小説 | ナノ




 朝靄の中、意識がぼんやりと浮上する。まだ夢の残滓に縋り付きたいと、嗅ぎ慣れた洗剤の香りがする枕とシーツに顔を埋めて身を丸くすれば、固いジーンズに腿が擦れた感触がして思わず飛び起きた。寝巻きではないパーカーとジーンズ。それを見てから朝露を振り払うように昨夜の記憶を辿る。

 医療と酒類が豊富なこの島の、幾度か通った酒場で一人晩酌を嗜んでいたはずだ。磨かれたカウンターの隣席が引かれて「隣、いいか」なんて一人の男が座った。ああ、覚えている。忘れもしないさ。
 人目をひくような整ったその顔と、お手本のようなスタイル。惑わすことも従わせることも意のままにできるその色気。そんな男の低い声が囁いたのだ。頭も切れる其奴と医療の話をしていたはずだ。薬学に秀でているらしく、製薬のことも教わった。そしていつの間にか酔っ払ってしまったらしい。あまり飲み過ぎた記憶も時間が経った気もしなかったというのに。気付けばその男へと凭れかかっていた。普段ならこんな失態は見せないし警戒も怠らないはずなのに。もしかすると期待があったのかもしれない。最高の男に抱かれるという優越感と快楽を求めて。
 そこからの記憶は全くない。しかしこうして自船で睡眠を取り衣服の乱れがないところを見ると、自力で帰ってきたのだろうか。あの男に海賊だと話したかもしれないが、同じくらいの背丈の意識のない男の体を持ち上げるなど、あの美丈夫が出来るはずがない。
 一先ずシャワーを浴びようと起き上がるついでにパーカーを脱ぎ去る。夜のネオンの匂いと、嗅ぎ慣れないパルファムが散った気がした。それに知らないラペルを掴んだ記憶が蘇る。


「船長起きて……ましたね! おはようございます!」
「うるせぇシャチ、ノックくらいしろ」
「いつもこの時間寝てるじゃないですか」


 気配でなんとなくは感じてはいたが、ノックもなしに扉を開けるのは想定外だった。言葉を返してからいつも起こしに来るペンギンではないと気付くと、それを汲み取ったシャチが口を開いた。


「ペンギンなら熱出して寝込んでますよ。あのバカ、酔い覚ましついでに甲板で寝ちまったみたいで」
「……はっ、」
「船長も早くシャワー浴びて様子見てやってくださいよ!」


 閉まった扉の先でもう一度笑う。ペンギンへの嘲笑ではない。アイツは外で寝れるほど図太い神経をしているわけではないと知っているからだ。
 なら、酔い覚ましで出た甲板で何かがあったかだ。服を脱いでシャワーのコックを捻れば直ぐに温い水が肌を伝う。それが気持ちの良い温度になれど、熱を持った頬を撫でた指先とは比べ物にならなかった。


「ーーー……船長、」
「よぉ、アルコールは抜けたようで何よりだ。……薬屋はどこだ」


 氷嚢を額に乗せ、真っ赤な顔をするペンギンを見下ろして問う。仕立ての良いスーツ、皺のない革靴、色香のある目元、豊富な知識、寄り添った体温、固いラペル、首筋のパルファム、冷たい指先。混濁した拙い記憶を集めてしまえば、次のペンギンの言葉で鮮烈に蘇る。


「……昨日の酒場で待つ、と」


 喘ぐ呼吸の合間に細く紡がれた言伝に、人知れず口角が上がった。


「敵に居場所を教える獲物なんざ、捕まえてくださいって言ってるモンじゃねェか」


 軽く脅して効き目の良い解熱剤を拝借しよう。その腕前次第では船に乗せても良い。相手は「裏路地の薬屋」と分かっててそう思うのだから、俺も大概だと胸中で笑った。ペンギンの世話をシャチに託し、狩りをするため船を後にする。





 朝から酒場が開いているものなのかと一瞬躊躇いもあったが、すんなり開いた扉の奥の薄暗闇に其奴はいた。湯気と共に周りに散る香りでカウンターにあるのは昨夜のバーボンではなく紅茶であると知る。


「御機嫌よう」
「……ここはお前の隠れ家か?」


 朝から開くはずのない酒場はクローズの札が扉にかかり、照明の落とされた店内には薬屋以外存在しない。昨日いたマスターもカウンターに居らず、昨夜と同じ場所に薬屋は座っていた。俺はその左隣に位置していたはずだ。


「Non,知り合いなだけだ。逢瀬に使うと言ったら快く鍵を貸してくれたよ」
「俺が来なかったらどうするつもりだ」
「どうもしないさ」


 来ることがわかっていたかのような口振り。洒落た模様のカップを持ち上げる所作でさえ様になる。まだ起き抜けの朝の冷たい空気が俺と薬屋を隔てていた。


「おいで」


 呼び慣れたような声で、人を使うことに慣れた指先が、カウンターを叩く。その指先の温度を俺は知っている。甘さを含んだ視線に射抜かれて、喉を鳴らした音がやけに脳内へと反響した。


「……結構だ。長居する気は無い」
「ここに来たなら俺に話があるんだろう。紅茶でも飲みながら話すと良い」
「それに何か入っていないという証拠はあるのか?」
「なら砂糖を添えてあげよう」


 カウンターを立った薬屋が裏手に周り、ケトルを火にかける。新しい茶葉をティーポットに計量して入れる。一対のティーソーサーを戸棚から出して、自分が使っていたものと並べると丁度ケトルが鳴いた。カップとポットにお湯を注いで砂時計を回した。砂上の城が出来上がる様を見つめる横髪が滑り落ちて、耳垂の連なったピアスが覗く。頼りない間接照明に鈍く反射するそれに劣情を誘われる。


「……昨日、俺の酒に何か入れただろ。此処はお前の庭で、俺は酔って寝る失態も、誰かに運ばれて目覚めない程深く眠りもしねェ。どんな手を使った」
「疑われているのか。心外だな。話をすれば喉が乾く、そうすれば必然的に目の前の飲み物を口にするくらい分かるだろう?」


 カップの湯を捨ててから紅茶を注ぐ。綺麗な赤色が陶器を満たし、ダージリンの芳香が漂う。先程口を付けていたカップの隣に白い角砂糖を添えたソーサーを置く。皮肉にも、その場所は昨夜俺が座っていた場所だ。


「それとも、盛って欲しかったか?」


 顔を上げた薬屋がニヒルに笑む。不誠実さを孕んだ笑みに期待を乗せて心臓が高鳴る。帽子の鍔を下げるふりをして誤魔化す口元を笑われた気がするが、それどころではなかった。あの夜、抱かれても良いと思っていたし、少なからず期待もしていた。暴かれるのを、待っていたのだ。その浅ましさを見透かされたようで、貫かれた身体を縮こませる。


「此処に来たのは、その話を蒸し返すためじゃないだろう」
「……ああ、」


 絞り出した声が欲に濡れていたのに驚く。吐き出す息が熱い。身震いしそうになる身体を宥めるように掻き抱いた。その様を薬屋は長い足を組んで見物していた。ゆっくりと口角を引き上げて深い色をした瞳に見つめられれば、痴態を見られるような興奮さえ覚える。


「……クルーの一人が熱を出した。普通の解熱剤じゃ下がらねェ。……いい薬はあるか、」
「薬を処方するのは構わない。見返りに、トラファルガーは何をくれる」


 低い声で、甘ったるい音域で名前を呼ばれるともうたまらない。更に温度が上がった吐息を逃しても蟠る熱に自嘲が漏れそうだ。組んだ二本の腕と、背中を壁に預けてもまだ足りない。もっと、力強く抱いてくれるその腕を、乞う。


「完治したと俺が診断したら……。そうだな……“俺”をやろう」
「……へぇ、」


 興味を惹かれたように、パッと顔を上げた薬屋が絡まった足を解いて立ち上がる。緩慢と運ぶ足取りにもどかしい気持ちにさせるのは何故か。どうして俺はこんなにもこの男が欲しいのだと焦がれる。
 気付いた時にはきっと、手遅れなんだ。


「それは、お釣りがきそうだな」


 名も知らないパルファムが香る。好みのそれを鼻腔いっぱいにするほど、“俺”を高く評価してくれた高揚感に、心臓が早鐘を打つ。知ったはずの温度が、こんなにも頬に馴染むということは、知らなかった。一緒に連れてきたダージリンの芳香が俺を甘く包む。


「なら精算させてやるよ、俺の船で」


 俺の頬へ触れる指先に擦り寄って、未来の快楽へ思いを馳せる。この商談を「裏路地の薬屋」最後の仕事にしてやろう。か細くでも繋ぎ止めて、俺の船から降りられないようにしてやろう。それで、俺はこのオムファタルを手に入れるのだ。


「いいだろう、その商談乗った」


 前払いのチップを多目につけようと、そのラペルを掴む。見知らないそれが何故か手の平に馴染んで昨晩の振動に身体が揺れる。それはまるで揺り籠のようだった。そうだ、俺は夢なんか見ていなかったのだ。重なった唇の熱でさえ、現実だと告げるのだから。
 冷めた紅茶の香りだけが遠くに漂っていた。




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