降る夜


夜半過ぎに、目が覚めた。

意識だけが体を離れてぽっかりと暗闇に浮かんでいるような、こんな目覚めは、あまりない。珍しいことだった。
ふわふわと頼りなく漂う意識の中、残された体を布団の中で何度か寝返りを打ち、眠りに就こうとするが、一度去った眠気はなかなか襲ってはこなかった。
仕方がない、と漸く立ち上がったのは、それから10分ほど経ってからのことだ。
冷たい水でも飲んでこよう。そう気晴らし程度に思いつき、四ツ谷は障子を開けて、外廊下に出た。

夜の辺りは、しん、と静まりかえっている。犬の遠吠えが、微かに聞こえた。
すべてが、息を潜めて朝を待っているように見える。その中で不躾に動く四ツ谷を、どこかで誰かが非難しているような気がした。

夜を、あまり怖いと思ったことは昔からなかったな、と四ツ谷は思った。それは、祖母の怪談噺に怯えていたころからずっと、変わらない。そんな性格を、実は少し疎ましいと思う。
純粋に怪談が好きだった、その頃から自分は少しずつ変わってしまった。聞くほうから、話すほうへと。受け身から、能動へと。気付かないほどゆっくりと、しかし重大な変化。
それは、緻密な計算と複雑に絡まる糸を解きほぐすような忍耐のいることだった。
今の状態について、後悔を、しているとは思わない。自分の意思で持って、あの屋上に通っているのだと、断言できるほどの自信はある。
しかし、昔を懐かしい、うらやましいと思う気持ちが、時たま頭をもたげる。それは、仕方がなかった。

そんな風に考え事をしていたさなか、ぴたりと足を冷え冷えとした空気が這い上がってくる廊下の上で止めたのは、まだ明かりがついていたからだ。仏間の。
足を止め、それからはそろそろと辺りを伺うような、泥棒のような足取りで近づいて行ったのは無意識の範疇だ。
別に、何か得体の知れないものがいると思ったわけではない。祖母は、寝る前に決まって寝間の隣の仏間で一日の出来事やらなにやら、そういうものを話すことを日課にしていたのを知っているからだ。現に、仏間から柔らかな明かりとともに漏れだしてくる途切れ途切れの声は、まぎれもなく祖母のそれだった。
普段だったら聞かないふり、を、するはずの四ツ谷が今日に限って足を止めてしまったのは、聞き覚えのある言葉が耳を擽ったからか、ただの偶然か。それは、もはや知ることのできない領域に走り去って行っていた。

ともかく今重要なのは、祖母が仏間に向かって話している内容を、四ツ谷がまるで盗人か何かのようにこっそりと耳をそばだてていることだった。影が障子に映らないように、足音が聞こえないように、細心の注意を払っている自分に気づく。
耳慣れた祖母の声は、この深夜、あまり大きくはなかったけれども、風もない閑散とした闇夜では、聞き取るのにそう苦労はしなかった。

……不思議でしょ?ねぇ。不思議というか、そうね、びっくりしたわ。
あの子が家に人を連れてくるなんて。それも、女の子よ?可愛らしいお嬢さんだったわ。あの子なら、着物も似合いそうねぇ。どんな柄がいいかしら。あんな子が来てくれたら、そりゃあ安泰でしょうねぇ。
……え?ああ、いえ違うのよ。

祖母の声に、笑いが混じった。ころころと、まるで少女のように笑う祖母は、年などほとんど感じさせなかった。
そして、本当に、と聞いていた四ツ谷は思う。本当に、目の前にいるように話すのだ。祖父の姿、声までもが聞こえてきそうだと思った。

――あの子がね、そんなことできるわけないでしょう?あんな可愛いお嬢さんに。
そりゃあ何の謂われでここに連れてきたかまで私が推し量ることなんて出来ないですけど、文ちゃんは、たぶんあんまり深く考えてないで連れてきたんだと思うわ。それは、あのお嬢さんも、ね。
でも、嬉しかったのよ、私。そりゃあもう、ついつい引き留めて話しこんじゃうくらいに、とっても嬉しかったわ。だって、初めてのことですもの。
あなたもそりゃあ偏屈だったけれど、文ちゃんはあなたのそんな性格ばかりしっかり受け継いじゃって。まぁ、私は好きでしたよ。あなたのそんなところも。文ちゃんのことも。当然です。

楽しいことって、大好きでしたよ。いえ、今もね。
噺でも、怪談でも、夢中になれること、楽しいと思えることがあることって、とても素晴らしくて、有難いことだと思うんですよ、私。文ちゃんも、あなたも、幸せ者だわ。
……でもね、私、私だからこそ言えるのよ。
世間で、楽しいことだけで暮らしていくことはできないわ。伊達に長い間、生きているわけじゃあないのよ。
文ちゃんもね、私とあなたの孫ですから、そりゃあ上手く世間を渡って行くだけの才覚はあると思ってますよ。……え?あら、褒めたんじゃあありませんから、勘違いしないで下さいな。
でも、私だって老い先短い身ですからねぇ。そのくらい分かっているわ。心配になったり、もちろんあなたのときほどじゃあありませんから、全然構わないくらいの気持ちですけれども。

そんな矢先でしょう?今日のこと。
本当に、嬉しかったわ。なんだか年甲斐もなくはしゃいでしまって。
……そうねぇ、あの子がお嫁に来てくれたらそりゃあ嬉しいでしょうねぇ。あのお嬢さんの白無垢、見てみたいわ。
でも、私が口を出せることじゃあありませんから、文ちゃんに任せましょう。大丈夫、何せあなたと私の孫ですもの。

ええ、でも本当に、嬉しくて、楽しかったわ。いつか、あの子と文ちゃんの晴れ姿を見られたら、いいわねぇ。現実になったら、いいわねぇ。
いいえ、ただの年寄りの、独り言よ。

……そう?ええ、おやすみなさい。
今日は随分と遅くなってしまったわね。ごめんなさいな。

それを最後に、声はぱったりと聞こえなくなった。
リンの澄んだ音が、響く。それは、静謐な空間に広がり、余韻を残して消えた。
仏間の明かりが消え、部屋と部屋を隔てている障子を使って祖母が隣室に行ったことが分かる。辺りは、夜の静けさを取り戻していた。

ほうっと、四ツ谷は息を吐いた。それから、そっと、足を寝室のほうに向けた。
相変わらず、忍び足で、歩く。聞いてはいけないものを聞いてしまったような、うしろめたさのような、くすぐったさのような、よく分からない感情に支配される。

凛とした夜中の空気は、立ちっぱなしだった四ツ谷の全身から、温かさを奪っていた。どこもかしこも冷たい体に布団を恋しく思いつつ、寝られる気はほとんど起きなかった。

どこにも持っていきようのない感情の束を発露するように、頭をがしがしと掻く。これも、昔からの癖だったような気がする。

「……どうしたもんかねぇ」

詮無い言葉を吐きつつ見上げた空は、今にも降りそうな星が瞬く夜だった。








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