小説 | ナノ


本編少し前




 島に着くと、そこは異様なまで賑わっていた。色とりどりの紙吹雪やテープが巻い、屋台からは肉の焼けるいい匂いが届く。其処彼処で踊る人がいれば、奥の方には小さなライブステージまである。何の祭り事だろうとペンギンが首を回すと、壁際に貼ってあるポスターを見たニイナが「カルネヴァルか」と独りごちたのを聞いた。


「カルネヴァル?」
「ああ、カーニヴァルのことだ。謝肉祭だよ」
「成る程」


 教会のある文化圏で見られる通俗的な節期で、一週間教会の内外で羽目を外した祝祭を繰り返し、「灰の水曜日」の前夜まで開かれる、肉に別れを告げる宴のことである。この島のように仮装したパレードが行なわれたり、菓子や花を投げる行事などが行なわれることが多い。現代では殆ど宗教的な背景のない単なる祝祭となり、敬虔な教徒のみが「灰の水曜日」以降肉を避けて生活する。街の様子から察するに、前者同様ただの祝祭であるようだ。これは羽目を外しても咎められないな、とひっそりとペンギンは笑った。
 ポスターを指し示したニイナという男は、全てにおいて完璧な男でありペンギンの所属する海賊団の船長の恋人である。全てを手にしている男だが、たまにこうして聞きなれない発音をする。この世界で言語は共通であり統一されているはずだが、稀にジャングルの奥地のような場所の民族間では異言語が話されることがある。だが、ニイナは貴族とも間違うほど礼節が整っており、とても僻地で育ったという風には見えない。長年の疑問だが、追求するほどでもないということと、もう皆慣れきっていることが大きい。
 寝起きの頭にこの喧騒は煩わしいのか、顰めっ面を携えながらこちらに歩んでくる痩身の男がいる。その男こそ、ニイナの恋人であり海賊の船長でもあるトラファルガー・ローだ。昨日までの怒りは鎮まっており、むしろ喧嘩したことすら覚えていないのか機嫌は悪くない。甲板の一部を破壊したニイナとの可愛らしい痴話喧嘩も、見慣れたものである。


「……なんだこれ」
「謝肉祭だそうですよ」
「……もうそんな時期か」


 肉の焼ける匂いが寝起きの胃を揺さぶって吐き気を催すのか、げんなりとした顔を見せる。一先ず船は裏手に隠し、そわそわと身を震わせるクルーに散策と補給の命を下した。そして目を細めたローが見るのは、まじまじとポスターを見るニイナである。街の様子を見れば十分だと言うのに、未だそこから目を離さないニイナはついにそのポスターを破り取って手にした。珍しい蛮行にペンギンが目を剥く。


「おいおい、どうした」
「やはり、見たことあると思ったら貸しがある」
「貸し?」
「この仮面舞踏会の主催者だ。去年くらいだったか、良薬を流してやったはずだ」
「……へぇ、俺以外に良くしてやる奴がいるのか。妬けるじゃねェか」


 ニイナの肩に肘を乗せてニヤニヤと下卑た笑みを浮かべるローに、ペンギンは嫌な予感がした。当のニイナは涼しい顔でローの顔を見下ろす。そして、ニイナの持つポスターの左端に小さくある主催者の顔写真を指先で幾度か指し示す。いかにも「肥えた」権力者、という風貌の男の写真だった。頭髪は自前のものなのか判断つかず、顎肉にスカーフが埋もれつつある。ボタンがはち切れないのは一応金持ちらしくオーダーメイドのスーツのお陰だろう。


「俺は割と筋肉質であり痩身だと自分では思っているが……お前はやはり女みたいな柔らかい奴のほうが好みなのか?」
「……それは俺が、この男と肉体関係があると?」
「そうは言っていない。お前の取引先は白豚のように肥えた奴が多いからな。そういった嗜好の元に取引しているのだとばかり」
「心外だな、俺にも好みはある」
「へぇ、例えば?」


 肩に置いていた肘はいつのまにか伸びていて、首元に垂れた腕が解答を間違えた瞬間ロックしようと強張るのをペンギンは見た。そして、それを逆手にニイナが煽ることも。
 素早い動きでニイナの手がローの顎を掬うように掴んで、引き寄せられた唇にキスをする。細められた瞳がゆっくりと角度を変えるように滑って、艶かしい白い首筋が露わになる。二つに並んだイエローダイヤモンドのピアスがファイアを優美に反射し、静止した一瞬の後に下唇を柔く食んでリップ音を立てながら惜しむように離れた。
 低く、甘い声が快楽を撫でるように震えた。


「……そんなこと、嫌という程体に染み付いているだろうに。自覚ないふりをするなんて可愛いことをしてくれるな」


 明朝には戻る、なんてすぐに手を離したニイナが手を振り街の中央へ歩みを進めた。その背中は悪戯が成功したように軽やかで、あっという間に大衆に紛れた。
 女にするには荒々しく、男にするには些か情熱的なキスだった。ペンギンは言いようのない歯痒い思いを紛らわせるように帽子の鍔を深く下ろして見なかったふりをする。そう、今まさに目の前に顔を真っ赤にした死の外科医を記憶しないためにも、だ。
 置き去りにされたポスターが風に攫われ、紙吹雪と共に空に掻き消えた。





 謝肉祭の夜には、金持ちの館では大掛かりな晩餐会や舞踏会が開かれる。そこでは皆仮面をつけ素性を隠し、一夜限りの火遊びを堪能するのだ。それが貴族であれ庶民であれ、仮面の裏に隠れた欲望を露わにする。
 その熱気をバルコニーから見下ろして密かに口角を上げたのは、この余興に紛れる服装をしたニイナだった。


「……では、手配通りに」
「ああ……貴殿には世話になった。更にはまた薬を貰ってしまって……こんなことで返せるとは思わないが、是非とも協力させてくれ」
「貴方が礼節を重んじる方で良かった。今後の取引も是非に」
「おお、それは有難い。薬屋殿の薬はとてもよく効く」


 恰幅の良い腹が震え、朗らかな笑い声を上げる主催者。それにつられるようにニイナも声を出さずに吐息で笑ったが、その裏に隠れた思惑などしらぬ主催者はもう少し人を疑った方が良い。
 一度きりの取引のつもりでいつしか忘れ去られたはずだったが、街で見たポスターにより思い出した記憶は利用価値があった。実際コンタクトを取ってみると、思ったより探りがいのない気さくな人物だった。拍子抜けしたニイナが前回処方した薬を携えて交渉を図ると快諾してくれたのは幸いだった。


「ログが溜まるのは四日程。それまでカーニバルは続く。誰も彼も身分を仮面の下に隠す祭事に、誰が貴殿らを暴き咎めようか」
「ああ、本当に良い時に寄港できた。ホテルの手配までしていただけるとは、感謝する」
「なに、海軍への連絡はカーニバルの狂騒で掻き消え、ホテルは薬の礼だよ。大人しい俗物なら歓迎させて頂こう」
「メルシー、ボークー。勿体無いほどだ」
「よろしければ、参加していかないか。美女も美味いディナーも用意している」


 フロアには舞い踊るドレスと響き渡る旋律が支配している。熱気に乗せられたフレグランスさえ欲を沸き上がらせるには充分だった。黒い革手袋をはめた指先で弄んでいたコロンビーナを取り、笑みを携えた顔を隠す。美女も美味いディナーも魅力的だが、そんなものでニイナの欲が満たされるわけがない。


「申し訳ないが、待ち人がいる。また今度参加させて頂こう」
「ああ、いつでも待っている。よい夜を」


 手摺を伝って階段を下る。主催者との話を盗み聞きされないよう階段下に立つ屈強なガードマンの間を潜り抜け、ニイナはホールに降り立った。煌びやかな空気を浴びる。踊る人達を避けるように壁に沿って革靴でホールを弾く。舞踏会でお相手を、と乞うその細腕達を撃墜するのは憚れ、細いゴールドが輝くその指先を受け入れた。
 腰に手を当て、伏せた瞳を上げて仮面奥の相手を射抜けば、女は夢から覚めたようにハッとする。そして陶然したような表情を浮かべ体が揺れれば、緩くターンをした力を利用したニイナが離れていく。それを追いすがることもなく、射抜かれた宝石の眩さと緩やかに弧を描く笑みを見送って恍惚とするのだった。その快楽を欲しがるように女が次々と腕を伸ばせど、ニイナは同じようにくるり、くるり、と回りながら嘆願を叶える。ニイナと乞う女達の矜持を守るそのターンは、やがてニイナが両開きの扉を押し開けるまで続いた。短い夢から覚めるように、熱気を振り払うように、ニイナは夜風を浴びた。
 我を忘れるような狂騒も、思考を奪うような芳香も、瞬きすら許さない豪華な装飾も、全てニイナには不要だった。眠らないとばかりに騒ぎ立てる声は広場から、街中から流れ出している。一つ零した溜息に乗せられて、遠ざかる柵を見届けてから裏路地を歩む。遠方から聞こえる祭の騒がしさと明かりが僅かしか届かないこの道がニイナは好きだった。静寂と明暗のバランスが程よく、待ち人がいる船への近道でもある。脳裏に思い浮かんでは挑発してくる恋人に、思いを馳せていた。

 自然と足取りが早くなる。一つの角を曲がり前を見据えた瞬間、視界が開けた。いや、それだけではなく顔に風が当たり息苦しさがない。足元に転がった小石の音を聞きながら、能力で奪った仮面を弄ぶ目の前の男を見て口角を引き上げた。


「……ボン・ソワール、ムッシュー。一曲如何だ?」
「浮気しに行っていた奴がよく言う」
「もう一度、俺の好みをその体に躾ける必要があるな」


 飲食店の裏手なのだろう。大きな樽に腰かけたローが長い足を地に下ろし、ニタニタと笑うそこへと近付いた。趣味の悪いタイだ、とネクタイ代わりのスカーフを引っ張りスタッドボタンを指で弾く。触れただけで分かる素材の質に、ローはニイナが会いに行ったのは上流の貴族だと勘繰る。ポスターから詳細は得られなかったが、あの主催者は余程肥えているらしい。
 ニイナも、そんなローを見てひっそりと笑った。まるで他所の猫に構って、匂いを確認する飼い猫のようだと思った。大袈裟なほどの舞踏用ドレスと仮面を用意して、貴族に媚を売って海軍の足止めを依頼するに足る満足感だった。


「そりゃ、お堅いダンスよりも楽しいものか? オニイサン?」


 クツクツと喉を鳴らして笑うローの首元を撫でるように手を差し込む。簡単に触れさせる頸動脈が、擦り寄るように掌に馴染む。それが温く体温が共鳴するものだから欲情が見る間に育って行く。
 今日は謝肉祭だ。灰の水曜日まで享楽の限りを尽くす習慣で、仮面を被ってしまえば身分すら覆い隠してしまう。ニイナの仮面を付けたその奥でローのアンバーが蠱惑に歪む。


「……最高の夜を約束しよう」


 抗えない未来を手に入れるのは容易い。それに逆らうこともしないで二人は貪るように唇を合わせた。ドレスコードにもならないパーカーも、趣味の悪いと揶揄された衣装も、どうせ脱ぎ去ってしまうのだから。
 こじつけた言い訳なぞなくても、その二人の間に境目など存在しない。夜が明けるのはまだ先のことだった。





「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -