小説 | ナノ




 身長も足の長さも殆ど変わらない二人の距離は変わらない。早足で歩くローの一歩後ろをニイナが歩けど、その距離が離れる事も近づくこともなかった。ニイナ自身もその距離を詰めることもせず、ローも彼が着いてくることがわかっていたからこそ振り向かずに歩き続けた。街行く人は彼等を一目見たとしても海賊と分かればすぐに目を逸らしてしまい、彼等の行く末を見た者はいなかった。

 彼等を見逃す人間が少なくなった街角の、細く薄暗い路地裏へとローは歩みを曲げた。そこから五歩ばかり進めて壁へと背中を預ければ、一拍遅れてきたニイナに鬼哭ごと囚われる。壁についた仕立ての良いスーツの右肘から二の腕までの距離を辿れば、ニイナの体が世界からローを隠した。鬼哭を持ち替えた右手で彼のネクタイを引っ張れば、少しばかりその体が傾く。二人の唇が悦に歪んで、重なり合った。
 ゆっくりと、貪り合う。優しく食んだと思ったら次は犬歯を突き立てて。唇だけで満足出来なくなれば、後は舌を絡め合うだけだ。煽情的な水音が興奮を的確に誘い、遠くの喧騒が二人を置き去りにする。


「……ッ、ふ……ニイナ……」
「……ロー……」


 息継ぎの合間に名前を呼べば優しく細められた瞳に心臓が強く鼓動する。それで嗚呼、自分はこの男に心底惚れ込んでいるのだと再度自覚する。言葉にすることは生涯ないだろう。伝わることはないだろう。なのに、目の前の恋人はいつの間にか全てを知っているのだ。
 深くを抉りたくて緩慢に角度を変えて舌を差し込めばニイナもそれに応えた。容易に絡め取られて吸われれば腰の奥底が疼く。更に舌に歯を立てられたことを皮切りに、昨日の行為自体をまざまざと思い出した。激しく穿たれ、酷く揺さぶられて。なのに愉悦に歪むその瞳が近付いて優しくローを奪ってしまえば、全てが快楽に変わるのは一瞬だった。鼓動が一拍不整になった衝撃で無意識に膝が折れた。あわや崩れ落ちるかと思った腰をニイナの力強い腕が支えて、ジーンズのウエストと肌の境目をなぞる。表通りの時の指先と違い性的な匂いを纏う触れ方と、力強く腰を抱きしめる腕はローの熱情を煽るだけだった。

 一瞬、呼吸をすることを許された。交わる熱い吐息を追いかけるようにもう一度湿っぽい唇同士が重なる。

 縋るように掻き抱いていたニイナの襟足を一度撫でてから、刺青を施した指先が下へ降りて彼のネクタイに触れる。間近で見たそれは、確か半年前に彼に贈った物だと思い出した。その時に情熱的に抱かれたことも併せて蘇ってしまい、ただでさえ熱で浮かれている脳には許容量を超えていた。紛らわせるようにそのネクタイを緩めて糊の利いたカッターシャツの襟ぐりを肌蹴させれば、一日前にローが噛み付いた痕が覗いた。日焼けのしていない首筋の下、そこに映える赤い歯形は確かに自分のものだった。トラファルガー・ローの、もの。所有印なんて浅ましいものはどうでも良かったが、存外それも悪くないと鼻で笑って一度指先でくるりと撫でてから、爪を立てた。
 深く口付けていた呼吸が乱れて、ニイナの色付いた瞳が瞬いた。


「……誘っているのか」
「ん、……はァ……無理だ、もう出ねェ」
「だろうな」
「お前のせいだ、どうしてくれる」
「どうもこうもないだろう」


 一生を持って責任を取るだけだ、なんて囁いてまたニイナは口付ける。その言葉が心の底からのものだということは、ローの知る唯一のことだった。
 だがローの知っていることの多くを知り、自由に操ることのできるーーーそれこそ欠点のない神様のようなニイナを手に入れてもなお、ローは満足出来なかった。ニイナは神様でも完璧な人間でもなく、ローの男だった。それを目の当たりにしたくて、いつも余裕なその顔を歪ませたくて、自覚を持たせたくて。またはただ構って欲しくて。理由は多々あれど、ローはその瞬間にニイナの精巧に作られたかのような芳顔を崩したいのだ。
 特に理性を捨て去った、本能に従う獣のような瞳が良い。爪を立て、牙を立て、あらゆる性技をもってして見たかった情景。しかし、その瞳を見る頃にはローも記憶が曖昧になっているのだが。

 腰を支えていたニイナの指先が移動して、薄く固い男の臀部を確かめるようになぞる。その感触に閉じていた瞳をうっすら開けば、指がジーンズの後ろポケットに掛かる。
 するりと舌が抜き去られて、口寂しい余韻が残る。充血してぽってりと腫れた唇が擦れ合うような距離で真っ直ぐ見つめられると、どうしても生娘のように逸らしたくなってしまう。ぬるりと唾液で唇が滑って、ニイナが言葉を紡いだのがわかった。


「……付けてくれないのか?」
「……プレゼントするなら最後まで甲斐性見せろよ」


 笑んだニイナの吐息が唇に当たった後、指先で優しく顎を横に動かされる。耳朶に他人の温度を感じながら、ローは目を閉じた。

 キャッチを優しく爪で外しながら、ニイナは想う。警戒心なら誰にも劣らないあの外科医が、自分の前ではこうして頚動脈を無防備に晒す醜態を。ピアスを付け替えるニイナの手に、愉快そうに爪を立てる愛おしい恋人の事を。そして、こんなもので繋ぎ止めておく事が限界だということも。
 喧嘩の種を持ち出してくるのはこの瞳がローを見ていない時と構ってほしい時だということは、当の昔に知っていた。まるで戯れつく猫のようで、それに遊びでも本気でも返したくなってしまえばいつしかそれが喧嘩のように見えてしまったらしい。
 もうそろそろ落ち着こうとは思う。ローの細い顎を反対に向かせて新たなキャッチを外しながら、ニイナは考える。その為の布石も手に入れたし、自分にも時間的にもまだまだ余裕がある。後はいつその伏線を回収しようかとニイナは思案していた。

 この時ばかりは、ニイナもそれを信じて疑わなかったのである。


「……出来たぞ」
「ああ」
「似合ってる」


 そこに口付ければローは擽ったそうに身を捩った。頬に触れていた指先が名残落ちそうに滑り落ちて、開けた体の隙間に潮風が入り込んだ。日暮れが近付いたことを、緋色に色付いた空が告げる。


「そろそろ行くぞ」
「何処へだ、宿には行かねェぞ」
「なんだ、ヤる気があったのか。それは気付かなくて申し訳ないな」
「死ね」


 物騒な言葉を吐く割に、その手はしかとニイナのスーツを掴んでいた。名残惜しいと言うようなそれにニイナの瞳が優しく瞬く。


「これから先、海軍の包囲網が続くと頭を悩ませていただろう。ちょうど俺が使っていた情報屋がこの島にいるらしいから、待ち合わせしている」
「情報屋? それは信頼できんのか」
「ローと出会う前からの馴染みだ」


 そうニイナが言えば、指先に力が篭ったのを振動で感じた。それに思わず吹き出してしまえば、ローの眉間に皺が寄る。未だ離す理由はないようだ。


「そんなに嫉妬するな。俺の全てをお前に捧げているのは知っているだろう」
「どうだか。口では何とでも言えるだろ」
「割と誠実なつもりなんだがな」
「まだだ、まだ足りねェ。全部寄越せ」


 裾を掴んでいた指先が上ってネクタイを引っ張る。近付いた首に両腕を回して、するりと長い脚を絡め合ってしまえば二人はまた唇を重ねるしかなかった。
 夜の帳が下りて路地裏に影が落ちる。表通りに灯りが灯れば尚のことその暗夜は忍び寄ってくるだろう。燻る熱をただ煽っていく二人を隠すように。




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