小説 | ナノ




「トラファルガーの船は、ここで合っているか?」


 俺が彼を見た時、最初に感じたのは飛び上がるほどの驚愕の連鎖だった。

 遡ること何年か前。ハートの海賊団として徐々に名乗りを上げて行った頃だ。とある島に立ち寄った時の話。その頃の船長はまだピアスは一対だった。そう言えば俺がいつの話をしているのかわかってくれるだろうか。
 その島では薬品関係の流通が良く、前の島で船長の「気まぐれ」の治療で減った薬品類を直ぐに補充できた。新種の真新しい薬品や技術も盛んで、なかなか見所のある島だった。シャチは初日に当たりの娼館を見つけたとかで騒いでいたのを記憶している。
 ついでに言えば穀物が豊富な土地柄なおかげで酒類も当たりだった。船員達も大喜びで、あの船長でさえログが溜まっても留まると言い出したほどだ。いや、あの人は医療の方が気になるのだろうけど。
 ともあれ、俺らはその島に長居をしていた。してしまったため、そんな邂逅が待っているとも知らず。


「……聞こえたか?」


 俺は暫く固まったままだった。動かない体に相反して頭はフルスロットルで稼働していた。
 まずは状況だ。今は深夜。港に酒場が近いため薄明かりが遠くにあるが、敵に居場所を悟られるのを避けるために船の照明は落としてある。月明かりは仄かに海面を照らすだけだ。風は凪いでいる。そして俺は飲みすぎて火照った体を夜風で冷ましていた。そこへどうだ、彼が飛び乗ってきたのだ。
 地上から飛び乗ることができるならかなりの手練れだ。足音も気配もしなかったことに遅れを感じで身構えるも、その人物を目撃した俺はアルコール漬けの全筋肉が硬直したのが分かった。そりゃそうだろう、名だたる彼は一人ではなかったのだ。

 裏路地の薬屋、ニイナ。その名前はこの島に来てから嫌と言うほど聞いたし、医療に携わる者なら一度は耳にしたことがある名前だ。裏の薬品のルーツを牛耳る男と聞いたことがある。彼に取り寄せられない薬はなく、それが違法なものや最新出来立てホヤホヤの出回ってない薬品でさえいとも容易く取引してしまうという。さらに自身が調合した薬も効き目が良く、そのひと匙で人を生かすも殺すも思いのままだと噂だ。海軍でさえ薬屋を懇意にしているらしい。
 この島が本拠地だと聞いたが成る程、だからこんなに薬品関係が豊富な島なのか。そして何より、その麗姿と色香を持つ人間がこの世にいたのかと思うほどだ。アフロディーテさえ嫉妬するその身姿を白日の元に晒してしまって良いのか。同じ性別であることすら忘れさせられそうだ。
 そんな闇の薬品王とも呼べるバイヤーの腕の中で猫のように丸くなってスヤスヤと眠っているのは、我が船の船長ではないか。


「……確かに、そうだが」


 俺はまだ混乱の最中から抜け出すことができなかった。アルコールのせいではない目眩さえする。あの、船長が。
 誰かに触れられることを嫌い、この船一番の大酒飲みで、失態を見せることを嫌うプライドの高さを持ち、誰かが近付けばすぐに目を覚ます程浅い睡眠しか持ち合わせないあの船長が、裏路地の薬屋と呼ばれる男の腕の中でスヤスヤと酔い潰れて寝ているなど。
 ……俺はもしかして、夢を見ているのだろうか。


「すまないね、彼酔ってしまったようで。ベッドまで運びたいのだが、案内してもらえると助かる」


 そう言って一歩踏み出した薬屋の前に、俺も一歩踏み出したのは条件反射というやつだ。海賊業が身に付いてしまった今、他人を易々と懐に入れることを良しとしないのだ。それに薬屋が苦笑する。絆されるような笑みだ。


「安心してほしい。俺はこの船に手を出すつもりはない。今はただ、一人の男として彼をベッドまで運んでやりたいだけだ」


 なんならこの船が出港するまではこの島から姿を消してもいい、ときた。今の自分の体調では船長を支えきれないことを悔しく思い、付いてくるよう声をかけて背を向けた。
 後ろから微かな寝言が聞こえた気がする。あの船長が珍しい、と思ったことで少しだけ合点がいった。薬屋の足音がしない。振動を最低限に抑えているのだろう。食堂の方はもう静かで、あいつらもお開きにしたと分かった。都合がいい、害意はないとはいえ船内に薬屋を入れたと知ったら色んな意味で説明が面倒だ。


「……ここだ」


 扉を開けて中に入るように合図すると、強いアルコールの匂いが通り過ぎた。船長が潰れるくらいだ、彼は船長を超える程の蟒蛇なのだろう。
 壊れ物を扱うように優しくベッドに船長を寝かせ、丁寧にシーツを掛ける。甲斐甲斐しく世話を焼かれる船長が目を覚ますことはなく、薄く上気する頬を一撫でして薬屋がこちらを見た。


「そこまで警戒しなくてもいいのに。言っただろう、手を出すつもりはないと」
「……礼は言おう。見返りは」
「だから、ただ運んだだけだって」


 口元に手を当てて上品に笑ってみせる薬屋。静まれ俺の心臓、俺にはそっちの気はない。いや、静まるのはダメだから普通の心拍を刻んでくれ。
 彼は本当に運ぶだけの目的らしく、すぐに眠る船長に背を向け歩き出した。


「俺が良しとしても、最後は船長が判断する」
「頑なだな、義理堅いのは好きだ」
 

 口角を上げる笑い方も出来るのか。女なら簡単に惚れるだろう。好意のその一言も、勘違いさせるのに容易い。


「なら、その船長さんに伝えてくれ。昨日の酒場で待ってる、って」


 片目を瞑って秘め事のように潜めた声の甘さに目眩がする。宜しくとでも言うように肩を叩かれて彼はその場を後にした。残るのは深く眠る船長と入り口で固まる俺だけだ。

 翌朝、二日酔いもなく目覚めた船長の第一声は「薬屋はどこだ」という言葉だった。夜風に当たっていたせいで発熱した病床に居る俺に向けて、だ。薬はまだ効かず朦朧とした頭で伝言を伝えると、ついでに連れてくると心成しか浮き足立って船長が出て行った。第三者にもそれが伝わったのかシャチが尋ねてきたが、毛布に包まるふりをして無視を決め込んだ。俺にも説明がつかないのだ。
 そして船長の宣言通り、昼が過ぎる頃には昨夜見た薬屋が全船員合意の下船に乗り込んできた。


「宵越し振り、だな」


 再会の言葉と共に引き下げられたボルサリーノの下、歪む口元に嵌められたことを知ったのは何年か後だ。
 それからあれよあれよという間に、ニイナの乗船が決まった。ニイナ曰く流通の仕事は飽きたらしく、ちょうど良かったと朗らかに笑ってみせた。そして気付けばピアスを二つにした船長がニイナの手に落ちるのもあっという間だった。才色兼備の色男の順風満帆な人生を目の前で見せられているようだった。

 だが、俺だけは知っている。これはニイナの仕組んだことだと。






「ああ、悪ィ。手が滑った」


 ポタポタと毛先を伝う雫を見遣った後、ニイナが溜息をつく。そして貼り付く前髪を掻き分けて耳にかけた。その仕草がやけに女性的で悩ましい。彼に水をかけた我等がキャプテンは明らかに「手が滑った」領域を超えた向きのコップを手に持ってニヤニヤと悪どい笑みを浮かべていた。
 デジャヴを感じた俺は胃が痛み出したのを感じて、宥めるように手の中のコップを呷った。あれからすぐ出港して三日。このところ平穏で過ごしていたので、キャプテンの急な「イタズラ」に不意を食らった。


「……今度は何だ」
「今度? まるで俺が何度もやっているみたいな言い草じゃねェか」
「幾度もされていると記憶しているが」


 ニイナが機嫌悪そうに返す言葉に反比例するようにキャプテンの口角は上がる。イジメをして楽しむ子供のようで、外見に似合わずその様は幼稚だ。


「そりゃお前の思い違いだな」
「……なら、俺が水を掛けられる謂れもないな」


 いつもキャプテンの方から何かと突っかかってそれを優雅に流すニイナと、稀にニイナの方から挑発して始まる喧嘩ップル振りは絶好調だった。今日も不穏な雰囲気を感じてそそくさと食堂を出て行くものや急いでかき込む者もいる。噎せ込む隣のシャチに自分の水を渡した。
 そのニイナの瞳が一瞬細められた。これはガチギレの合図だ。俺も早く飛び火する前に退散しなければ。


「だから悪かった、って言ってんだろ」
「薄っぺらな謝罪だな。自分のした失態を改善することのできない幼稚な頭に対して言っているのか?」


 ブチッ、と何かが切れた音がした気がする。比喩のキャプテンの血管が切れた音だと気付いた時には周りに殺気が立ち込めた。
 一瞬の睨み合いの後、意外にもすぐに引いたのはキャプテンだった。その背を見送った後に周りをサッと拭いたニイナが立ち上がる。膝に乗せていたボルサリーノを指先でくるりと回ったそれを見て、今度は俺が溜息をつく番だった。
 ……なあ、あんたら付き合っているんだよな?




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