていた。


「一つ寄りたい場所がある。そこの研究室だ。何か資料残ってるだろ」
「ええ。それならそこの扉を通って左に曲がってまっすぐです」


 爪が手の内に突き刺さるほど握り込んでいたが、短く切る癖があるからか傷を作るほどではなかった。私の言葉に頷いたトラファルガーが一度立ち止まって此方を振り返るまででも無いほどに顔を傾ける。


「……自分の感情を殺しきれない軽率な行動だった。だが、その後の収め方は軍人として及第点だ」


 それから長い脚を忙しなく進めて簡単に私を置き去りにした。暖かさを感じる陽光の中、ぽつねんと佇む私はその言葉を反芻する。諌めと誉れ。そう捉えてもいいのかと自問ばかりを繰り返す。一歩一歩裏庭の土を踏みしめてそこを出る。息を吐くたびに何かを落としてしまっているが、それが今の私に不要なものだと誰かが肩を叩いた。振り返れば水平線の上に船が見える。もう時間がない。だからこそ、目的を違えてはいけない。
 狙撃手は感情を揺さぶられてはいけない、揺れても直ぐに凪ぐよう努力しなさい。冷静であれ。
 まだ教えが生きている。まだ教わりたいことがあった。私の中でしか生きていなかった師匠が、もう会えるはずもなかったあの海賊に会えたことを、ただただ誇りに思う。





 私と合流する頃には一通り見て回って満足したのか研究室の扉を閉めるトラファルガーと駐屯所を後にした。大参謀へ連絡をし、指示を仰ごうと拠点に帰った時に私の電伝虫がけたましく呼び出しをしているのに気付いた。基本的にこちらから定時連絡しかしないので、呼び出されるとなると緊急の事態だろう。いくらか緊張の増した手つきで受話器を持ち上げる。


「───はい、こちらニイナ……」
『漸く繋がったかい。定時連絡の時間は過ぎておるよ』
「えっ、あ、つる中将殿……!?」


 過ぎていると言っても五分と経たないはずだ。言葉の意味を考えるのに思考を回したが、よくよく聞いてみると揶揄するような声色で安心する。昇級早々怒られてはたまったものではない。安堵で取り落としそうになるそれを握り直して、訝しげにこちらを見るトラファルガーと瞳がかち合う。


「ちょうどよかったです。ご報告があります」
『こちらも収穫があった。例のギャングがそちらへ向かっていると連絡が入ってねぇ』
「そしてここを倉庫拠点とするようです。一般人はおろか軍さえも巡回に来ない無人島のようなものですから妥当な所でしょう」
『ふむ、繋がったね。恐らくもうそちらに着いている頃だろう。こちらの増援も近隣から掻き集めても数時間はかかる。鎮圧、若しくは足止めを願おう』
「拝命いたしました」
『トラファルガー、この子を頼んだよ』


 誰の返事も待たないまま、電伝虫の瞼は閉ざされた。頼まれたところで、この男は私を必要としない。何をわかりきったことを、と顔を上げるとこちらを見下ろすトラファルガーと目があって驚いた。


「ど、どうしました……?」
「いや。一人も逃す気がないなら早くした方がいい。一度しか言わないからよく聞け」


 はぐらかされたような気がする。その時、外から複数の足音が響いた。知り得ない気配に身を固くするも、トラファルガーは悠然と椅子の背もたれに腰掛けてニヤリと口角を上げた。


「俺に策がある」


 自信に満ちた強い声だった。扉から入ってきた複数人はお揃いのつなぎを着ていて、トラファルガーと同じ悪どい笑みを浮かべていた。





 風は少しばかり強いが視界は良好だった。もうすぐ夕暮れが近づいているが、これくらいならまだ私は視える。


「隣、いいか?」


 聞きなれない男の声と、柔和な笑みだけを見せるペンギン帽子の海賊。どうやら先ほど拠点にしている教会に来たトラファルガーのクルーのうち、副船長のように信頼を寄せられている男だった。その男、ペンギンは私の許可もなしに隣に座り込み、自分の銃を組み立て始める。伏せている私が上にかけている布のはためきを正すように一撫でした後、自身も同じように伏せた。ここから師匠の木がよく見える。上からは見たことがないので新鮮だ。


「うちの船長が世話になったな」
「……いえ、協力感謝いたします」
「固いなぁ。別にうちとしてもメリットがそこそこあるから受けたんだぜ」
「ああ、献上品を三ヶ月免除でしたっけ」
「もう少し増やしてほしいところなんだがな」
「それは大参謀へ掛け合ってください」
「はは、なら諦めるとするか」
「そうしてください」
「……そのさ、船長、いい人だろ?」
「なんですか急に」
「いいや、別にこちらとしても必要以上に馴れ合おうとは思っちゃいない。ただ、あの人の印象を海軍サイドから聞いたことなくてな」
「海賊なんてみんな一緒です。犯罪者で悪人で、利己的で、残虐的思考ばかり持つ野蛮な───」


 そこからの声が出なかった。私は誰のことを言っている?
 トラファルガーのことを聞かれているのに見当違いな一般的な海賊像を連ねているだけに過ぎなかった。私は誰のことを言っている?


「……そうか。それならいいんだ」


 不自然に止まった私の頭の中を覗き込んだのか柔らかな声が落ちてきた。棘のない、まろやかで優しい声は空中に溶けた。
 薄青色の皮膜が私たちを越していく。もう始まったのか、とライフルを担ぎ直した。まず船の機動を削ぐために岩がいくつも落ちて浸水しない程度に穴を開ける。何人かいた見張りと交戦するためにトラファルガーの仲間がタラップを駆け上がる。駐屯所を前にしたトラファルガーが一閃を抜刀する。無駄のない美しい動きは師匠の木ごと天井を削いだ。これで私たち遠距離支援がしやすくなる。この作戦は私が提案した。一悶着あったが了承してもらえた。あとでくっつけてもらえればいいし、どうせいつかは朽ちるなら今だって構わない。


「……俺は普段銃を使わないから長距離狙撃手は暇でいいなと正直思っていた。だけど先読みしてサポートをして正確な射撃をするなんて集中力がどれだけあっても足りない。怖いくらいだ」
「前に同じようなことを言われたことがあります。狙撃手は前線に立つことがない臆病者だと」
「俺はそういうつもりで言ったんじゃない」
「でも思ってたじゃないですか。でも正解です。集中力が桁外れなことも、臆病なことも」


 トラファルガーの背後に立った敵を撃ち抜く。素早くボルトを回転させて排莢し装填する。空の薬莢が転がる音の合間にトラファルガーと目があったような気がした。二人、三人と射抜く。振り上げる腕や飛び出した瞬間を全て捕らえていくとペンギンが唖然と口を開けた。


「まるで、未来が見えているようだ」
「……正確な射撃は名乗りをあげるようなものだと言われました」


 惰性で余生を送ろうと決めていた。生きる意味や指針なんてなくとも命は鼓動する。趣味という暇つぶしと生きていける賃金のために平凡ながらも安全な職場に転がり込んだつもりだ。もちろん海軍であるが故に非常時という多少のリスクはあるけど、末端の窓際に近い席だ。出動する機会はそうそう恵まれない。それでいい。その安寧の泥濘に沈んでいけ。そうしてやがて意味のない人生だったと思って死ねれば一般の人間と変わりない。不変と平凡に支配されることを望んでいたし、そのための盤石を築いて砦を作ったはずなのに。
 それを全て打ち砕く。良いだろう、代償は支払う。その心にしかと刻め。


「私は海軍だ。正義こそ我々だ」


 最期に何か遺したかった。師匠が私の心の中にいるように、ギャングでも海賊でも良いから覚えていて欲しかった。あの名前の知らない女海軍の射撃は凄かったという漠然なものでも構わない。ほんの少し、誰かの心に弾痕を残せるなら、それで。
 振り上げられたサーベルを撃ち落とし、白熊の相手をしていたギャングを撃つ。凪いだ心を維持し、黙々とボルトを引く。隣のペンギンもあまり慣れていなくとも腕は悪くない。トラファルガーの能力は資料を見て知っていたし、仮にも七武海になる男がこんなギャング相手に負けるわけがないことは知っていた。私の援護が必要だったかどうかさえ疑わしい。目を凝らしてトラファルガーの周囲を見る。無駄のない動きだった。私に狙撃されるという懸念を抱いていない、自由に戦うその姿。美しいとさえ思ってしまった。


「……ッ、ぅ、けふっ!」


 甘い香りが風に流れて乱される。はらはらと零れ落ちる花弁が邪魔で、その流れを止めるよう弾丸を二つ歯で挟み、トラファルガーを狙う銃口を早撃ちで仕留める。ブレやすいから早撃ちは苦手なものの、守る対象からかけ離れた場所に敵がいれば遠慮はいらない。
 それでもこみ上げる咳は止まらず、吐いた薄桃色の花が用済みの薬莢を覆い隠す。見兼ねたペンギンが背中をさする。


「なに、す……けほっ、いいから、早く援護を……!」
「もう終わった」


 その言葉にハッとして見下ろせば、あれほど響いた怒号が止んでいる。そうか、終わったのか。緊張の糸が解れて体の力が抜ける。狙撃の寝そべった体制でよかった。立っていたら崩れ落ちたかもしれないほどに私は疲弊していた。もうこの場から動きたくない。


「本当に花を吐くんだな。船長から話を聞いた時はとんだ妄言をと思ったが、まさかこんな美しい光景なんてな」
「やめてください。こんなのは、なにも……!」
「ほら、船長が呼んでる。これ頼まれたものだからついでに持ってってくれ」
「嫌です。もう動けない」
「仕方ないお嬢さんだなー」


 約束通りトラファルガーが天井と樹を戻す。何事もなかったように枝葉が揺れるのを見て安堵していれば、ペンギンから何かが入ったバッグを押し付けられる。だけどもう私は立ち上がりたくない。いや、立ち上がるのが限界で、歩くのは到底無理だ。まるで、根を下ろしたかのような。
 ペンギンが徐に立ち上がって銃を大きく左右に振る。ため息をついたかのようなトラファルガーが遠くにいたかと思えば、いつのまにか近くにいた。


「え、あ、いたっ!」
「いつまで寝てんだテメェは」
「能力使うならこの鞄だけでいいですよね!?」
「お前も必要なんだよ」
「はあ? わけわからな……」
「立て」


 痛いくらいに腕を引っ張られて仕方なしに立ち上がる。ふらふらとする足が地面につくと、もう固定されたかのように固くなった。何かが骨を揺らして軋ませる。内臓がぞわぞわして泡立つようだ。
 これが、師匠の感じたことなのか。何もしてやれなかった私を見ながら果てた彼は、この感覚の中微笑んだのか。遣る瀬無い気持ちばかりが花弁のように積もる。目の前には地元名産の果実を一つつけた小ぶりな木が一本。そこで漸く私はここが駐屯所の裏庭だと気付いた。ちょうどいいかもしれない。このまま、最後の木を飲み込んで大きく育とう。そうして師匠と並んで「ただいま」と葉を揺らしたい。


「おい、まだ寝るな」


 ぺち、と軽く頬を叩かれる。瞑っていた目を開けてみれば青いゴムの手袋をして手術とかでよく見るメスを持ったトラファルガーがいた。なにこれ怖い。


「は!? 待ってください説明してください!!」
「黙れ。お前言っただろ、テメェの病気と白鉛病は似たようなものだと」
「い、言いましたけど! それは物の例えであって気分を害したなら謝りま……」
「その通りだった。その通りだったんだよ」


 自分に言い聞かせるような物言いに目を見開く。研究室に立ち寄ったのも、部下に荷物を持って来させたのも、全ての物事に理由が色付けされた。分かってしまえば急に恐怖がやってくる。治る見込みが、可能性が出てきてしまえば、私はまた無意味な日々に戻ってしまう。ここで意味ある死を遂げた方がいいのに。


「やめてください! 私はもう手遅れなんです。内臓を食い破り骨が軋む音が聞こえるんです! どうかこのまま死なせてください!」
「ごちゃごちゃうるせェ! 手遅れかどうかなんざ医者が決めるんだよ!!」


 ───シャッ!
 縦にメスが振られ、何かの振動を感じて少し仰け反るとペラリと服が真ん中から左右に分かれた。あれ、服の裏側って赤かったっけ、と思い覗き込むと白いいくつもの先端が見えた瞬間に両手で目を覆った。能力を使うなら言って欲しい。誰が好き好んで自分の体内を覗きたいと思うのか。


「な、なんっ、何をするんですかー!!」
「それ以上騒ぐなら喉笛掻き切るぞ! おいシャチ、お前らでそこに伸びてる野郎共を縛り上げろ。俺はここでオペしてる」
「やめて、本当にやめてください!」
「今更泣き言言うんじゃねェ。腹括れ!」
「括る時間をくださいよ!!」


 臓器を撫でられる感覚にぞわりとして変な悲鳴が出る。固く目を閉じて更に手で覆いかぶせているも、余計に神経が研ぎ澄まされるような気がして声を出さなければ失神してしまいそうだった。気のせいか風が当たる。気分悪くなってきた。


「本当に、やだ……大体私は海兵で貴方は海賊ですよ!? 助ける義理も理由もない! それこそ偽善です!!」
「偽善で結構!! それで助かるやつがいるなら偽善でも構わねェだろうが! 体裁ばかり気にしやがって、だからおれはお前ら海軍が嫌いだ!!」


 トラファルガーの吠える声を、初めて聞いた。冷たいばかりだと思っていたのに、こんなにも私の目頭を熱くさせる。
 私は、彼の熱に惹かれて止まない。海賊という無法者であるのに。医者と名乗るくせに残虐な犯罪者であるというのに。どうしてこうも正しいと思ってしまうのだろう。正義の兵として、背中の文字を疑ってはいけないというのに。目の前のその男こそが、正しいと全身が喚いている。


「む、りです……! これは致死率百パーセントで不治の病で誰も完治したことのない病気なんですよ! 私はまた師匠のいない日々に戻りたくない……お願い、死なせて!」
「そんな病気でも俺は治った! 医者の前で死にてェなんて二度と言うな!」


 花弁の代わりに、閉ざした瞼の裏側から涙が零れ落ちた。こんなに、真っ向にも生きろと言われたことが今まであっただろうか。
 嗚呼、神様。私はまだ、生きて何かを成し遂げる使命があるのでしょうか。ならどうか、無意味だと思っていた日々をもう一度見つめ直したいから、どうか生きたいと言わせてください。
 永遠にも感じた瞬間だった。止めどなく溢れる涙が不快感を和らげていく。熱くなる頭がただ生を望んでいた。するりと割れていた体の前面を撫でられ、世界が弾ける音がした。トラファルガーが離れる気配がして、そこで漸く目を開けた。光で眩む。世界は夕焼けに染まりつつある。


「……肺や肝臓に小さな種が食い込みそこから発芽する。大きな原因はそれだ。全て取り除いたがここに居続ければまた遺伝子に組み込まれた種が細胞から発芽するだろう。アフターケアとしてこの場に残留しない方がいい。もう自殺願望を持っていないならな」


 一輪の、薄桃色の花を差し出される。今摘み取ったように水々しいそれは、私の体内で咲いていたものらしかった。甘い匂いがする。体内からではなく、目の前の花から鼻腔を通って感じる。治ったんだ、生きているんだ。信じ難くて振り返る。駐屯所から生える樹は強まりつつある風に揺れていた。それがまるで手を振っているようだったから、もう思い出にしかいない師匠の笑顔が蘇る。
 偽善でもなんでもいい。理由がどうあれ助かったのだから御礼を言おうとして視線を戻した瞬間、持っていた花を落としそうになった。


「何やってるんですか! やめてくださいッ!!」
「俺に命令するな。それに代々食わなきゃいいんだろ」
「だからって……!」
「俺の能力は体力を使う。腹減ってるんだよ。さらに重ねるとパンが嫌いだ」


 ただ一つきりの果実をもいで食べるトラファルガーに目を剥いた。今その手術を終えたはずなのに。私がいくら言っても淡々と事実を述べる。確かにそうだけども。気持ちはわかるけども。軍艦で出た食事はパンがメインだったのが嫌だったんだろうけども。
 久しぶりに動かした足がもつれてトラファルガーの腕にしがみつく。嫌そうな顔をされたが止めたい。振り払わないだけマシだが、これ見よがしに二口、三口と食べていく。いじめっ子か。


「……美味いな、これ。お前らもこれを食って生きていたんだな」


 垂れた果汁を舐めとる仕草にくらっと来ていたが、ぼそりと誰に宛てるわけでもなく空中に霧散した言葉が私には見えた。確かに私の射線の先は、誰かに気付いて貰えたのだと今更ながらに心に落ちてきた。これからお互い別々に生きていくとして、一生会わなかったとしても、きっと互いに忘れはしないだろう。

 そう、思っていたのだが。


「───主治医に挨拶もなしとは、随分デカくなったものだな、ニイナ大佐殿?」
「ッひぃ!?」


 背後から気配もなく忍び寄ってきた地獄の主に鳥肌が立つ。吹雪は収まったものの今だチラつく雪の隙間、帽子で翳った目元が私を見下す様はデジャヴを感じる。強いて言えば、口元が凶悪に歪んでいる違いくらいだ。
 彼と出会うきっかけになった任務遂行後につる中将へ直接報告をした。手術のことはなんだか伏せたくなって言わなかったが、私が告げ終わるとそうかい、と全てを見たように優しく両目を細められた。その後一礼して去ろうとした私の背に異動の連絡をかけられた。とある七武海からの推薦でお前の目を腐らせるのは勿体無いと言われたらしく、次の日からG-5所属となった。
 そこでもまあ荒くれ者が集うだけあって今まで以上に海賊討伐に精を出した。その度に必要とされるからあの一件以来の過去の記憶が薄れていっている。誰もいなくなった故郷は密かにバスターコールにより沈んだと風の噂で聞いたが、未練はない。


「なんだ、お前ら知り合いだったのか」


 スモーカー中将がわざわざ近寄ってきて葉巻の匂いを濃くする。私はこの人が苦手だからこうして一番遠い焚火に当たっているというのに。というより、このパンクハザードに来てトラファルガーの顔を見た瞬間から私は隠れていた。ヴェルゴ中将の裏切りは確かにショックだったが、後方支援の私は遠くからの伝令頼りでしか戦局を知らない。暫く船にいて落ち着いた今は何食わぬ顔で支給品のスープを飲んでいたのに。なぜこちらに二人も来る。


「はい、中将。いいえ、この人は全く知りませ……」
「なに、ちょっと体の奥底まで覗いた仲だ」
「誤解されるようなこと言わないでくれます!?」


 思わず空の椀を投げてしまった。スモーカー中将が思いっきり眉間に皺を寄せている。いろんな勘違いが生まれそうだけど訂正するのも話が長くなる。何よりあの島での出来事は軍事機密として箝口令が出されているのだ。うまく説明したところで勘違いが深まるのも避けたい。ここはひとつ、離脱するのみ。


「それでは私は戦艦に傷がないか見てきますのであとはお二人で……」
「おい白猟屋、お前俺のことまだ疑ってるんだろ?」


 何の話か知らないが、知らないに越したことはない。断じて海軍さえ立ち入り禁止のパンクハザードにトラファルガーがいようと、私の知ったことではない。
 立ち去ろうとした私の首の根を誰かが掴む。マフラーなくてよかったけど、これもこれで襟が食い込んで苦しい。もうリブの立襟は買わない。


「なんっ、ちょ、ぐるしっ……!」
「そんなに心配なら見張りをつけりゃいいだろ。この新任の大佐殿とかな」
「そうだな」
「はあぁー!? 待ってください、スモーカー中将までそんなあっさりと!」
「テメェまだバレてねェと思ってんのか! 俺がロギアだから弾が当たらないことをいいことに貫通させて敵に当ててるの知ってんだぞ!」
「げっ……わざとではありません!」
「嘘つけぇ!」
「話は纏まったな。貰っていくぞ」


 一度屈んだトラファルガーが私の鳩尾に肩をつけて立ち上がる。そこを起点に私の体は二つ折りになり、簡単に持ち上げられた。そう、鳩尾をである。


「ぉぐえっ……! なんっ、なんてことを……!」
「おい、俺の肩で吐くんじゃねぇ」
「貴方という人は……! 私の扱いが雑です!」
「そういやクルーにもあんな場所で女をオペするなんてデリカシーのない、と言われたな。まあ俺の勝手だろ」
「本当ですよ非常識です!!」
「そうだ、俺は海賊だから常識に囚われるつもりはねェ。お前に法外な治療費吹っ掛けて死ぬまで毟り取ってやる」
「もうやだ……忘れてください……」


 せめて鳩尾以外の所をと少しポジションを調整する。別に俵にしなくても自分で歩くのに。大佐級の給金で一体何分割可能かと健気に計算をするも、すぐに諦めた。楽しそうに笑うこの男の心底まで私には見えない。


「……忘れられるかよ」


 雪に溶けるような声だった。どくり、と空っぽの花瓶になった心臓が鳴く。トラファルガーの帽子に触れた雪がゆっくり溶けていく。しがみついたコートの下はほんのり温かい。私はまだ生きている。
 吹雪始める天候の中、遠くの晴れ間から差し込む光が行く先を照らしていた。




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