傷跡の面影


こつり、こつり、と、靴底とコンクリートの地面がぶつかる音が聞こえた。固い音だ。
例えばヒナノの履いているローファーとか、あるいはそれに準ずるような革靴を連想させる。つまり、とヒナノは思った。この足音は、真ではない。


「……弥生さん?」
角を曲がって姿を表したのは、何か得体の知れない化けものではなく、いやこの男もある意味そういう面を持っていると言えばその通りなのだが、とりあえず表面的には知り合いと言っていいカウンセラーの工藤だった。しかし、あまり仲の良い知り合いではない。真、早く来ないかな、とヒナノは工藤を見てそんなことを考える。

「工藤先生。いま、帰りですか?」
「ん?まぁね」

カウンセラーだって勤務時間は決まってるけど、先生たちみたいに書類整理だとかそういうものが少ない分、ほとんど定時、っていいのかな、このくらいに僕は帰るんだ、と工藤はヒナノが聞いてもいないことをすらすらと喋った。ヒナノは眉をしかめた。

「私、何も聞いてませんよ」
「あ、聞くつもりなかった?僕としては、先回りしたつもりだったんだけど」

つくづく嫌みな返答だ。工藤という男はいつもそうだ。自分と言う柔らかな核を何重にも重ねたベールで覆い隠しているように見える。最早、核が見えないどころか、あるかどうかすら疑ってしまうくらいに。そう言うところは屋上の幽霊の通り名の変人である四ツ谷と良く似ているが、決定的に違うのはそれを厭味ったらしく見せつけるか、見せないように押し殺すかの選択だ。工藤が前者で、四ツ谷が後者だ。

嫌なら、構わなきゃいいのに、とヒナノは思う。どうせお前程度には見破れもしないと言われているような気がして、神経を逆なでさせる。……それが事実だから、尚のこと、苛立つ。

「ところで、何?弥生さんがこんなところにいるってことは、まだあの子を待ってるのかな?」
「ええ、まぁ」

真が所属している部活であるバレー部はそれなりに練習も厳しく、部活の終了時間ぎりぎりまでやっていることは周知の事実だ。一緒に帰るのももう日課のようなものだが、待ち合わせ場所である昇降口の前に先に到着するのは大概、ヒナノである。短い時は5分未満、長い時になると20分以上待つその時間を、ヒナノはすり寄ってきたクマキチを相手にしたり、携帯をいじってみたり、ぼーっと空を見上げたりすることで潰す。人の足音に聡いのも、やはり待っている人がいるからかもしれない。

「いつもいつも、大変だねぇ。大概待ってるの、君でしょ」
「なんでそんなこと、知ってるんですか」

工藤のからかいじみた言葉に、思わずムキになってしまって返答して、後悔した。これでは、ヒナノが毎回待っているというのが事実であると、肯定したも同じだからだ。別に知られて困るようなことではない……はずだ。そのはずだが、何故かそれが嫌だった。

「知りたい?」
また、人をくったような切り返しだ。ヒナノは、いえ、と短く返した。

「そう、残念」
工藤はにっこりと笑った。いつもの、何と言えばいいだろう、そう、完璧な笑い方だ。笑い方のマニュアル本でもあれば、そのお手本になりそうな笑みだ。それでも、その笑みの下がそれとは全く違った、どろどろとした得体の知れないものが渦巻いていることを、ヒナノはもう知っている。なんて面倒臭いんだろう、とヒナノは思った。


そんな笑みを浮かべて、平気で人を実験台とするような工藤が、ヒナノは、嫌いだ。





工藤は、にっこりと無害そうな笑みを浮かべた。その下で、頭脳は忙しく動いている。
放課後、ヒナノが中島を待っていることを告げた時の、表情。それから、何故そんなことを知っているのかと尋ねた時の顔。おそらく無意識下であろう、その表情を隠せるほど、まだヒナノは大人ではないようだった。

知りたい?と返せばいいえと言われてしまったから説明はしていないが、ヒナノの頭の中ではどういう解釈になっているだろうと工藤は想像する。

――カウンセラー室から見えるよ?とか。
――中島さんから聞いたことがあってね、とか。
――カウンセラーだから、生徒の情報くらい、ちゃんと把握してるよ、とか。

工藤自身が答えそうなのは、3番目の答えだな、と思った。説得力のない、しかしどこか無視できないような錯覚に陥る回答だ。
しかし真実は、どれも違う。

おそらくこの想像はヒナノの頭の中にはないだろう、と工藤は推測する。おそらく、あったとしても、ヒナノは無意識にその選択を遮断するだろう、と。
それは、工藤がこの学校にカウンセラーとして赴任した理由だからだ。

弥生ヒナノの、誘拐事件。
いや、最初は失踪事件だと思われていたのだったか。仲のよい級友を待っていた少女が、忽然と消えた事件。そんな事件は、今や不本意ながら知り合いとなってしまった四ツ谷という変人によって解決へとたどり着いたようだったが、事件は解決してもなかったことにはならない。この事件で泡を食ったのは学校の上の人間と、教育委員会だ。
被害者も生徒、加害者も生徒。幸か不幸か、親から激しい苦情が来ることはなかったらしいが、それでも何らかの対策を立てなければいけないことは明白だった。もともと立ち入り禁止だった旧校舎は教員の見回りが入るようになり、生徒たちの心のケアと称して、カウンセラーである工藤が呼ばれたのだ。工藤がそのあたりの事情を知っているのも、当然である。

だから、と工藤はヒナノを見下ろして思う。待ち合わせ場所が昇降口前になったのは当然、あの事件を意識してのことだろうが、工藤が最初、角を曲がって現れた瞬間、ヒナノがひどく警戒した表情をしていたことや、工藤と話している今もずっと、壁を背後にしてぴったりとくっついていること、それは恐らく無意識の範疇だ。それもこれも、弥生ヒナノという人間が、誘拐されたということに対してのトラウマをまだ持っていることを意味していた。それに気づかない、気づこうとしないヒナノを、工藤は無垢で哀れだと思う。

加害者の生徒にも会ったことがある。写真を見たこともある。どこか、工藤と似た狂気を持っている目だ。狂気を、上手くコントロールできないところがまだ子供だったが、四ツ谷を知った時と同じような、ある種の同類の匂いを、工藤はそこに嗅ぎとっていた。残念ながら、彼に対して、面白い、と思うほど興味は持てなかったのだが。

ヒナノが工藤を嫌悪する理由は、もちろんそれだけではないのを重々承知しているが、原因の一端がそこにあると工藤は睨んでいる。きっと、ヒナノは思い出すのだ。どこか、自分をさらったあの犯人と似ている雰囲気を醸し出す工藤を見ることによって。
人の気配にとりわけ聡いのも、背後を壁にして自分の死角を減らすことも、無意識での防衛本能としてはかなり有効だろう。しかし。

工藤は、すっと一歩、更に足を踏み出した。ヒナノが、びくりとする。
「怖いなら、一人で待ってなきゃいいのにね」
「……なんのことですか」
ヒナノが、工藤を見上げて睨む。

「誰かと一緒にいれば、大丈夫でしょう?」
「話の意図が読めないんですけど」
「本当に?」

工藤がそう食い下がると、ヒナノは押し黙った。まだ中学生とは言え、かなり聡明な部類に入る子供であることを、工藤は知っている。だから、余計に誰も気づかないのだ。彼女の葛藤に。無意識下の怯えに。ヒナノは、工藤との世界を遮断したいかのように、軽く俯いた。工藤は軽く、口端を上げた。

「……」
ヒナノが顔を上げ、口を開こうとした、その時だ。

「あっ、ヒナノごめんまた待たせちゃって……て、工藤、先生?」
「ああ、中島さん」
ぱたぱたと軽い足音を鳴らしながら、ヒナノの待ち人はいつもと同じ明るさで、姿を表した。ヒナノははっと言いかけた口を閉じ、真に微笑んだ。その瞬間、緊張が弛んで安心した顔を、工藤は見逃さなかった。

「ヒナノと工藤先生って、珍しい組み合わせっすね!」
「丁度、僕も帰るところを通りかかってね」

ふーん、と言う真は、本当に、「珍しい組み合わせだな」程度にしか思っていないのだと分かる。ヒナノは、軽く工藤に会釈して、するりと真の隣に落ち着いた。
残念、と工藤は思う。あともう少しだったかもしれないのにね、と。

「弥生さん」
さようなら、と去りかける背中たちに声をかけると、少女の一方が振り向いた。

「カウンセラー室で良かったら、いつでもおいで」
にっこりと、笑みを浮かべる。その笑みだけで、ヒナノはすぐに察したようだった。
「良ければ、だけどね。自覚しなきゃ、進まない」

それは、半分本心で、半分は計算づくの言葉だ。
信じていいのか分からないらしい少女は少し迷ったそぶりを見せて、結局何も答えずに、ぺこりとお辞儀をしただけだった。一人、蚊帳の外だろう真に、さっそくせっつかれている。まぁ、上手くかわすだろうな、と工藤はそれを見て思う。

小さくなる影たちを見送り、さて、随分と時間を食ってしまったと工藤は時計を見て、一人呟いた。
西日が少しずつ力を失くし、代わりに街灯がちらほらと人工的な明かりをつける。
夕暮れの気配が、消えようとしていた。








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