小説 | ナノ


「ロー、お昼だよー」
「ああ」


 甲板でベポに凭れていた俺を見つけたニイナが大皿を手に近寄ってくる。反対の手には湯気の立つマグカップが二つと腕にはバスケットを下げていた。この海域はラフなカットソーのみでも暖かく、服の隙間を吹き抜ける風が心地よい。外で食事をするのも悪くないだろう。
 大皿の上には握り飯やサンドイッチなどの軽食が乗っている。視線をニイナに向ければ苦笑して「具は焼き魚だって」と返ってくる。サンドイッチに魚が挟んであるのが見当たらない限り、握り飯のほうの話だろう。約十年ぶりに会った他人というのに意思の疎通ができていることを褒めるべきか、もういい加減染み付いた教訓なのか、決めあぐねて無言で体を起こすに止まった。前者ではないとその口から言われたらこの気候に見合わぬ機嫌になることは自分でも明らかだったからだ。
 俺が体を起こしたからか、それともいい匂いがその嗅覚を刺激したのかベポも起き上がった。


「あっ、美味しそう!」
「ベポにはこっち。これから航路確かめに行くんでしょ?」
「そういえばそうだった……。ありがとう、ニイナ!」
「どういたしまして」


 ベポが大皿に手を伸ばす前にすかさず持っていたバスケットを渡す。同じように軽食が入ったそれを受け取ったベポが手を振りながら慌ただしく船内に入って行くのを柔い笑顔で見送ったニイナが、マグカップを差し出して来た。心持ち暖かくなるような紅茶は前の島で手に入れた銘柄のはずだ。一口啜れば無意味な甘味がなく、若芽が発酵した程良い風味が口内を占めて鼻から抜ける。ちゃんと茶葉が開いている、素直に美味いと言える味だった。どちらかというと脳内覚醒のために珈琲を好むが、偶に飲む紅茶も嫌いではない。服が触れるほど近くに座る、警戒心のカケラもないニイナのように。


「今日、風が気持ちいいね」
「ああ」


 サンドイッチに齧り付くニイナの髪が揺れている。暖かい陽射しが足元で揺れている。帆船によって翳るここの気温は悪くない。握り飯もまだ乾いておらず、ふっくらした米粒と焼魚の塩気が食欲を増進させるようでいつのまにかなくなったそれを補充するように大皿に手を伸ばした。


「ローって本当おにぎり好きだよね」
「小麦粉よりも、腹持ちとエネルギー変換効率がいいからな」
「保存で言ったら小麦粉のほうがいいよ。作れる種類も豊富だし」
「最近、米粉の開発も進んでいるだろう。ビーフンや米粉パンとかな」
「じゃあ今度米粉パン作ってあげるから食べてね」
「やめろ」


 俺には握り飯だけでいいというのに、なぜそれを加工してまでパンにしようとするのかわからない。揚げ足をとり戯けるような語尾に被せてまで否定すると、その必死さにニイナが笑った。その目尻を下げる笑い方が、好きだった。


「ローは本当、パン嫌いだよねぇ」
「好き嫌いのねェお前と一緒にするな」
「いい子だろう?」
「そうだな、舌が鈍感な程万遍なく栄養素を取れる。良いことだ」
「馬鹿にしてんの、それ」


 ムッとしたように唇をへの字に曲げるニイナを笑うと性格が悪い、と言われた。年上のはずがたまにこうして子供のようになるニイナが素直に愛おしい。
 気を許している、とも言えるだろう。束縛している、とも。全てのニイナを知るのは俺だけで良い。穏やかな心持ちを内包せども、裏を返せば狂気的な想いさえ湧き上がる。それがチラつく度にほくそ笑んで押し留めることがとても気持ち良い。危うい立ち位置にいることは知っている。一歩間違えばその手足を切り落として心臓を抜き取り、ゆっくりと共に死を選ぶだろう。だが、ニイナが柔く笑って俺を呼ぶ声が好きだ。その一瞬を何度でも渇望する限り、俺の理性はニイナを生かす。


「お前に好物はねぇのか」
「好物……?」
「大体のものは好き嫌いせず食べるだろう。だが、好きな食べ物と言われて出てくるものはあるのか?」
「うぅん……」


 考え込むように唸ったニイナがサンドイッチを食べる手を休めてまで熟考している。そこまで悩むものではないだろうに、己の嗜好すらパッと出てこない当たり長年張り詰めていた神経のせいかもしれない。これはカウンセリングをする必要があるな、と今後の予定にひとつ付け加えた所でニイナが口を開いた。どこかぼんやり遠くを見ているようで、紡いだ言葉は郷愁が混じる穏やかな声だった。


「ベルウェアに咲く薔薇のコンフィチュール、かな。肉厚な薔薇の花弁なんだけど、味は苺とか桃みたいに甘酸っぱくて。一年に一度豊作祭みたいなのが開かれるんだ。その時にしか出回らないんだけど……もうどうしようもないことだよ」
「……、」
「船長ー?」


 諦念も悲嘆もなく、ただ淡々と事実を述べるようなその横顔になんて声をかけるか決めあぐねていた一瞬、不意に扉が開いてペンギンが顔を出す。ここにいましたか、とニイナの目の前にしゃがんでサンドイッチを奪った。ニイナもニイナでさして咎めるわけでもなく、紅茶を啜る。
 こいつらがこの距離感になるまで、他のクルーよりも長かった。俺としては和解するのは本人達次第と放任していたが、ちょうど良く機会が訪れた。そしてニイナの実力を知らしめるための良い機会でもあり、当初の目的に釣りがついたようなものだ。皆には言えない理由があるため立場は客人だが、ペンギンを見て分かる通り、それは名ばかりでしかない。最早言わぬだけで───仲間として、俺の兄貴は受け入れられた。


「島が見えました。航路から逸れますが、どうしますか」
「補給に寄港するのも悪くねェな」
「ええ、栄えているようで高い建物や商船もチラホラ見受けられます。物資は豊富な方が良いでしょう」
「期間は様子を見て、だな。海軍の駐屯所がなけりゃ、少しハメを外すのもいい」


 ペンギンの口角が上がる。シャチが喜びそうですね、なんて言いながら胸中は浮かれているのだろう。わかりやすいやつほど扱いやすくて助かる。ペンギンが立ち上がると同時にニイナも立ち上がった。気付くと大皿の上にはパン屑と俺のための握り飯しか乗っていない。後片付けよろしくと、俺に言いつけてマグカップ片手にペンギン共々船内に戻っていった。俺に始末付けさせようなんて言い出すのはニイナだけだ。面倒ごとを押し付けられたようだが、そういうことができるのはニイナだけで、本当の身内のように近い距離感が好きだった。
 だから、たまには我儘を聞いてやりたかったというのに……これでは。





 立ち寄った島は確かに物資豊富で、海軍もおらず船員達が多少羽目を外せるほど穏やかな所であったのは幸いだ。だが、コイツにはそうでもなかったらしい。


「待て!」
「と、と、止まったら殺す気じゃないですかー!!」


 半泣きで叫ぶ声は情けないほど震えていて、ニイナの怒気の篭った咆哮で余計に怯える。しかしいつ見ても魔法というものは不思議なもので、下肢を兎の脚へと変えた標的の女は文字通り脱兎の如く逃げ出した。
 この鬼ごっこが始まったのは、島についてすぐのことだった。二人で服でも見ようかと街を彷徨っている時にニイナが俺の服を引いて駆けたのだ。それですぐに察して後を追えば、前方に小柄な女の背が見えた。追い付くと思ったが、路地裏に入って脚を兎のそれへと変化させ、ニイナから逃げ回っているのだ。なかなかすばしっこい。ニイナもニイナで、普段から見せない鬼気迫る面持ちで追っている。たまに光の矢を放つが、身軽な女は全て躱す。


「チッ、その脚切り落とすしかないか」
「ヒッ! ニイナ少佐、御命だけは!!」
「安心しろ、四肢を落としたくらいで命に差し当たりない」


 悪人面、というものはこういうものを指すのかとゾッとした。手配書の俺の顔をもっていうのも何だが、普段が普段なだけギャップが大きすぎる。悪魔を殺す正義のヒーローだと思っていたが、この逃走劇を見て認識を改めなければ。これではこちらが完全に悪者だ。
 悪魔は真っ赤な瞳を潤ませて命乞いを繰り返す。本当の兎みたいだ。ニイナのことを「少佐」と呼んでいたことから、当時の部下かと想像する。国家を守衛する立場にある人間でさえ容易く悪魔に命を売るなど……忠誠心がないのか、それとも売らなければいけない状況だったのか。


「捕まえた!」
「いやぁぁあああッ!」


 風圧に負けそうになる帽子を深く被り直している先で、漸く捕らえたようだ。同じような風景が続いていたから分かり難かったが、先程は反対側に曲がった所の中継に出ていた。ニイナが追い込んだのか罠を仕掛けていたようで、兎の脚が罠の術式を踏むと同時に勢いよく腕を振り上げれば、発動した術式から縄が飛び出て兎の全身を縛り上げた。陸に上げられた魚のようにのたうち回っているが、それはただ無様なだけだった。


「久しいな、クレアテート中尉。逃げ出すなんて悲しいじゃないか」
「ひッ、少佐、やめっ……」
「安心しろ、貴官らには敬意を表して苦しみなく一撃で仕留めるようにしている」


 四方から光の粒子が集まり、ニイナの右手に美しい装飾のなされた剣が形成される。実戦用というより儀式向けのようなそれを凶悪な顔の前で掲げる姿を見ると、どちらが悪魔か分かりかねた。


「汝、祝福を───」
「お待ち下さい!!」


 その剣に光が集まる手前、突如として噎せ返るような花弁が洪水のように押し寄せた。咄嗟にニイナが後ろにいた俺を庇うように後ずさったおかげで被害は少ないが、二人とも全身に柔らかい花吹雪を打ち付けられた。ニイナの魔法だろうか、強い花の匂いを振り払うように足元から風が吹き上がり、視界を明瞭にした。
 晴れたそこには縛られた兎女を庇うように立ち塞がる長い杖を持った少女がいた。同じように瞳が赤く染まり、幾重もの光の筋が肌を這うことから同じ悪魔憑きだと分かるが、この少女もかつての仲間だろうか。それが今対立することになったニイナの心境は。


「……どうかおやめください。貴方はいつも私達の先陣をきって敵を蹂躙して頂ける方でした。それなのに……」
「その矛先が、殺すべき敵が、自分達だとなぜ気付かない」


 彼女達の中では、ニイナの背中が印象深いのだろう。懇願する瞳は憂いを持つ。気を逸らす為の作戦かもしれないとニイナは警戒するが、俺には本心に思えた。
 立ち塞がる女からスルスルと光の筋が引いていって、瞬きを繰り返すと赤とは正反対の青い瞳が覗いた。武装は解かないが、一先ずそちらに戦意はないと伝えるためだろう。


「……クレアテート少尉、だったか。中尉の妹だな。シャルルの部下にいたと記憶している」
「はっ。ご記憶の片隅に留めて頂き誠に恐縮です。……少佐、もうおやめください。私達は人を襲うことなくひっそりと暮らしております。勿論、商売の花売りで魔法を使う以外は何物にも使用していないと誓います」
「……なあニイナ、過去のお前といい、お前のところは随分餓鬼の時から拝命されるんだな」
「ベルウェアは人口が多いわけじゃない。魔力の素質があれば誰でも階級は与えられる。実戦に出すかどうかはまた違うがな」


 ニイナに呟いた言葉を律儀に拾われる。立ちはだかる少女はどう見ても十代だ。当時のニイナよりは上かもしれないと思ったところで、はたと気付く。年齢の立場と逆転した階級。成長したニイナと当時のままの少女。かつての日を思えば、今のニイナの気持ちを推し量ることなぞ出来なかった。悪魔となればすぐに立ち向かうニイナが悠長に会話しているところが、無意識の中にある思慮からきているものだとしたら。俺が無遠慮に踏み込むことなど許されるものではなかった。


「私達は主犯の大佐とは手を組んではいません。彼も使えない駒はいらないと切り捨てました。私達はもう、戦う意志は持ち合わせていません」
「口では何とでも言える。今の脅威が無くても、今後の脅威がないとは言えない」


 だが、悪魔となれば譲らないのもニイナだった。かつての仲間であれ殺してきたニイナは、迷っても結果を変えることはしなかった。
 少尉の少女と言い合ううちに、中尉が無理矢理拘束を解いて立ち上がる。だがニイナは舌打ちを零せど追撃をすることはない。美しい剣の切っ先が持ち上がることはなかった。


「仮に見逃した所でメリットは? 貴様らは永遠に老いることも死ぬことも許されない。唯一の救いである俺はいつかは死ぬ。なら、遅いも早いもなく、不死の苦痛に苛まれる貴様らを救ってやろうじゃないか」
「……望んでこうなったわけじゃない」


 皮肉を含んだ低い声は苛立ちも添えられている。悠長に立ち話している暇など埒があかないからだ。ただ一つの結論を急くニイナと生き延びる姉妹の攻防の結果は、力の差が歴然としているせいですぐに決着すると思っていた。だが、そこへ結果を変える為の一言が姉から溢れた。「姉さん、」と庇う妹からの制止も聞かずにこちらを睨む青い瞳には薄らと水分が溜まっていた。


「あの時、私達は選択を迫られました。死ぬか、服従するか。道徳や倫理感なんてそんなもの……命に代え難いじゃないですか」
「……」
「屈服するしかなかったんです。呪いは今だに私達の中で渦巻いています。泣きながら切り裂いた人間の肋骨の固さ、血生臭く生温い心臓の味、身震いするほど気持ち悪い魔力の黒さ……全部、全部、覚えています」
「姉さん、やめて……」
「私達はそれしか選べなかったんです……! 力を持つ貴方にはわからないでしょう!!」


 小さな生き物が、捕食者を威嚇する最期までの一抹のようだった。考えたこともなかった。悪魔へ身を捧げたベルウェアの人間は全て天竜人への恨みで動いているものだとばかり思っていた。だがこの姉妹のように生きる為に全てを飲み込んだ人間もいることに、少なからず俺は頭を殴られたような感覚に陥った。
 咆哮する恨みの声を、ニイナはどう受け取ったのだろうか。受け取ってもなお、此奴は結果を変えない。薄らと開かれた口を隠すように、制止をかけるように今度は俺が前へ進んだ。紡ぐ予定のなかった俺の名を弱々しく吐くニイナに、咎めるように笑いかけた。


「……ニイナ、頭冷やしてこい」
「何を、」
「コイツらに戦闘の意思はねェ。心配すんな」


 ぶわりと広がったサークルに目を見開くニイナはこちらの意図が読めたのだろう。今度はニイナが制止をかけようとする言葉を遮るように掌を見せつけた。途端に成り代るフラッグに目の前の二人は驚愕を露わにした。この街一番高い塔の一端に変化したとでも思うだろう。それでいい。思考は少しでも停止していた方が有利だ。


「……さて、交渉といこうか。アイツはただの甘ちゃんだが、俺は海賊だ。今後見逃してもらうなら、それなりの代償が必要なことは知っているだろう?」
「なん、でしょう……」
「そう身構えるな。難しいことじゃあない」







 景色が一瞬で変わる。靴底が古い石を踏む感覚がする。次いでひゅるりと風が体を撫でて傾いた陽光が眩く景色を白ませる。少し橙がかった太陽は夕刻が近づいていることを知らせる。この街一番高い塔の上。チェスのルークのような形の先に国旗が掲げられている───そこから二つばかり旗を失ってしまった場所にそれぞれがいた。その場に座り込んでゆっくりと網膜に焼き付く光を、ただじっと見つめるニイナの横顔から表情は失せている。怒っている、よりも拗ねているほうに比重を置いているその顔に年甲斐もないと口角を上げた。


「頭は冷えたか?」
「おかげさまで、ずっと考えていた」


 憎々しげな声音も拗ねているだけだと思えば可愛らしいものだ。


「そうか、学習することは良いことだ」
「ねぇ、時々思うんだけど俺が年上なの忘れてるでしょ」
「でしたら少佐殿の知見を拝聴させて頂きたく」
「やっぱりローの敬語は気持ち悪いからやめて」


 漸くこちらを見た瞳は冗談に煩わしそうに歪んでいて、いつものニイナだった。思わずふっと笑みを零せば、それに気付いたニイナが申し訳なさそうに視線を逸らす。唇がやや固く引き締められた後、溜息で声帯の通り道を作ってからポツリと呟いた。


「……俺は、悪魔は皆大佐の信奉者か天竜人に恨みを持つ奴しかいないと思っていた。だけど、彼女達のように逃げられない選択があったと知って脳を殴られたような気持ちになった。正直、彼女達の言う通りだ。俺は力と運があったから生き残って、それがない人間は死ぬか追従するしかなかったんだと」
「そうだ。それはどんなことでも一緒だ。力ある者、服従する者が生き残れる。海賊も、海軍も変わりはしねェ」
「それもそうだね。どうしてこうも身近に見ていることを、知らなかったんだろう」
「……それで、アイツらはどうするんだ」
「彼女達は延々と不死の病に侵される罰を背負って生きる、ただの人間だ。俺は補給がすぐ終わるなら船に籠っているよ」
「そうか、それは丁度いい」


 石塔に座るニイナの隣に立つと、視線が一緒になる。同じ視界を眺める。白く染まる海と影ができた街。反射した光がニイナの瞳で増幅して潮風に吹かれた前髪がバラバラと散らす。首元のチョーカーが光らなくても、ニイナの瞳は光を集めやすいと初めて知った。普段少し下げることになる視界さえ必要ない。瞬きをした睫毛が疑問を持ち俺の返答を待っている。無垢な子供のようで、笑ったところを見られないように鬼哭を持つ手と反対に持っていた物をニイナの手にぶつけた。


「……これ、」
「交渉とは、如何に相手から利益を奪うかだ。覚えておけ」


 船にいる間の余暇にでもなるだろう、と言えばニイナの頬が緩やかに崩れて、やがて意とは別のままに笑みを紡いだ。


「ああ、うん……忘れない」


 その穏やかな微笑みはもう生涯見ることはないだろう。だからこそ目の奥に焼き付いて、俺の心臓を揺さぶる。
 付属していた木のスプーンを蓋を外して掬う。ひと匙に盛られたそれは苺ジャムのように赤く、小さく肉厚な薔薇の花弁がいくつも混じっていた。ニイナが言っていた、ベルウェアの薔薇のコンフィチュール。二度とお目にかかれないと思っていただろう。花の魔法を使う魔女と聞いてピンときたのだ。交渉と銘打ったそれは命と釣り合うわけもないが、俺の最も欲しいものに比べればそれはあまりにも些末だったからだ。ジャムと同じように真っ赤な舌が覗く口内へとゆっくりと運ばれる時間がもどかしい。味わうように咀嚼と撹拌をしている頬を眺めて、やがて嚥下したニイナがうっそりと目を細めた。


「クレアテート少尉のだね。一度だけ食べたことがある。シャルルとはまた違った味だから、覚えているよ。その時より上手くなっている。程よく花弁が残っていて香りもしっかりしていて……姉がスコーンを焼いてくれて一緒にお茶したことがあるんだ。いつかは俺の補佐になるって、認められるような美味しいコンフィチュール作るからって、言ってたっけ」


 遠くの水面が波打つ間に合わせて光が反射する。大きな宝石のようにキラキラと輝くニイナの瞳は美しい。目尻を下げた柔和なその笑みも、口の端から溢れるその本音も、知るのは俺だけだ。世界で二人だけ。喧騒や人の気配から隔離された塔の上は、世界を明確に区切っているようだ。


「ロー、帰ろう」


 だからこそ、共に帰る場所が同じということが、どうしようもなく心を締め付ける。それこそ切なくなるほどに。これが喜びだというなら、噛み締めてもなお足りない。差し出された手を握る。嗚呼、世界はこんなにも美しい。
 風がまた足元から吹いて、気付けば誰もいない路地に立っていた。ニイナの魔法だ。夕陽が建物の影を伸ばしている。その先にいるニイナが振り返るもんだから、まるで瞳から宝石が溢れたんだと錯覚する。


「ねぇ、ビスケットとかあるかな。そのままでも美味しいけど、いっぱい食べるならそっちの方がいい。朝食ならパンに付けてもいいけど」
「俺はパンは嫌いだ」
「紅茶に入れるのも悪くない」
「ああ。……お前の故郷を味わえるいい機会だ」


 そう言えば、ニイナは夕陽に溶けるような笑みをした。そうして、と象った言葉は縋るようにも聞こえた。
 俺は、ニイナの目尻を下げる笑い方が好きだった。
 俺には、こういう郷愁や言いようのない気持ちを綯い交ぜにした曖昧で穏やかな笑みをさせることはできない。
 その事実を目の当たりにすれば俺の中でもどかしい程言葉に出来ない感情がぽつりと、唸った。





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