小説 | ナノ




 見渡す限り白か灰色しか映らない。覗き込んだ望遠鏡に島影すら雪煙に隠されている。遠くのほうは酷く吹雪いている。このまま帆船で進むか、それとも潜航するか決めあぐねていた。目を凝らせど望んだ景色が映らない望遠鏡に舌打ちを零して悴み始めた手を下ろす。吹き付ける雪に俺の不機嫌は吸収され、せせら笑うように頬を打った。
 現在、当海賊団は嵐の最中に立ち往生していた。気付いていたら―――という自分のミスが腹立たしいが―――いつの間にか船は雪の嵐の渦中を走行していた。見張りさえ気付かなかった。やはりこのグランドラインは異常だ。こちらの読みを嘲笑うように予想外の展開をもたらしてくる。


『……キャプテン、どう? 何か見えた?』


 手に持っていた電伝虫から航海士の不安げな声が上がる。この気候のせいか少しばかりノイズが入っている。凍結しないよう慌ただしくなる船内を駆けずり回るクルーに変わって視察に出たが、右も左もわからなくなるこの景色。ホワイトアウトしてしまうならいっそのこと潜航することも止む無しか。


「ダメだ、雪が多すぎる。何も見えねェ。レーダーに岩礁とか映るか」
『結構映っているよ。……深度も浅いみたい』
「……潜るのもダメそうか。ベポ、針路だけに頼れ。西南西に真っ直ぐだ」
『アイアイ、キャプテン!』


 静まった電伝虫のせいか、風の音がやけに目立つせいか、寒さに背筋が震えた。ピアスは外してくるべきだった。長居するつもりはないが、凍傷になってしまうかもしれない。だが、自分で外すつもりはない。そっとそこに触れると悴んだ手にさえひやりと金属の冷たさが指先に刺さった。
 部屋に入ったらコアントローを垂らしたコーヒーを飲みたい。いや、それかウォッカを舐めるように飲んでジリジリと体内を照らすのもいいかもしれない。とにかく、今は体を温める物を欲していた。寒いのは嫌いだ。体の動きも頭の働きも鈍る。キンとした冷たさに脳が締め付けられる感覚はどれだけ経験しても慣れないし、そんな狭い容量で考え事をしても前向きな意見は出てこない。
 なのに、考えてしまう。年を重ねていくら利口になれど、その行動だけは避けられずに後悔するとしてもだ。吐き出す息は微かに白い。露出している肌はびりびりと痛む。早く部屋に戻りたいと体は叫んでいるのに、脳だけは此処に留まっていた。

 余命は当に過ぎていた。珀鉛病は完治し、体も能力も最悪の世代と言われるまで成長した。悪いことはなんだってしてきたし、人間の汚いところなんて数えきれないほど見てきた。見捨てたこともあるし、裏切られたこともある。それは己の欲と相手が釣り合わないからだ。そうやって、何事にも対価が必要だと学んだ大人は無償の愛を受け入れられるほど、純粋ではいられない。だが、時としてそんな情を顧みず、情けをかけてくれる相手がいる。俺にとっては過去の話だ。
 現在、ニイナとは恋仲としてお互い想いあっている。謂わば愛情のギブアンドテイクだ。不足ないように釣り合っていると思っている。そうでありたいと望んでいる。
 もし、ニイナからの供給がきれたら。愛想を尽かされたら。自分は一体どうするだろうか。別れるのだろうか。殺し合うのだろうか。
 それとも、かの恩人のように無償の愛を注ぎ続けることができるのだろうか。


「……ニイナ」
「呼んだか?」


 肩が大きく揺れた。肌が波打つような嫌な感覚が背筋から頭の先まで上りあがった。雪が音を吸収するせいか、俺が思った以上に物思いにどっぷりと深く浸っていたせいか。ニイナが扉を開けて船内から出てくることに気付かないなんて。
 珍しく本気で驚いた俺に気付いたのか、いないのか。何でもないような表情でニイナは俺の目の前に立って髪を撫でた。体温で溶けた雫が伝う嫌な感覚がある。


「なにか見えたのか、キャプテン?」
「……見ての通りだ」
「だろうな。中に入れ。こんなに髪に積もらせて鼻先を赤くするくらいならな」


 髪を撫でたのは雪を払うためだったのか。濡れた手が離れていくのを阻止して、頬に寄せる。悴んだそれに馴染みはしないが、ぼんやりと熱を感じる。


「今ならスコッチか、モルドワインが温まっているぞ」


 流石なんでもわかっている男は違う。お互いに口角を上げて笑いあう。もう少し観測を続けたら行く、と告げると程々にしろよと言わんばかりに煙草のケースを取り出した。まだ側にいるつもりらしい。
 いつもの帽子がないためにニイナの髪が乱れる。雪風に飛ばされるからだろうが、先ほどよりは落ち着いてきている。台風の目の中にいるようにしんしんと雪だけが積もっていく。天候にさえ愛されているのか、この男は。羽織っただけのコートに合わせるように気候が安定していく。このまま船首に張り付けておいた方がよさそうだ。
 うまく火が付いたのか、白い煙をニイナは吐き出した。肺を汚すだけの煙を好む気持ちはわからないが、ニイナのトレードマークになっているそれがないとイマイチしっくりこない。指の隙間に挟んで唇に寄せる様の扇情さに、惚れない訳がない。
 まだ、視界は晴れない。どんよりと冴えない雲と全てを覆うような雪に、すぐ近くにいるニイナが遠くにいるような気がして手を伸ばした。冷たい生地の下に男の腕の感触がする。振り向いた持ち主がどうしたというような視線を向けて首を傾げた。


「……ロー?」


 名前を呼ぶ、その声が心地良い。そしてその単語が俺自身の呼称だということに優越感が充足する。もっと呼んでほしい、もっと俺のことを考えていてほしい。誰もが手を伸ばす人間に、その全てを薙ぎ払って唯一人、愛されていたい。
 そう言えたら、どんなに楽なんだろうな。


「甘えてくれるのは嬉しいが……煙、付くぞ」
「……いい」


 あと三センチでニイナとの距離がゼロになる。そこから俺は自力で詰めることができないでいた。俺から遠ざけるように煙草を持った手を離す。風向きも計算に入れているようで、微かに匂いが届くだけだった。
 此奴は絶対に船内では吸わない。確かに潜水艦であるこの船内で火気は好ましくないが、それを差し引いてもニイナは酒場以外の室内で吸わない。匂いが付くことを嫌っているわけではなく、相手に気を使っているだけだった。それが俺に対しては尚更顕著になる。馬鹿な気遣いだ。もし、ニイナからの供給がきれたら。愛想を尽かされたとして。待ち受ける離別はあっけないだろう。船も、部屋も、俺の体にも、ニイナは残り香もなく消える。ニイナに俺の爪痕さえ残せなかったように、ニイナはきっと始めからいなかったように姿を消す。そうして裏路地に戻った此奴は数多の手を取るだろう。耐えられない屈辱だ。
 こうまで俺は渇望しているというのに。ニイナは人の気も知らずに、横を向いて白煙を吐き出した。此方を値踏みするように流し目を寄越しながら。それに焦燥が俺を駆り立てる。何も言われていないというのに、俺の心はすっかり置き去りにされていた。


「つけろよ、早く」
「どうした、いつもなら煙たいと言ってくるだろ」
「そういう気分なんだよ。いいから、はやく、してくれ」
「夜のお誘い待ちか?」
「……ちげぇよ」


 違うけど。違くない。肌を合わせて、体を繋げて。命を預け合ってさえ。それだけでもう満足できなくなっていた。腕を掴んだ手に力を籠めても、埋まらない距離が苦しい。言えなくて溜まっていった本音が腐っていく。


「何変なこと考えているんだ、馬鹿」
「っ、う、げほっ」


 急に顎を掴まれて正面を向かされたかと思うと、真っ白な煙を吹き付けられて咳き込まずにはいられなかった。主に鼻の奥が痛い。生理的に滲んだ瞳で睨みつけると、なんでもないような澄ました顔で溜息をつかれた。ふざけるな。


「難しいことを考えているローは眉間に皺が寄る。戯れのようなことを抜かすくせに、何を考えているんだ」
「……なんでもねェよ」
「嘘つけ、言えよ」
「俺に命令するな」
「……わかった。手、出せ」
「はあ?」
「煙なんかよりもっといいもの付けてやるよ」


 海の方に煙草を投げ捨てたニイナが俺に催促する。素直にニイナの腕を掴んでいる方の反対の手のひらを見せつけた。決していいもの、という言葉に釣られたわけではない。
 そっと、差し出した手のひらにニイナが小箱を乗せた。ベルベット生地の濃紺の箱。よくアクセサリーなんかが入っているような長方形だ。ピアスにしては大きい、首飾りにしては細くない。一体なんだ、と濃紺に積もる雪を払ってからパンドラを開けた。

 そこには、一対のシルバーリングが鎮座していた。


「……マリッジリング……?」
「お気に召したか?」
「はあ? 結婚?俺とお前がか? なに馬鹿なこと言っているんだ?」


 純粋に出た動揺の言葉だった。男同士、海賊、そんな隔たりがなくても俺はそう言っただろう。俺らが望んでいるのはそんな結末ではない。こんな、陳腐なものではない。俺だけだったのだろうか、ニイナに対して願っていただけだろうか。二人で一生を遂げたい気持ちは、俺だけが先走っていたのだろうか。雪が芯にまで突き刺さるように俺とニイナを隔てる。
 しかし、狼狽える俺にやがてニイナは吹き出した。喉を鳴らして笑う此奴に理解が追いつかずに固まると、違うと言うように頭を振った。


「くくっ、しないさ。……そういう純真な物じゃない」
「じゃあ、なんだって言うんだ」
「ずっと気が付いていた。お前が俺にちょっかいを出す理由」


 吸った呼吸が肺に突き刺さる。ニイナの香りさえ潮風に流されて、あるのは俺を生かす酸素だけだ。ニイナがいなくたって呼吸さえしていれば生きていけるのに、どうして俺はこの男を求めるのだろうか。
 心が欲しいと叫べど、いつも俺の口から出るのは意地のフィルターと反転するプライドに濾された言葉ばかりだった。


「不安なんだろ、知っている」
「……知っていて、見ないふりをしていたのか」
「可愛くて、ついな」


 可愛げなんてなかっただろうに。本当にそう思っているのか、くつくつと喉奥で笑うニイナは俺の手に乗っている小箱を取り上げた。
 シンプルな、艶消しの加工を施されたシルバーリングがニイナの指に二つとも攫われていく。その一つを自分に嵌めてから、俺の左手を取ってゆっくりと嵌めていく。その瞬間が長く感じた。普段つけないアクセサリーを、一生付けることがないと思っていた指に通される。Tが、ニイナに侵食されて、奪われる。


「首輪にするか悩んだが、船長様の威厳を削るわけにいかないしな」
「ふざけんな、飼われる趣味はねェ」
「俺も、飼い殺しにするよりは自由なお前を見る方が好きだ。だから、縛り付けなんかしない。迷わせなんかもしない」


 伏せていた睫毛が上がる。カーテンコールの向こうで真摯な視線が交差する。


「健やかなる時も病める時も生涯を共にし、死が二人を別とうとも、死して後もとわにとこしえに、トラファルガー・ローを愛することを誓う」
「……おもいな」
「お前もそうだろう」


 わかりきったように零す言葉も、ニイナだから恰好がつく。見せつけられるように握られた手と共に瞳が揺れるのを感じた。空が明るい。絶望的だと思っていた天候が、去っていく。雪はまだ降り注いでいるというのに、暗雲が離れていく。俺を奪ったニイナの指輪に乗った雪が焦げて、溶けた。


「返事は?」
「……幸せにしてくれ」


 指輪を見ていた視線を上げてニイナを映すと揺れていた瞳から一筋、頬を温めるように流れた。俺の返事を聞いてそっと笑みを深めたニイナが、俺の呼吸を仕留めるように唇を塞いだ。
 頬に暖かな陽射しが当たる。空は晴れて、陽が昇っていく。降り続く雪は冷たいが、もう気にならなかった。こうして、ニイナの呼吸で生きていけるなら。角度を変えて啄む口付けなんて何度もしてきたというのに、初めてのように上手く息ができなくて溺れる。吐き出す吐息は酷く甘かった。ニイナの首に腕を回してもっとと乞うと、三日月に歪んだ唇が深く穿つ。そうして、此奴の腕も俺に絡めば漸く俺の心が帰ってきた。

 俺はニイナのものになって、ニイナは俺のものになる。全ての腕を薙ぎ払い皆から渇望されても、ニイナは俺に一生を捧げて、俺の一生を奪っていった。生涯を掛けたギブアンドテイク。悪い男だ、本当に。欲しいものは奪う、海賊向きだ。

 そうして俺は、このオムファタルを手に入れたのだ。




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