小説 | ナノ




「ニイナ!」


 とある島にハートの海賊団一行は停泊していた。その島のオープンカフェの一角で彼らは休息を取っていた最中のことである。
 カラフルな色のパラソルの下、買出しや島周辺の散策も終えて次の島へのログが貯まるまでの時間潰しに四人は冷たい飲み物を片手に談笑をしていた。内容は下らない世間話だったと思う。海軍の動向がどうとかこの前の島で見つけた新種の病気への効果的な治療法だとか、島の端で見つけたチュロス屋の可愛い女店員の話だとかだ。表通り側にペンギンとシャチが背を向けているため、船長であるローとその恋人のニイナはカフェを背に道行く人を時に眺めながら話に相槌を打っていた。
 美青年と評される二人は、所謂恋仲というものだ。ただ少し世間の恋人達よりも密に過ごす時間が多く、その分喧嘩が多いだけの至って健全な恋仲である。そう語るのはハートの海賊団所属のペンギン帽子を被った船員である。
 さて、その珈琲を嗜む姿はラファエロの聖母ですらワインの樽に帰るだろう。そしてその美貌と類稀なる才能でかつては「裏路地の薬屋」と呼ばれていた過去を持つ。その頃培った人脈に助けられることもしばしばだ。そして、今回声を掛けてきた男もその人脈の一人だろう。若々しく生命力に溢れた男だ。服装や微かに香る煙草の銘柄を推察するにそうだと判断するが、近くでよく見ると年相応に目元に皺がある。それを差し引いてもハンサムだと評することができる男だ。
 顔を上げた三人に倣って、ニイナも珈琲を啜るために伏せていた睫毛を上げた。


「……ああ、フレッド。久しいな」
「まさかこんな所で会うなんてな!」
「偶然の女神に感謝しよう」
「よければ再会の祝いに是非とも一杯奢らせてくれ!」
「上物を用意しろよ。……夜には戻る」


 カップをソーサーに戻して立ち上がるニイナをローの視線が追う。それに気付いたニイナがそっと笑って陶器のような頬を手の甲でゆるりと撫でた。目を細めたローが足に力を入れる気はないのだが、騒ついた胸中を視線に混ぜてキートンの背広を射抜く。それが振り返ることはなかった。溜息を吐いてカップを持ち上げれば、正面から行かせて良かったんですか、と声が上がる。


「なんだ、俺が彼奴に首輪をつけてリードを引っ張り上げりゃ良かったか?」
「(うわ、絶対やりそう)」
「そうではなくて……」
「ログが溜まるまでまだまだある。それに、急ぐ旅でもねェんだ」
「そりゃそうでしょうが……」
「それとも、可愛らしく嫉妬でもしてやればよかったか?」
「(うわ、似合わねェ)」
「……俺らを巻き込まないでくださいよ」


 ローはニヤニヤとした笑みを浮かべたまま、シャチの向う脛を蹴る。堪らずに悶絶する声を上げるが、船長の急な暴行を咎める言葉を発しないのは今し方思っていたことへの罪悪感か。ペンギンは深々と溜息をつく。ニイナに心配はしないが、帰ってきた後に厄介な種を振りまくのではないかと今から懸念して、胃が痛くなるのであった。







「……それで、俺に用事があったんだろう?」


 さっきまでいたテラスよりも薄暗く、しみったれた酒場のカウンター。ニイナがよく飲む酒の数段低いランクばかりが揃えられた、まさに廃業寸前ともいえる酒場だった。経営していくだけで利益がすり減るような品揃えに、お世辞にも衛生に気を配っているとはいえない店内。それでも安酒に惹かれて来るものはいるようで、ニイナたちの他に3組ほど離れて惜しむようにちびちびと酒を舐めている。自分たちの目の前にもグラスに注がれたアルコールがある。だいぶ色が薄いバーボンだ。


「そんなにがっつくなって。お互いの近況でも話そうじゃないか!」
「近況ねぇ……。そういえばフレッド、お前恋人がいただろう」
「ああ……。実は、結婚したんだ。今年三つになる娘もいる」
「そりゃめでたいな。おめでとう」


 ニイナがグラスを持ち上げると、フレッドも照れたようにそれにかち合わせる。上質とは言えないガラスが打つかる音がして、二人はそれを呷った。


「不味い。不出来な小麦を使っているな。そういや、新種の揮発剤を奪いに行った時の打ち上げもこういう酒を飲んだな」
「ああ、あの研究所のか。悪くなかったぞ」
「あれを使ったのか! まだ開発途中でかの有名なドクトルでさえ完成できなかったというが……一体どこの天才だ……」
「呼んだか?」


 ふ、とニイナが笑みを零すとフレッドも豪快に笑った。裏路地の薬屋は名前だけではなく、その重たい矜持を肩に乗せても飄々と振舞ってみせる。むしろそれさえ彼を彩る称号へと成り代わるのだから、この男は本当に末恐ろしいとフレッドは小さく震えた。


「まあ薬効自体は大したことない。俺が目をつけたのはなんの薬剤でも揮発性にできる技術の方だな」
「そりゃ凄いな。広範囲の毒物テロなんかお手の物じゃないか。広めるなよ」
「墓まで持っていくさ。煙草、いいか」
「ああ。お前まだ吸っていたのか」
「このバーボンよりは美味いもんだ」
「俺には信じられないがな。煙は寄越すなよ、嫁も嫌うんだ」


 そういえばフレッドは嫌煙家だったか、とニイナは火をつけながら思い出す。そっぽを向いて細く吐いた煙の行方を見届けて、本題を促した。心なしかソワソワと居心地悪く座るフレッドの為を思ってのことだ。


「……実は、な。盗んでもらいたいものがあるんだ」
「おい、俺は怪盗じゃないぞ」
「頼むよ、ニイナ。デュランダル公爵の時のように」


 その名前を聞いて、ニイナは思い出した。公爵の持つ宝石が散りばめられた盃をニイナの色仕掛けで油断させて盗んだ記憶がある。いや、あれは盗んだというより滞在していた国の王の病を治す際にその盃でないと治らないという至極迷惑な迷信のせいだった。首が飛ぶよりは盗人になるほうを選んだのだが、間違いだったかもしれない。鼻が効くフレッドによってダミーを見破り、本物を持ち去ることができたことも印象深い。


「本当にお願いだ、ヒーロー。あの時のように俺の首の皮を繋いでくれ」
「…………報酬と内容次第だな」


 一つ吸ってからゆっくりと煙を吐く時間をかけて導いた答えだった。かつて死地を共にした旧友の願いとあっては断る術もなく、出航するまで持て余す時間潰しになるかとニイナはぼんやり考えた。一口飲んで手を付けなかった安酒の温度だけが上がっていく。悪だくみをするならこういった酒場だということは、ニイナとフレッドの暗黙の了承だった。そして、その名称で懇願されると断りきれないこともフレッドは知っている。

 作戦は、こうだ。ニヤリと悪戯げに笑ったフレッドから告げられたハリボテの策はニイナが思っていた時間潰しよりも大掛かりだった。
 フレッドが盗んでまで渇望する宝とは、簡単に言ってしまうと薬だった。それはとある病気への抗原物質だ。しかしその薬には大きな欠点があり、投与された患者の半数以上が病気を発症、重篤化するものだという。抗原物質は病原体の毒性を弱めてから体内へ入れ免疫を作るようになっているが、この病気は上手く免疫が作れるかどうかは半々の確率だった。勿論そんなパンデミックを起こすものを世に出すことは認められず、再度研究所へ送り返されるも研究は頓挫し闇に葬られた筈だ。それを関係者の間では「アイアタルのパルファン」と呼んでいる。ニイナも聞いたことのある名前だった。
 その廃れたはずの薬剤が、今回闇オークションにて脚光を浴びるという。それを競り落とした人間に近寄り盗めという無茶振りだ。ニイナにも好みというものがある。もし気に入らなかったらどうする、と遠回しに聞くと「大丈夫だ」と返される。


「今回あのマダムが参加する」


 デュランダル公爵の、な。
 公爵のマダムは確か研究者のはずだ。曰く付きの、それも始末されたはずの薬瓶が日の目をみるとなると手に入れたくもなるだろう。噂じゃ不老不死の研究をしていると耳にした。


「勿論色仕掛けの途中で眠らせてしまえばいい。成功すれば報酬は用意する。これは前金だ」


 スルリと慣れた動作で流れるように受け渡しをする。手にしたそれが厚い。いつも渡される前金より多いのはこの仕事にどれほど期待されているか分かる。ニイナは溜息を吐くとカウンターから立ち上がった。


「お前はそれを手に入れてどうするっていうんだ」
「うちの取引先の社長様からの依頼だ。それ以外は口外できない」
「……また夜に落ち合おう」
「ああ。三軒先のオペラハウスの地下が今回の仕事場だ」


 ひらりと手を振って酒場を出たニイナはもう一度溜息をついた。これから少しばかり準備をしなくてはいけない。







「……おお、流石色男だな」


 感嘆の声を上げるフレッドの視界の先には壁に凭れる一人の青年がいた。金のカフスがアクセントになるスーツに柔らかなスカーフが波打つ。目元を覆う仮面でさえその色香は隠し切れず、チラチラと彼を見る女性が後を絶たない。いつものボルサリーノがなくてもフレッドはニイナを見つけることが出来ただろう。


「遅いぞ。既に始まっている」
「わかっているよ。だが、あれは今回の目玉なんだ。出るのは終盤さ」


 落ち着かない様子のフレッドが顔の半分を覆う仮面をしていても、露わになった部分から焦燥が窺い知れる。それにニイナは落ち着けよ、と小さな飴玉を渡した。気が利くな、と口内に放り込んだそれの味さえしないほど自分が緊張していたことをフレッドは知る。ニイナに気を使われたことに苦笑し、その肩を軽く叩いて会場に入ることを促した。
 アイアタルのパルファン。今まで世に出されることのなかった災厄を招く薬剤だ。それを競り落とすコレクターなんて悪趣味でしかない、とニイナは思っている。うっかり保存方法を間違うかその綺麗な瓶を割ってしまえば真っ先に自分が餌食になるのだ。呪いの人形でも愛でていた方がまだ価値がある。本当、悪趣味だ。勿論薬を扱うものとしてニイナも興味がないわけではない。機嫌の良さに口角が比例する。
 フレッドが係りのボーイに招待状を見せつけて重厚そうな扉が開かれる。少しだけ階段を下り、通されたのは薄暗い会場だった。現在披露されているのは名立たる絵画のようだった。抽象的な図は美しいかと問われると意見は分かれることだろう。コレクターしか真の魅力を理解できる者はいない。上がる手は乏しい。


「……ニイナ、あれが今日のターゲットだ」


 空いた席に二人で腰を据えると、横を見たフレッドがニイナに小声で耳打ちをする。視線だけでそちらを振り向くと、華奢な煙管を気だるげに吸うマダムがいた。ワインレッドのドレスから覗く白い柔肌と仮面の下から覗く赤い口紅が印象的だ。聞いていた年齢よりも若く見える。彼女はその界隈では有名な研究者だが、たとえその素肌の上から白衣を着ても研究者だと気付かないだろう。どちらかというとシリンダーよりは蝋燭の方がお似合いだ。
 煙管を一口吸って、ゆっくりと吐き出す。その白い煙の向こうで目が合った。ニイナはゆっくりと瞬きをして僅かに口角を引き上げる。そうして気がある素振りを見せるのは朝飯前だった。その間にもオークションは過激になっていく。上がる手も多くなり、心なしか会場内の熱が上昇したように思う。


「……次、だな」


 有名な彫刻家の胸像が競り落とされて、舞台の裏手に回る。本日最高額を叩きだしたそれが暗幕の向こうに下がると、お目当ての商品が脚光を浴びる。


「……皆様、大変お待たせいたしました。今からご紹介する品は大変貴重で、かつ今まで世に出されることなく封印されていた品物です。競り落とした方も、そうでない方々も、本日この場に立ち会えたことを至上の喜びと感じることでしょう」


 物々しい語り口から入った司会に周りの人間がざわつく。気持ちはわかる。こういったオークションで何が流通するかはちょっと調べればわかるものだ。それを嗅ぎつけて集まる人間の方が会場には多いに決まっている。


「その昔、ある国で奇病が流行りました。高熱に魘され、脳と目玉が煮えたぎる病です。普通の鎮静剤では下がることを知らず、多くの死者を出したと言われています。政府はもちろんワクチンを作りましたが、投与された犠牲者が病死者に並ぶとも言われました。幸いにもやがてその奇病は収まりを見せ、政府は必要なくなった恐ろしいワクチンを闇に葬ったのです。その時に一人のドクトルが呟きました。……まるで死の病を司る精霊を寄せ集めるフェロモンのようだ、と」


 顰めた声に会場が固唾を呑んだ。スポットライトを浴びた布が取り払われると、姿を現したのは香水瓶より少しばかり大きい瓶だった。美しい装飾が成されて、小さな宝石が光を反射させている。ほう、と感嘆の溜息をつく女も少なくない。


「かつての偉人が成し得なかった研究に没頭するか、精霊を呼び覚まし世界を支配するか!選ぶのは貴方次第!! アイアタルのパルファン!! 三千からスタートです!!」


 ワッと会場が沸き立つ。そこらで値段が吊り上っていく。どんどん上書きされる物価に感覚が麻痺しそうになる。目立つことを控えたい二人は少額を上げるが、瞬く間に彼らの倍以上に跳ね上がった。喉から手が出るほど欲しいのは研究者の性か、それとも世界を掌握する思想に酔いしれた者か。恍惚と手を伸ばす亡者を内心嘲る。


「十億」


 凛とした冷たく鋭い声が会場を切り裂く。僅かなどよめきが囁くように木霊するも、沸き立ったはずの熱は治まりを見せた。その声を上げたマダムは満足そうに煙管を吸う。


「……他には御座いませんか? では、アイアタルのパルファン、十億にて落札!」


 ぱらぱらと各所で拍手が起こる。あまりの値段に圧倒されたのか、その格の違いに呆けたのか上がる音はまばらだ。だが、マダムはそれで十分だと言わんばかりに椅子に深く腰掛けた。ニイナとまた目が合う。拍手をしながら、まるで熱を絡めるかのように視線を交える。その喝采は捕えたことを確信することへの合図だった。







「おめでとうございます、マダム」


 硬質な拍手が誰もいない廊下に響く。ベルベッドの赤い絨毯と、白樺を基調とした廊下はその音を吸収してはくれなかった。それに振り返ったマダムがニイナと目が合うと優美に口元を歪めた。その手に十億で競り落とした香水を手にして。


「グラッツェ。貴方、裏路地の薬屋さんよね」
「お見知りおきくださいまして、誠に光栄です」
「ええ、忘れるわけがないわ。夫を陥れたいい男を、ね」


 柔らかく微笑むその仮面の下でニイナは舌打ちをする。マダムが知っていたことは想定していたが、まさかそれを引き合いに出されるなんて思わなかった。廊下の端々に隠れているボディーガードさえいなければ、ここで海賊らしく奪うつもりでいた。昔なら色仕掛けのつもりで快楽を貪ることさえ厭わなかったが、今は状況が違う。彼が知らない所でも誠実でありたかった。きっと彼は疑うだろうが、これはニイナの独りよがりなのだ。


「そんなに怯えないでちょうだい。私は感謝しているのよ。その事実を手にして、あの夫から欲しいだけ引き出せるんだから」
「ふふ、悪いお人だ」
「貴方ほどじゃないわ。本当、罪作りな人よね。誰もが貴方を欲しがる。一目見れば欲情して、キスして、触れて、めちゃくちゃにしてほしいって思うもの」
「過大評価ですよ、マダム」
「そんなことはないわ。夫の気持ちだってわかるもの。貴方になら、何度でも抱かれたいと」


 ニイナの胸に触れた手が首筋をなぞって頬に触れる。恍惚とした表情を浮かべたマダムがその豊満な胸を押し付けるようにニイナの仮面の奥を覗き込むようにして迫ってくる。
 どう、切り抜けようか。受け入れるように優しく微笑むものの、ニイナの頭にはそれしかなかった。甘ったるいマダムの吐息さえ、ニイナの琴線に触れるほどではなかった。マダムは確かに色気があるし、薬屋時代ならニイナも間違いなくそのルージュを荒らした。そうさせないのは。そうしないのは。ニイナの帰りを待つ、ただ一人のオムファタルのせいだった。
 焦らすようにマダムの耳元で静止の言葉をかけると、渋々というように引いてくれた。そして、ニイナの手に小瓶を握らせたのである。


「私は、貴方が欲しいわ。これと引き換えに今夜全てを頂戴。貴方はそれだけの価値があるわ」
「……メルシィ、ボークー」


 欲の炎は収まりを見せず、マダムの瞳の奥底でチラついている。確かに受け取ったアイアタルのパルファンの価格を支払うため、彼女のその手に近場の高級ホテルの鍵を握らせた。眠らせてしまえばいい、そう告げたフレッドの言葉通り睡眠薬入りのワインも準備している。


「すぐに行きます」
「あら、女を待たせるの?」
「外で友人が待っているのですが、仲間外れにされたことを告げてきます」
「ふふふ、喧嘩しないでね」


 マダムが背伸びをしてニイナの仮面に唇を落とした代わりに、頬に唇を寄せた。そのままニイナはボディーガード塗れの廊下を真っ直ぐ歩いた。フレッドには向かいの教会で待つように指示している。先に渡してしまってから、ホテルに向かうつもりでいた。途中のダストボックスに趣味の悪い口紅のついた仮面を捨てて、ボルサリーノを引き下げた。口寂しい余韻を隠すように。







「フレッド、いるか」


 人気のない夜の教会は不気味だ。辛うじていくつかの燭台に火が灯っているが、頭上のシャンデリアが眠っているために薄暗い。目の前のステンドグラスの横に聖母マリアが飾られている。昼間はその光を浴びて神聖さを誇っていたが、今は安息を得ている。
 ニイナの言葉よりも硬質な床に革靴の音が反響する。右手の告解室の陰からフレッドがゆっくりと歩み寄ってきた。そして、聖母の足元まで来ると正面にニイナを捕らえ、銃を向けた。


「……何のマネだ。早撃ちで俺に勝てないと覚えているなら、そんな馬鹿な真似はしないだろう」
「ああ、覚えているさ。だが知っているか、銃は脅しにも使えるんだ」


 フレッドが銃を持っていることには会場前で会った時から気付いていた。左腕がいつもより後方へ下がっていることを、普段銃を使うニイナが見逃さない訳がなかった。自衛用か、とあえて触れなかったが、こんな使い方をされるとは思わなかった。
 フレッドが銃を向けるよりも早くニイナは腰から素早く銃を抜き取り、友人に向けていたが、その顔が固い無表情だということには眉を上げた。そして、悲痛に引きつっているということも。


「……そうよ、私は何も貴方を殺したいわけじゃないの」


 先ほどの会場よりも静かなここは声が響くはずだった。それがないのはこの教会がすでに包囲されていることだと証明している。ゆっくりとヒールの音を鳴らしてフレッドの隣に並んだ女はまさに胸ポケットに入っている香水を渡したマダムだった。彼女もまたフレッドと同じように銃をニイナに向けると、ボディーガード達が一斉にニイナを包囲する。教会の扉が封鎖され、飛び道具を持った屈強な男たちにあっという間に囲まれたニイナは圧倒的に不利となった。


「パルファンをそこに置いて。武器を捨てて両手を上げなさい」
「……目的は?」
「あら、せっかちね。いいわ、先におしゃべりに付き合ってあげる」


 高く笑ったマダムは下品に唇を歪めた。上等な色気を纏ってニイナを誘惑していた夫人は、どこにもいない。バラには棘がある、とはよく言ったものだ。えげつない毒も一緒に塗られている。


「私はデュランダル公爵と結婚してお金と地位は手に入れたわ。でもね、私は欲深いの。それだけじゃ物足りない。老いて死ねばそれらが全て水の泡となってしまうでしょう? だから、私が本当に欲しいのはエリクサーよ」
「……ふふ、マダム、貴女はもっと賢いと思った。そんな空想上の話を信じるなんて」
「あら、貴方ならそれを可能にすることもできるでしょう? 抵抗するなら、トラファルガーが犠牲になるだけよ」
「……随分と見くびられたものだな」


 俺も、彼も。そう呟いてニイナは視線を隣の男に向けた。フレッドはびくりと肩を震わせた。その固い表情を崩すことなんて簡単だ。何年来の友人だと思っている。切り捨てるにはあまりにも、近づきすぎた。


「……フレッド、取引先の社長というのは嘘だな」
「……ああ」
「妻と娘を人質に捕られているな」
「……ああ」
「お前は、その女に脅されているな」


 銃口が震える。耐えるように奥歯を噛み締める音さえ聞こえてきそうだ。フレッドは嫌煙家だ。なのに再会した時の彼からは煙管の甘ったるい匂いがした。それほど身近にしている女がいるということだ。関係性を暴こうとはしない。だが、旧友の情けない泣きそうな、縋る声をどうして見捨てられよう。


「……助けてくれ、ヒーロー……」


「―――ダッコール、モナミ」


 ニイナが胸元からアイアタルのパルファムを取り出して勢いよくマダムに放り投げる。彼の突飛な行動に周囲はトリガーから指を外した。針の穴のような一瞬の隙をついてニイナは天井に向かって一発、放った。その弾頭は狙い通り細工していたシャンデリアの鎖を弾き飛ばし、派手な音を立てて落下した。もしここが大聖堂なら大目玉を喰らうところだろうが、普段蝋燭が乗っている燭台にはガラス瓶が立ち並び、落下の衝撃で耳を劈く音を立てながら全て粉々に砕け散った。辺りに埃が舞い、それを吸った者は咳き込んだりくしゃみをする。
 そして、その一呼吸が命取りだった。


「……あ……?」


 動揺の声がマダムの厚い唇から零れる。意識が朦朧として体が熱い。酸素を欲して喘げば余計に上がる体温と倦怠感に薄霧がかかった頭では理解が追いつかない。確か自分はニイナが投げた瓶を受け止めたはずだ。顔を上げて見るとそれは割れもせず床に転がっていた。だがしかし、なぜ自分まで床に這いつくばっているのだろうか。


「即効性重視で作ったからな、俺とお前も多少熱が出るだろう。その他はまあ、脱水さえ起こさなければ一か月くらいで治るだろう。開発を重ねてここまで毒性を薄めてやったんだ、感謝しろよ」


 この場で立っているのはニイナとフレッドの二人のみだった。後の数十人は高熱に呻き、もがいている。
 揮発性の、高熱剤。それはまさしくニイナが薬屋を辞める前夜に仕掛けた手口と一緒だった。薬瓶の中に入った薬剤が割れて空気と反応すると揮発する、というトリックだ。


「……あの時、俺に渡した飴玉は解毒剤か」
「察しがいいな、甘かっただろう」


 にやりと笑ったニイナが舌を出すと、その赤い上に真っ白い錠剤が乗っていた。口内に仕舞うと仕立ての良いシャツの隙間から覗く喉仏が動いた。追加の解熱剤だ、とフレッドの手に小さな薬袋を渡す。そして、旧友の指をゆっくりと銃から外してセーフティをかけて返した。足元から小さな呻き声がする。床に這いつくばる欲深さに溺れた醜い女だった。


「アイアタルのパルファン……残念ながらそれは偽物だ。数年前に俺が差し替えた」


 ニイナがもう一度胸ポケットを漁って出てきた香水瓶に唇を寄せる。中身は半分ほどに減っていたが、それはまさしくマダムの目の前に転がる瓶と一緒だった。慌ててそれに手を伸ばすも、ニイナの革靴が薄いガラスを踏みつけて砕いた。それからは香しい匂いがするわけでも、災いを呼ぶ精霊が集うわけでもなく、汚らしく神聖な教会の床を汚しただけだった。


「どうだ、十億の香りは」
「きっ……さ、ま……!」
「女を手に掛ける趣味はないが……友人とうちの船長を人質にとられてまで天秤に乗せるプライドでもないな」


 まあ、ローなら簡単にあしらえただろうけど。
 そういってニイナは今日一番にいい笑顔を見せた。それに頭に血が上り、違う意味で頬を染めるマダムは酷い眩暈に見舞われる。そして、立ち去る二人を視界の端に捕えてブラックアウトした。







「……フレッド、これ」


 教会を後にして数分無言で歩いていたニイナはフレッドに一つの封筒を渡した。それは昼間酒場でニイナに渡した前金だった。全て手付かずで残っている。それにフレッドは不満の声を漏らす。


「今回、俺は旧友に会いに来ただけだ」
「だが、俺を助けてくれたヒーローでもある。礼くらいさせてくれ」
「お前のヒーローは金で動くのか? それに言っただろう、俺達も多少は発熱するって」


 早く横になりたいんだよ。
 そう言われてみれば自分はまだ何も症状が出ていないが、ニイナの顔がわずかに青白い。暗い夜道ではわかりにくいが、長年の付き合いで仏頂面をするニイナは機嫌が悪いか具合が悪いと知っているフレッドは仕方なく封筒を自分の胸元に仕舞った。いつかはコイツの船に送り付けてやる、と決めて。


「……それほど強力な発熱剤ならあの教会内はまずいんじゃないか」
「それも言った、毒性を弱めたと。近くで吸った者以外は空気に混ざって分散されるから一定濃度を吸わない限り発熱しない」
「……お前、本当に天才なんだな」
「今更気付いたのか?」


 数々の研究者やドクトルが集っても弱めることのできなかった薬剤をこの男は簡単に操ることができる。裏切った旧友であろうと躊躇なく救い出してみせる。数歩先、または全てを見通した上で敵を踊らせる。まるで神様みたいだ、と思った。白みつつある夜空を見つめるその横顔は凛々しく、彫刻のように精巧だ。


「帰る。久しぶりに会えてよかったよ、モナミ」
「ああ、もう行くのか」
「お前も早く会いたい人間がいるだろう、それと一緒だ」
「……そうだな。本当ありがとう、友よ」
「また会おう、友よ」


 フレッドは緩く合された手を強く、強く握った。旧友と邂逅するには短い時間と会話だったが、それを埋めるように腕を振る。そうして、その背が白む空に溶けていくのを消えるまで見送った。
 最高の結末を迎えた。一人のヒーローの手によって。







「……なんだ、帰っていたのか」


 つい朝がくるまで談話室で本を読み耽っていたローが自室に返ると、そこには珍しく濡れた髪をそのままにソファに寝転がるニイナがいた。髪が証明しているように、いまシャワーを浴びたばかりなのだろう。辛うじてタオルが下敷きになっている。腕で顔を覆っているものの、肌蹴たシャツはそのままに死んだように動かない。こんなに乱れた格好で、ベッドではなくソファで眠りこけるニイナは珍しい。近寄って声を掛けると、気配を感じたのか腕をずらして薄っすらと目を開いた。心なしか目が虚ろで頬が赤い。


「……ニイナ?」
「ああ、ただいま、ロー……」


 そして声に覇気がない。もしやと思って額に手を当てると、低体温のローの温度が気持ちいいのか目を細めた。反対にローの眉が持ち上がる。


「風邪か。髪乾かさないからだ、馬鹿」
「いや、ちょっと違うが……まあ、それでいい。悪いが今とてつもなく気持ち悪い。寝れば治るから放っておいてくれると助かる」


 そう言われて放っておけるか、と口にだそうとしてやめた。拒絶するように目を閉じるニイナに苛ついたローはお得意の能力を使って二人でベッドに飛び込んだ。呻き声は聞こえなかったことにする。仮眠だけでも、とローが足元にあるシーツを引っ張る腰にニイナの腕が巻き付いた。正直、やめてほしい。先程から無意識に誘惑をする病人を襲う趣味はない。
 いつも通りその胸に飛び込むと、熱いくらいの吐息が触れた。それに顔を上げると、触れるだけのキスを落とされた。その熱い舌で暴かれたらどんなに気持ちいいか、なんてよくない男の性が疼く。反対に、ローがそんな葛藤を抱えていると知らないニイナは溶けるように笑った。


「会いたい人間と言われた時、欲しい人間と言われた時……いつもお前の姿ばかりが目に浮かぶ。……やはり、俺にはローしかいないな」
「っ、は!? な、なん……!?」


 普段の格好のつく笑みでも、恋仲として貪るような笑みでもない。滅多に見られないその表情に、動揺するローの声が聞こえたのか否かニイナは瞼を下ろして深い眠りへと落ちて行った。すうすうと聞こえる寝息に、混乱と突然の羞恥で戦慄いたローがニイナの胸へ潜り込んでも乱れることはなかった。普段よりも高い温度に睡魔を誘われ、ローも意識を手放す。
 その隅で見たこともない華奢な香水瓶から、フレグランスが香った気がした。




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