小説 | ナノ


「私が代わりに泣くから、私が泣いたらだきしめてください」


 冗談のように笑う幼いその女の臆病な瞳は、本心さえも隠していた。

 意識は浮上するも、それは部屋の中をうろうろと彷徨っていた。目を開けて景色を写せば、今見ていた幻は朧に掻き消されていく。時間帯はまだ朝なのだろう。白に近い陽射しが水面を反射するようにゆらゆら揺れている。次の島に向かうために誰かが操縦しているのだろう。
 身支度をする合間に今日の各員のスケジュールを思い出す。皆少ない人数で上手い事やり繰りしてくれるために、おれのすることはない。昨日読みかけの本の栞を解いて、未だ鳴らない腹が喚くまでそれに没頭することにした。

 今朝の夢は既に忘れたものの、ただなんとなくあの女が幼い姿で出てきた気がする。コックから遅めの朝食───他の奴らより一足早い昼飯───を受け取った時に気付いた。恐らく一ヶ月前に偶然再会した女が原因だ。一悶着はあったものの、今はこの船の使いっ走りとして乗せている。白亜の美しい建物のなかで淑やかに笑う大人ぶった子供が頭を過ぎった。
 潜水艇は日照不足となるため、浮上している今がチャンスと日光浴の為に甲板に出た。はためく洗濯物の奥に珍しく古参のクルーが揃って例の女と談笑していた。


「あっ、キャプテーン!」


 気付いたベポが手を挙げる。その声につられて他の奴らもこちらを見るから、近寄らざるを得なかった。昔馴染みと偽っている女は柔和な笑みを浮かべる。
 フレバンスでの顔馴染みだった。他国から移住して来たというその女は異国の花の香りを纏わせ、常に大人ぶった笑みを浮かべていた。誰にでも分け隔てなく接し、豊富な知識を持ってすぐに子供達と打ち解けていた。おれにも散々話しかけてきたから覚えている。蛙の解剖ばかりするおれに「賢いんですね」と笑ってこの臓器はなんだと聞いてきたものだ。色々と教えてやればスポンジのように吸収し、頭の回転も早いことから元々博識なのだと気付く。教養の差に嫌味はなく、むしろ知らないことは聞くし知らなければ与える姿も見受けられた。無愛想で医学の道しか興味なかったおれと、賢いのはどちらだったのか。
 そんな彼女は留学が決まりすぐに知らない土地へと赴いてしまった。それから次第に情勢が悪化し、彼女は二度とフレバンスの土地を踏むことなく行方不明となった。両親や友人の死に相見えることなく、彼女とも今生の別れだと思った。かつては。一ヶ月前に忘れていた記憶を呼び起こされ、再会するまでは。


「相変わらず寝起きが悪いんですね」


 マセた子供が年相応になれば落ち着いた淑女のように見えるはずだが、おれにはまだこの女が背伸びをしているようにしか見えない。小さい頃からの顔馴染みのせいなのか、なにかの勘なのか。今のおれには計り知れない。


「やっぱりキャプテン子供の頃から寝起き悪りぃの?」
「それはもう。夜寝ないからでしょうね。日中眠いのか、授業中やサボって出掛けた草原で寝こけているのを何回も見ました。それを起こす子は毎回悲惨な目に合ってましたし」
「適当なこと言ってるんじゃねェよ」
「夜になっても帰ってこないから、と探してあげたのは誰だと思っているんですか」


 懐古を楽しむように笑う女に眉を顰めただけで何も言わなかった。それを図星だと悟ったペンギンがニヤリと口角を上げ、ベポとシャチが笑い転げていた。手前にいたシャチを鬼哭の鞘で小突くと悲鳴に掻き消された。
 空いているスペースへと寝転がればちょうどベポの腹の上へ背を預ける形になる。いつものようにそこに収まろうと居住まいを正すはずが、その獣の手で横へ移動させられた。馴染みとは違った柔らかさが枕になるが、やけに低い。どういうことだと逆光気味の立ち上がったベポへ視線を向けると弾むような声が降ってきた。


「キャプテン、島が見えたよ」
「おっ、そろそろ仕事しねーと」
「俺もクリオネと見張り代わらないとな」
「じゃ、キャプテンよろしくね」


 俺に掛ける言葉はなく、二人と一匹はそそくさと退散していった。残る選択肢を見るために上を見上げれば、横から差し込む強い陽射しに邪魔をされる。それを遮るように白く細い指先が俺の帽子の鍔を下げる。


「また眠れないんですか?」


 目の下の隈を擽るように触れるかどうかの皮膚をなぞる。羽毛で撫でられたような感覚が心地よくて瞼を閉ざした。薄らと入り込む光を暗闇の中に知覚しながら深く息を吐く。


「……別に」
「では、悪夢を見たら私が起こしてあげますから」


 おやすみなさい。
 物分かりのいいふりをした、母のような包容力を偽ることをした、マセた少女が脳裏に浮かぶ。大人になってさえもその頃のイメージは消えずに不自然さがこびり着いて止まない。
 慣れない膝枕では眠れるわけもなく、日を遮るつもりの指先こそ口実で、僅かに耳の縁を赤くした女のことを片隅に夢の狭間を漂うに任せた。

 遠くに感じる空気が澄んでいる。それを呼び水にして意識が上昇する。夕方が沈むような時間ではないはずだが、グランドラインでは時間帯や気候さえ役に立たない。世界を巡っているのだから当たり前なのだが、こちらの時間を否定されるようで発狂する奴もいると聞くから末恐ろしい。まだ茜空だと思っていたが、この島では夜の方が早いらしい。冷やされた空気で肺の中を一新した時に漸く瞼を開けた。その身動ぎに覚醒を悟ったのか、上から起き抜けの挨拶が降ってくる。いつのまにかおれの体にブランケットが掛かっており、女は本を読んでいた。背の揺れに船が停泊していることを悟る。


「皆さん中にいます。貴方の指示待ちですよ」
「起こせばいいだろ」
「起こしちゃダメ、とベポから言われていましたから」


 苦笑する女の膝から起き上がると島は何かの祭りなのか明るく賑わっていた。宵闇を照らす中から子供の賑やかな声が聞こえる。


「何かのお祭りでしょうか。皆さんも気になっていましたよ」
「……お前も行きたいのか」
「えっ……」


 遠くを見つめるような瞳に意外そうな声を掛けると、驚愕が返ってきた。落ち着いているコイツが祭りを楽しむ様子はいくら描いてもしっくり来ず、瞳の中に羨望もないことも気掛かりだった。
 ゆるゆると驚愕が衰退し、最後には消え入るような否定が残された。


「……ただ、懐かしいな、と。フレバンスでもたくさんお祭りがあったでしょう」


 ふ、と潜められた声だった。この場には二人しかいないというのに、誰にも明かしていないおれの故郷と女の名残りを声にする。


「よく覚えているな」
「当たり前でしょう。何度も行きましたし」
「思い出した、ガラにもなく燥ぐアンタを珍しいと思った」
「貴方に妹さんがいるとは知りませんでした」
「どういうことだ」
「似なくて良かった、という意味です」


 隈とか無愛想なところとか、と失礼なことを宣いながら揶揄う女の額を軽く叩くと今度は笑い声が聞こえた。長くは続かないそれが途切れた時に静寂が流れ、潮の音が合間を繋ぐようにさざめく。


「……私がフレバンスに来た理由はイジメだったんです。気を使った両親が前から憧れていたフレバンスに行くという名目上、私は生まれ故郷を捨てました。フレバンスこそ私の故郷です」


 寂しかった、と元少女は言う。傷付くのが怖くて下手に出るように敬語を使い、皆の顔色を伺い、興味を引くように知識で駆け引きをする。実際それらは違和感なく馴染んでいった。おれの中の蟠りさえ意識させないほどに。今更それを非難するつもりはない。板についてしまったものを更生させるつもりもない。なのに、まだ不自然に感じてしまうなら───彼女の中の静寂は消えていない。


「怖いんです、私。留学先でフレバンスの壊滅を知った時からおかしいんです。もうないって知っているのに見ていないから知らないんです。フレバンスはまだあって、こうしてお祭りを友人たちと巡って、両親が帰りを待っていると。盲信してしまう自分が怖くて仕方ない。どうしてあの場にいなかったんだろう。どうして私、生きているんだろう」


 沈みゆく茜を僅かに含んだ瞳が揺れ動く。ぼんやりと郷愁と後悔を孕んだ涙が零れ落ちた。気にする様子もなく、自分が泣いていることさえ気付かない女は祭囃子を見つめていた。
 この女は偶然立ち寄った島で出会った。留学先と聞いていた島だとその顔を見て気付き、女もおれだと気付いた途端に脱兎の如く逃げ出した。追いついた家屋の奥で小さく震えていた女の背にかける言葉を探す合間に聞こえないふりをした会いたくなかった、受け入れたくなかったという言葉の意味を今垣間見る。


「お願いです、ロー。私よりも先に死なないでください。もう一人になりたくないんです」


 怜悧でマセていた少女は、人一倍臆病なだけだった。
 頬を伝う冷たい涙にそっと触れると、漸く気付いたのか自分で擦るように拭った。


「……おれの代わりに泣くんじゃなかったのか」
「……驚きました、覚えていたんですね」
「お前もな。覚えているなら、俺の為に泣け」


 濡れた指先は僅かな夕陽に照らされて輝いていた。
 おれだって郷愁がないわけではない。後悔がないわけではない。だけども、恩人のおかげで前に進めている。指針の遺志の元、遂げたい思いがある。復讐をする暇さえなく、ただ一心にあの人に報いたいだけだった。


「お前はただ、おれの事だけ考えていればいい」


 掌で包み込めそうなその小さな頭を肩に寄せて閉じ込める。おれの代わりに泣くなら、それ以外考える必要はない。おれのためを思うなら、隣にいて共に歩めればいい。茜色が沈む僅かな時間、少しばかり迷っていた手がおれの服を掴むのを感じながら、そうしていた。
 道標がないコイツの、ただ一つの指針になれればいいと密やかに願いながら。

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