小説 | ナノ




 その男は、いつも決まって雨の日に現れる。

 この海域は不思議なもので、近くの島々でログが溜まればここの本島に一度戻って来なければならないという、大変面倒な海域だった。割と大きな本島で、其処の周りを大小それぞれの島が囲っている。娯楽のための施設や商業の栄えるいい所だと評判だった。
 トラファルガー・ローの航路もその島を経由するルートにあった。だが最低でも一年、ログポースによっては何年でもかかり続けるという蟻地獄のような海域に、ローは半ばうんざりしていた。幸いここまで海軍の手は伸びておらず、島々に駐屯所がないことからのびのびと過ごせることだけはこの往復経路唯一の安寧だった。
 三度と繰り返した往復。クルーは皆この本島を気に入っているようで、着いた瞬間から皆散り散りになる。勝手知ったるこの島では、もうローからの忠告はない。ロー自身もゆっくりと身支度を整えてから鬼哭を担ぎ、外へ通じる扉を開けた。


「……雨か」


 さあさあと、眺める景色を少しだけ烟らせる情景と頬を撫で付ける湿気に知らずに呟いていた。地面を強く打つほどでもないが、後にそうなりそうな雨雲が近付いてきている。遠くに見える往来は色とりどりの傘が咲いているが、ローはその中に入れない。仕方がないと展開したサークルの中で、ローは自身と一番近い家屋の軒下の小石と位置交換をした。それを少しばかり繰り返せば、まるで船からここまで走ってきたように息を切らせた。違いは雨に濡れたかどうか。辿り着いた目的地を見上げて、ローはそのガラスの扉を潜った。
 ヒヤリとした心地よい空気が纏わり付いた湿気を振り払う。無音に静かな人の音が混じったようなこの空間は嫌いではない。一度模索するように視線を行き渡らせた後、足を運ぶ。周りの人間はローの持つ刀を見て近寄っては来ない。いや、ここにいる人間は知識を吸収することで忙しいから目に入らないのかもしれない。
 本島の東の方にこの図書館はある。割と大きな図書館で、保管される図書の量は膨大だった。ローはその一角を制覇する途中だった。そこへ行く途中、目当ての人物がいることに気付いて歩みを遅くする。


「……ああ、来ると思っていましたよ」


 物静かな青年だった。綺麗に梳かされた黒髪と白いワイシャツが清潔感を匂わせる。知的そうな細いフレームの眼鏡から見える瞳は涼やかで、ローはこの男の表情筋が動いたのを見たことがない。所謂無愛想というやつだが、ローにとってそれは好感の持てる所だった。


「……よくわかっているじゃねェか」
「貴方は雨の日にしか来ませんから。それに各島のログがまだ溜まらないとぼやいていましたし」
「今さっき戻って来た所だ。それなのに俺が来ると思っているのなら、随分俺に気があるんだな」
「馬鹿なこと言わないでください。前に借りたがっていた医学書、返却されていましたよ」


 怜悧な見た目から無愛想だと判断されがちだが、返ってくる言葉は存外豊富だ。動かない表情の代わりに雄弁に語る言葉は知的で、飾らないそれをローは気に入っていた。

 思えば初めて会った日も雨の日だった。しとしとと降り続く小雨が起毛の帽子をうっすらと濡らしたことを覚えている。雨宿り代わりに入った図書館はシャンデリアからの柔い光をリノリウムに反射させていた。薄暗い外とは違って活字を追う人間のために照明を一定に保っている。だがこの雨のせいか窓際の読書スペースにも本が並ぶ棚の隙間にも、人影は数えるほどしか追えなかった。そこらの人よりも高い自身の背に隠れもしない鬼哭を担ぎ直せば金属音が鳴って、入り口に座っていた司書と目が合う。固い表情をした司書にニヤリと笑ってやって何もしないと告げてやれば、形ばかりの挨拶をされた。本当に揉め事を起こすつもりはないが、自分の肩書きは払拭できないようだった。
 ローが本を読むとしたら基本的に医学関係だ。案内板を辿って窓際へ移動すれば、そこに棚から本を引き抜く青年がいた。首から下げている小さなプレートが司書だと教えてくれたが、一切の愛想が失われた顔がこちらを見ればローの興味は医学書からニイナへと推移したのだ。

 以来、気が向いてこの図書館に足を運ぶ時は決まって雨の日だった。ローの気分に雨が合わせているのか、それとも雨が降れば図書館に来ると刷り込みをされたのか。どちらにせよ、ローは来館すればニイナを探して最初に言葉を交わす。
 窓際の本棚は比較的新しい本が並ぶ。日焼けしないように古書や文献は奥の方のうず高く聳える本棚に埋まっている。ニイナは司書というよりそういった古文書の解読を主としているようだった。数冊の古書を抱えて窓際のテーブルに着き、解釈に必要な本を手近な本棚から取って来るという行為をローは飽きるほど見ていた。実際今日も近くの机に散乱している羽ペンや古文書を見れば彼の座っていた場所を推定できる。そして、そこの前にローが座って医学書を読み耽る行為もニイナの中に馴染んでいた。


「今は何してんだ」
「東の方の古文書を訳しています。面白いですよ、彼らの奥ゆかしさの美徳が」


 手元の羊皮紙を覗き込むと、確かに昔何かの文献で見た東洋の文字と一致する。教本のような線の細い字を書くものだ。そこで最後に訳されただけの文章を見つける。唐突に現れた夜景への賛美の一文に首を傾げる。


「……それ、なんだ?」
「ああ、これですか。これはワノ国より東の国にあった文献らしいです。これは有名な著者の一生を語ったものですが、彼は教師もしていたようでそこでの発言みたいです。生徒が正しく訳した言葉を、意訳ですが我々はこう言うはずだと窘めたようで。素敵だと思いますよ」


 「月が綺麗ですね」、と。
 薄い唇が象る言葉に、一瞬体が揺れた。なんてことない言葉だ。ローは居住まいを直して本を開く。目新しい医学の内容に吸い込まれて仕舞えば、先程の会話など最新の研究内容とその臨床結果へと埋もれてしまった。





「……雨、強くなってきましたね」


 二人の間に会話は少ない。今日の一石はニイナの方から投げかけてきた。この図書館に着いてから一時が経つ。それだけ時計の針が回れば空模様もすっかり変わっていた。この島にかつて流行していた風土病の特徴と感染源について興味深く精読していた矢先に投げかけられた言葉は、他人事のような響きを持って届いた。
 窓の外を見つめるニイナの横顔が視線を上げたローの目に入った。日焼けのしていない白い頬に、細く流れる黒髪が触れている。微かに空調に揺れる軌跡にローはまるで細雨みたいだと思った。


「……そうだな」


 ニイナの眼鏡のグラスが光を反射して外の景色を映していた。その隙間から見える瞳はローではなく、白く烟るほど強く窓を打ち付ける雨の水滴が流れる様をただ見ていた。耳障りな音が途切れた集中の狭間から聞こえて来る。


「……まるで雪みたいですね」
「随分抽象的な言い回しだな」
「自分、文系なもので。雨よりは雪の方が美しくて好きですが」
「寒ィじゃねぇか」
「情景の話ですよ。どうせ仕事で館内に引きこもっていますし」
「……俺は、雪は嫌いだ」


 雪は、嫌いだ。雪が全ての音を消し去って体温を奪い、その白で瞳を隠してしまう。そして全てを真白に還してしまった過去を、泣き喚いた幼子と散った赤の上に転がる死体の幻覚を、遠くに見るのだ。
 零したようなローの一言に、ニイナは返さなかった。代わりとばかり寄越された視線は、無遠慮な程にローを舐め回す。それに怪訝な視線を返せば、ニイナは口を開いた。


「言われてみれば確かに夏よりは冬が似合いそうですよね。雪に攫われてしまいそうだ」
「ねェよ。アンタの中の俺のイメージは何なんだよ」
「夜、ですかね」


 静かな、凪いだ夜。全てが眠りについた世界には星がなく、金色の満月のみが仄かに照らす。


「貴方の瞳は夜空に浮かぶ月のようだ」


 彼はどういった心持ちでそう言ったのだろうか。ローにはわからない。雨は未だ酷く窓を打ち付けていた。
 ニイナと話すたびに癖や、見た目にそぐわない仕草等に引き込まれる。まるで積もった眩い新雪の上を踏み荒らすような征服感を抱くのだ。それが勘違いではないとしたら、この感情は何と言うのだろう。

 著者の後書きの字面を目で追って、それが自身の知識へ還元されないものだと判断するとそれを閉じた。濃い緑の裏表紙の金縁をなぞる。空調の静かな音。時計は夕方までの時を刻む。雨の音は止まない。曇るガラスにローの姿は映っていなかった。


「おい、この本の続きは」
「……今回の滞在はどれ位ですか?」
「ひと月くらいか」
「なら一週間待ってください。先程入れ違いで借りていった方がいましたから」


 また待つ必要があるのか。ローは小さく舌打ちをする。仕方なく違う種類の医学書へ手を伸ばす。
 ニイナは羽ペンをくるくる弄ぶ。飾り羽がゆらゆら揺れる。ローはその癖の後にニイナが口を開くのを知っていた。


「……その間に雨が降ればいいですが」


 何気ないように漏らされた言葉。何の意図も含まない言葉。ローの心臓が規則正しいはずの規律を一瞬でも崩した言葉。


「……別に、雨が降らなくても来れるだろ」


 透明なガラスの先が少しばかり見開かれた。それをそっぽ向いて呟いたローが見ることなど出来なかった。帽子を脱いだ毛先が空調に揺れる。
 意図的にしろ、無意識的にしろローはお返しとばかりにニイナの心底を揺らすことに成功したのだった。


「……そう、ですね」


 ローがニイナについて知っていることなど少ない。その鉄仮面の舌はよく回ることだとか、子供みたいに羽ペンを弄ぶクセがあるとか。そんなところだ。


「……さっき答えなかったことですが、」


 ニイナが眼鏡を取って目頭を揉むフリをする。本当はそこまで目が悪くない。ただ、そうすることで己の平静を保つのだ。乱れた鼓動は時を刻むように正確に戻る。


「貴方はオペオペの実の能力者ですよね。能力を使う時は体力を消耗すると図鑑で見ました。そんな労力を使うより素直に傘を使った方が適切でしょう」


 折りたたんだツルを持った指先から人差し指が離されて、窓の先を示す。ここからは欠片も視認出来ないが、その先は確かにロー達の船が停泊している方向だった。その指先からローは細いフレームの眼鏡を取り去り、ガラス面を眺める。その僅かに歪む先を見てもニイナと同じ景色など見られるはずもないのに。お節介だ、と呟いた言葉にトゲはない。


「返してください」
「伊達か」
「少しばかり視力が悪いだけです。全く見えないわけではありませんが」
「へぇ、悪くねェな。アンタ、顔の造りはいいんだからコンタクトにしたらどうだ」


 女が群がる、と揶揄しても冗談はやめてくださいとばかりにニイナの裸眼が細まるだけだった。その表情の一つを見れたことにローの口端は満足そうに歪む。
 反射するガラスがなくなったことでニイナの視線がやけに刺さるような気がする。


「……貴方は裸眼の方がいい」
「別に俺は目は悪くねェ」
「いや、隠すのは勿体無いと言っています」


 猫のように細まるその瞳をニイナは気に入っていた。先程例えたような夜空を照らす大きな光源に似ている。驚いた時は満月で、愉悦に歪む時は三日月のような。自分と違い雄弁に語るその瞳を羨んでいると、心の何処かが語っている。欲している。

 そしてローはこれから知る事になる。ニイナの視線の熱量も、彼が眼鏡を奪い返すために触れた指先から伝う体温の高さも。
 案外、柔く笑むものだということも。


「貴方の瞳は綺麗ですね」


 不安定に立てた羽ペンが転がって翻訳し終えた羊皮紙へ黒点を残す。
 何故ニイナを見て雨を連想してしまうのか、雨が降ればニイナに会いたくなるのか。何故三度しか会わない男と最初に顔を合わせなければ落ち着かない気分にさせるのか。初めて見た優しいだけの微笑を自分だけに向けられて込み上げるその感情を。言われた言葉の意味を深追いしてしまう短絡的な思考を。
 その理由を今のローは知らない。その理由を、知る日は近い。




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