小説 | ナノ




 夕飯の時まで二人の姿は見なかった。むしろ俺からの禁止令のせいで船長室付近に近寄るものがいなくて状況を把握していないということが大きいかもしれない。だが、もう暗黙の了解となったそれに近寄る猛者も好き者もいないおかげか、バラされたパーツを持つ仲間がいないのは精神衛生上大変喜ばしい。


「……しっかし、キャプテンもなんで付き合ってるニイナにあそこまで突っかかるのかね」


 シャチがシチューの人参を俺の皿に三つほど投げ入れて話題を提供した。その質疑はきっと俺らにはわからないことだろう。なんせ、今の今までその答えは出てこないのだから。


「……やっぱり世のアベックは喧嘩はすれどあそこまですることはないよな……」
「せっかく番になったのにキャプテンは愛情表現苦手なんだね!」
「ベポさんや、番とか生々しいからやめて。あとペンギンさん、アベックとか古い」


 行儀悪くスプーンでベポを指し示したシャチに文句の一つでも言うことは許されるであろう。そう思った俺は無残にも俺の皿に追いやられた人参をフォークで纏めて、シャチの口に勢いよく突っ込んだ。悲鳴が上がる前に咀嚼もそこそこな個体を飲み込ませる。いい加減いい歳した大人なんだから好き嫌いくらい無くして欲しいものだ。


「あっ、ニイナ」
「Hi、楽しそうなことしてるね」


 片手を上げて食堂に入ってきたニイナにベポがいち早く気付く。それにつられて顔を上げれば、カッターシャツを緩く纏うニイナがいた。上着とボルサリーノとネクタイを取り払ってボタンを二つほど開けたラフな格好の彼を見るのは久しぶりだった。いや、シャワーを浴びたばかりなのだろう。カッターシャツにストライプの模様がうっすら入っているものは見たことがない。
 そして、その襟口から見える真新しい咬み傷をつけた首元を隠すことなくニイナは動かないシャチを一瞥していた。おい、炎症起こしているぞ。


「……動物じゃないんだぞ」
「大丈夫だ、ツバがついてる」
「ばか、咬み傷はちゃんと消毒しろ」
「したよ、めちゃくちゃしみた」


 ヒトとはいえ口内の細菌で化膿することだってあるわけで。咬傷は刀傷よりタチが悪いのだ。その知識がないわけではないうちの医者と薬剤師はどうなってやがる。


「ニイナー、キャプテンは?」
「おやすみ中だよ、ベポ」


 コックより夕飯の乗ったトレーを受け取ったニイナがベポの隣の椅子を引いてそこに座る。その位置からでは傷は見えないだろう。カラトリーを手にしたニイナがそれをくるりと一回回す。そしてカチリと一瞬俺と視線が交わり合えば、俺は溜息をつかざるを得ない。食べ終わった自分のトレーを手に立ち上がると漸くシャチも動き出した。


「……あれ、ニイナいつの間に」
「今しがた」
「ペンギン、食い終わったのか?」
「シャチが人参に溺れているうちにね」
「シャチまだ人参食べれないのか?」
「う、う、うるせー!!大体人参食えるシロクマなんて聞いたことねぇよ!!」
「……人参食べれるシロクマでごめんなさい……」
「嫌味に聞こえるから黙って!!」


 ドンドン、と机を叩くシャチにニイナが「行儀悪い」と窘めれば直ぐにやめた。テーブルマナーが完璧なニイナに言われるとシャチはすぐ聞き分けが良くなる。もう少しその心掛けを普段にも反映してほしいものだ。コックに自分の持っていたトレーを渡して、いつもの、とオーダーすればその一言で全て分かっているコックは一人分のシチューが乗ったトレーを置いた。俺はそれを手に扉へと真っ直ぐ向かう。
 ニイナ達の後ろを通ると、ニイナが背筋を反らして俺の名前を呼んだ。猫のように緩く目を細めて意味ありげに笑うそれを知っているのは俺だけだ。こいつは全てを知って、理解して、行動している。ズルくてひどい、出来た男だ。


「いつも通り、よろしく」


 たまには自分で行けよ、ばか。





 ノックは早めに五つ。いつもより多いそれは俺とキャプテンの暗黙の合図なのだ。微かに聞こえた許可の声にドアノブを開く。我がキャプテンは情事後の気怠い空気を纏ってベッドに丸まっていた。下半身は辛うじてジーンズを履いてくれるのでいつも助かる。見せ付けるような紅い花を刺青と共に着飾ったまま起き上がった。


「今日はシチューか」
「人参入りです」
「知ってる。……シャチにも食わせろよ」
「ちゃんと食べてくれましたよ」
「突っ込んだ、の間違いじゃねェのか」


 何度かこの航海で繰り返されたシャチの人参嫌い克服戦争はニイナとキャプテンの喧嘩の次に有名だ。最初は優しく諭していたが、結局のところ実力行使が手っ取り早いと気付いた今日この頃である。シャチはいつも学習をしない。
 心なしか腰を庇いながら立ち上がったキャプテンが丸いテーブルについてシチューに手を付け始めた。


「ニイナは」
「……入れ違いで、食堂に」


 スプーンが一度公転して返事の代わりになった。似た者同士だ。それが合図になって「いつも通り」が始まる。


「……いい加減、落ち着いたらどうですか」
「ぁア?」
「ニイナとですよ。周りが特に被害を被るんです。別れるか穏やかに過ごすか決めてください」
「……くくっ、今日は随分厳しいこと言うじゃねェか」


 俺の棘のある言葉にも気分を害した様子はない。この「いつも通り」の時間は少し言い過ぎても見逃される。それに託けて俺も本音を吐露するのだ。


「別れてやんねェよ。お前もそれくらいわかってんだろ」
「……本当にニイナが必要ならもう少し可愛げのある嫉妬でもしたらどうです?」
「誰がするか」
「好意を抱いているなら素直になればいいだけですよ」
「ああ、愛してるぜ。殺したいほどに。……いや、いっそ殺してくれてもいい」
「誰が俺に素直になれと言いましたか」


 射抜くような力強い瞳で情熱的なことを言うもんだから、関係ない俺さえ絆されそうになる。躱す一言を述べればまた可笑しそうに笑った。
 いつだったか、ニイナは言った。「殺してやりたいほど憎いという感情も、殺してほしいほど愛しているという感情も、全てローに捧げている」と。言わないだけで心身共に惚れ込んでいる彼は羨ましいほど輝いて見えた。
 いつだったか、キャプテンは言った。彼奴ならば死が二人を別つことはない、と。何方かが死ぬとなれば片方も自害するつもりなのだと。一生を二人で遂げるのだと。それに目を細めたことがある。この海で犯罪者をやっていく限り、いつかは迎える最期に添い遂げることなど難しいだろう。彼らもそれを理解していてなお、今日も夢見ているのだ。


「いいことを教えてあげましょうか」
「あ?」
「ニイナと同じこと言ってますよ」


 もうこの喧嘩ばかりを繰り返す馬鹿ップルに付き合ってられないとばかりに舌打ちを隠して毒を吐けば、キャプテンは目を丸くした。切れ長の瞳が見開かれていつもは深いシワを刻む眉間も幾らか和らいで、かの幼き日の彼を思い出す。髭と不健全な紅い花弁さえなければ初めてニイナと喧嘩をして落ち込んでいる彼に檄を飛ばした日に似ている。あの時はまだピアスも一対しかなかったはずだ。ニイナが二連のピアスをしているのをして真似したんだったか。
 俺がそう古い記憶を呼び覚ました一拍の後、キャプテンは声を上げて笑った。耐えきれないと言いたげなほどに思いっきり笑う彼を見るのはいつぶりだろう。やがて一頻り笑うと、彼は目と口を細めてにんまりと勝ち誇ったような満足そうな顔を見せた。


「……ああ、知っている」


 これだからこのアベックは。ついに舌打ちを零せばキャプテンはそのひと匙を飲み込んだ。
 だが、これだけは言ってやらない。ニイナは全て知っているんだぞ、と。アンタがニイナに突っかかる理由も、こうして俺にだけ包み隠さず惚気て甘えることも、アンタの本当の気持ちも。喧嘩した後のメンテナンスに俺が派遣される理由はそういうことなのだ。全てを円滑にする、ニイナの掌の上だとも知らずに。今日もキャプテンは知らずにニイナからの愛を飲み込む。羨ましいことだ。
 本当に、ニイナはズルくてひどい出来た男だ。



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