ジェンガ


最近、毎晩のように夢を見る。
溺れる夢、を。

夢の中の私の周りは、見渡す限りが水ばかりで、酷く苦しい。
肺にごぼごぼと水が侵略してくるのがリアルに感じられ、ああ、私これから溺れるんだ、とどこか他人事のように思う。
太陽は酷く遠く、私はいつも、一度だけ、上を見る。恋しいのか、諦めなのか、よく分からない。
そうして見上げた光は、水面をきらきらと照らしていた。白く、まばゆい光だった。
それから徐々に、スローモーションビデオの一環のように、空気を無くし、浮力を失っていく私の体が、光とは反対の方向へゆっくりと引きずられる。私は、もう戻れないのだ。
痛いほどの光が、少しずつ薄れていく。薄い青に包まれる。落ちていく。
青が色を増す。落ちていく。
周りが、黒く、黒く、染められる。
深い海には黒が似合うからだ。太陽の光が届かない、深い深い世界。
視界は極端に狭くなり、私の体の境界線が曖昧に溶けていく。手足の先から、私と言う肉体が消えていく。
それは文字通り、体がなくなったことに等しかった。それは、最早必要がないものなのだ。
あれほど苦しかった呼吸も、二度と戻れない太陽の下の世界も、全てが取るに足らない些細なことで、くだらないことに思えた。
一個の意思となった私は、くるりと、ないはずの体を回転させ、深みを覗く。終焉は未だ、現れない。
そうして、私は潜っていくのだ。強固で、決して折れない意思とともに。






午前の授業の終了のチャイムが鳴り響く。このチャイムは時計内蔵型の電子音であるにも関わらず、不思議と錆びついた古い鐘を彷彿とさせるような響きをする。私はいつも、それが少しだけ気になる。
「よっ……と」
勉強道具を机の中にしまい込み、替わりに鞄を机の上に乗せる。ここの中学は、昼は弁当だ。
包みは、シンプルな水玉模様だが、色合いが気に入って買ってもらったものである。長年愛用してきた愛着のあるそれを見るのが、最近は少し苦痛だ。けれど見るたびにぐっと腹の中に重いものが溜まるような感覚がするのは、このハンカチのせいではない。

顔を上げると、ヒナノが、こちらを窺うように見ていた。
どうする?と言いたげな視線を受けて、私は小さく、指を上に立てた。屋上に行く、の合図だ。ヒナノは分かったと一つ、にっこり微笑むと、すぐさま身を翻して別の友人のところに混ざりに行った。そういうところをそつなくこなせるヒナノのことを、私は結構尊敬している。
それに比べて、と私は隠しきれなかったため息を一つついた。

すでにこの瞬間から、ヒナノの誘いを断ったことを私は後悔し始めているというのに。

途中の自販機で最早習慣と言っていいくらいの頻度である、四ツ谷所望の飲むおしるこを買い、屋上を上がる私の足取りは重い。何故性懲りもなくここに足を運んでいるんだろうと言う自問。答えの出ない問い。
行ったところで、また気まずい思いをするだけだろうに、と、流石の私でも分かっているのだ。
それでも行かないと、もっと気分が重くなる、それは最大のジレンマだった。



「こんにちはー……」
勢いよく屋上の扉を開けていた頃が今は遠い。最近の私は、辺りを窺うというよりも、むしろ四ツ谷に会いたくないというだけで、酷く控え目な挨拶をするようになっていた。
覗いた屋上の先には、黒いソファとそれに座っているらしい四ツ谷の後頭部が見える。おう、なんか怪談持ってきたか、という言葉は、今は形式上の挨拶代りにしかなっていない。
「そんなにあるわけないですよ。はい、これ」
私は薄く笑いを浮かべて、買ってきたおしるこを手渡す。買ってから間もない、あったかいそれを、四ツ谷は一見無造作に取って、缶のプルタブを開けた。

ああ、今日もやっぱりね、と私はそれを見ながら、思う。
最近の四ツ谷は変だ。いや、四ツ谷だけでなく、私自身も。
お互いの距離が遠すぎる。よそよそしすぎる、と言ってもいい。最初に会った頃だって、こんな距離はなかった、と私は思った。
いつからだろう、と私は重さを増した胃の辺りを考えないようにしつつ、思う。
こんなに距離が出来てしまったのは。まるでお互いがガラスの向こう側にいるような状態になってしまったのは。そして、それに少なからず傷ついている自分を自覚したのは。
おしるこを取る四ツ谷の手は、何気なさそうに見えて、その実、私に触れないようにと細心の注意を払っていることを、私は知っている。私との物理的な距離をできるだけ縮めないようにしていることも知っている。屋上に私が顔を出した時、一瞬だけ無表情になることを知っている。
そして、私は、それに釈然としない自分の感情の原因が、分からない。

うそ、とどこかで、意地悪な私が囁いた。
本当は知っているくせに。
見込みがないから知らないふりをしているだけのくせに。
屋上に行きたいんでしょ?彼に会いたいんでしょ?迷惑そうにされてるのに、それに傷ついても、また会いにいくんでしょ?
臆病なのはアンタじゃない!

嘲るような笑いの中、私は、ぎり、と唇を噛みしめた。違う!と場所もわきまえずに大声をあげてしまいたくなるのを、必死で抑える。
リップクリームを塗っていなかった唇はかさついていて、冬の始まりを告げるような風の中で、切れたのが分かった。血の味が、する。

その激情をやり過ごし、そっと息を吐きつつ四ツ谷を見ると、四ツ谷は黙々とあんぱんとおしるこという、相変わらず餡だらけの昼食を取っていた。
すり寄ってきたクマキチを撫でてやる。我ながら、力のない手だ。埒も明かないことを考えるのはやめだと思考を無理やりに振り払い、私も弁当を食べようと、地面にぺたりと行儀悪く座りこんだ。
そうして、包みに手を掛けた時である。水玉模様が、私の見ている前で一つ、増えたのは。

「……あめ、」
四ツ谷も私も、そろって空を見上げた。最近は随分とぎくしゃくしていたのに、こんなところばかり一緒になるのが、どこかおかしい気がした。
ぽつり、ぽつり、と、私たちの見上げた空から水滴が降ってきていた。そういえば、昼過ぎから雨の予報だったかもしれないと、朝見た天気予報を私は思い出していた。どうせ大丈夫だろうと高をくくって、傘は持ってきていなかったことも。帰りに降っていたら、どうしよう。ヒナノに頼んでみようか。

「何ぼーっとしてんだ」
その声にはっと振り向くと、思ったよりずっと近くに四ツ谷の顔があった。思わず、びくりとしてしまう。こんな距離感は、久しぶりすぎた。
「あ、え?」
雨は、にわか雨などというかわいいものではなく、本格的に降り出してきたようだった。弁当の包みと言わず、屋上全体に、水玉が増えていく。私は、慌てて弁当を手に持った。
四ツ谷が私の手を引く。
二人で避難した屋内は、ひんやりと肌寒かった。





何を考えているのか、強くなる雨足にも頓着せず、空を見上げている中島の手を引いて、屋内に戻った。
扉を閉めれば、小窓があるだけの狭い踊り場に、二人きりになる。扉一枚隔てた先で降っている雨音に、閉じ込められているような感覚に陥る。
隣には、相変わらず自分とほぼ変わらない体温を持った少女がいる。それが、とても違和感があった。
こんな距離は、久しくなかったのに、と俺は思う。
いや、正確には、久しくこんな距離をとらなかった、というべきか。
中島との距離が、おかしくなったのは、いつからだっただろうか。
今まで躊躇なく触れられていたその対象から、だんだんと、一歩引いた姿勢をとるようになった自分を少し前に自覚したことを、よく覚えている。
それは認めたくないが……恐らく、恐怖、と、呼ばれるものの類に属する感情だと、俺は思う。
あの近しい距離感を持つのが、酷く怖い。そうはっきりと自覚した時に、愕然とした。
あの無邪気な態度が、恐ろしい。頼むから近寄ってくれるな、とさえ思う。可笑しな話だ、最初に助手として、強制的に雇ったのは俺自身だというのに。

一体何故だろうと、考えたことがある。今まで、両の手に余る回数の程度ほどには。
それでも、答えは、未だ出ていない。出したくないのかもしれない。
しかし、と俺は同時に気づいていた。俺は、人間は、これに限りなく近い感情の名を、知っているはずだった。
認めたくないだけで。

思考に疲れて中島を見下ろすと、思いがけずばっちりと目があった。一瞬で逸らされる。それに対して何かしらの感想を持つ暇もなく、小さく、手、と呟かれた。
ああ、そういえば手を離すのを忘れていた、と俺は気づいた。我ながら、不注意としか言いようがない。
そっと、外してやると、ほとんど力の入っていなかった中島の手は、すぐに離れていった。
そのまま、階段に腰を下ろす。中島も何故か、それに倣った。
「そ……外、濡れて困るものとか、ないんですか?」
中島が、つっかえながら、口を開いた。どうやら、屋上に残してきた数々の備品のことらしい。俺は肩をすくめた。
「まぁ、段ボール箱以外は大丈夫だな」
悪いが、突然雨が降り出すという状況くらい、何度も経験してきているのだ。最早手慣れたもので、特に心配事はなかった。
そう、俺が口に出すと、中島は納得したように、そうですか、と言った。
それっきり、会話が途切れる。俺は、頬杖をつき、中島は、あらぬところをじっと見ている。
雨音が、相変わらず世界を遮っている。



最初、何かの間違いかと思った。
頬杖をついていない方の手が、少しばかり冷たいものに触れていた。それは固い無機物などではなく、柔らかくそして温かな、血の通ったものだと俺は視線をやる前から分かっていた。ほんの少しだけ触るような、まるで臆病な触れかたは、この手の本人によく似ていた。さっき手を引いた時のほうが、よほどしっかり触れ合っていたのに、今更。

頬杖のままに首を傾けて、中島の方を見ると、ぎゅっともう一方の手を弁当の結び目にやって、こちらは色が白くなるくらいに握りしめていた。まるで小動物だ、本当に。
「中島」
出た声に、自分でも驚いた。今までとの違いにだ。
中島は、ゆっくりと顔を上げた。

まだ本当に少女だ、と俺は思う。
華奢な肩、短いスカートから伸びた細いばかりの足、それに幼い表情。この寒い中だからだろうか、切れた口端に、赤い筋が走っていた。まるで当然のように、す、と唇を寄せる。
ぺろりと、傷の部分を舐めると、中島が、声にならない声を上げたのが分かった。顔を見ると、怯えと、疑問と、それから、ある種の、期待が入り混じっている目をしていた。
俺は俺で、あまりのあっけなさに、笑いさえ出てきそうだった。
「切れてる、ココ」
軽く、その部分を触る。中島は、あ、と声を漏らした。さっと顔を逸らせると、勢いよく立ち上がる。
ああ、逃げる気か、と俺は思った。今なら、こいつの考えていることくらい、手に取るように分かる。
だから、去りかける背中に声をかけた。
「おい」
中島が、びくりとする。
「明日も、屋上来いよ」
中島が、足を止めた。顔を、こちらへ向ける。頬が、まだ少し、赤みがかっていた。窺うような視線を、俺は真っすぐ見返した。
「……おしるこ持って?」
「当然」
「雨でも?」
「雨でも」
中島が、こちらに向き直った。八段だ。八段の差を、中島は見上げ、俺は見下ろしていた。
それから中島は、びしっと一つ、敬礼をして、はいっ!と元気よく返事をした。
それはもう、とびっきりの笑みを添えて。






今日も、夢を見た。

私の周りは見渡す限りが水ばかりで、酷く苦しい。
肺にごぼごぼと水が侵略してくるのがリアルに感じられ、ああ、私これから溺れるんだ、とどこか他人事のように思う。
太陽は酷く遠く、私はいつも、一度だけ、上を見る。その理由が、恋しいからなのか、諦めなのか、それとも他の何かなのか、よく分からない。
そうして見上げた光は、水面をきらきらと照らしていた。白く、まばゆい光だった。
それから徐々に、スローモーションビデオの一環のように、空気を無くし、浮力を失っていく私の体が、光とは反対の方向へゆっくりと引きずられる。私は、もう戻れないのだ。
痛いほどの光が、少しずつ薄れていく。薄い青に包まれる。落ちていく。青が色を増す。落ちていく。周りが、黒く、黒く、染められる。
深い海には黒が似合うからだ。太陽の光が届かない、深い深い世界。
視界は極端に狭くなり、私の体の境界線が曖昧に溶けていく。手足の先から、私と言う肉体が消えていく。
それは文字通り、体がなくなったことに等しかった。最早必要がないものなのだ。
あれほど苦しかった呼吸も、二度と戻れない太陽の下の世界も、全てが取るに足らない些細なことで、くだらないことに思えた。
一個の意思となった私は、くるりと、ないはずの体を回転させ、深みを覗く。終焉は未だ、現れない。

深く深く、落ちていく。潜っていく。



ふと、懐かしい声が聞こえた気がした。それは私のなくなったはずの鼓膜を揺らし、震わせた。
よく、知っている声のようだった。柔らかく、しかししっかりと、心の奥底を掴む声。
私は、初めて声を上げた。
「誰?」
私の問いかけに、ぼんやりと、闇一色だった先が、ゆらゆらと揺れ始めた。それは次第に明確な線を持ち、人の形を取る。
「遅くなってしまいました」
つり気味の少しきつい目。黒い髪は、しかし後ろの闇には何故か溶けない。にっと薄い唇を笑みの形にした、細身の男が、立っていた。正確には、浮いているのだけれど。
男は、優雅に一つ、礼をした。細い指先が、しなやかに動いた。一つ一つが芝居がかっているそれは、けれども私の意識を逸らすことを許さなかった。
「随分と、深くまで来られていたもので」
男は、上を見上げた。私も、つられてそちらを見る。光など、ちらりとも見えない。全てが闇だった。
「まぁ、こちらにも責がありますが」
男はそう言って、私に向き直る。私の体も、いつの間にか取り戻されていることに、私は今更ながらに気づく。真っ黒に塗りつぶされた世界の中、私と男だけが確かな個を持っていた。
「私、あなたを知っている、よね?」
それは、質問というよりむしろ、確認に近い問いだった。男は、笑って答えなかった。
「お手を、拝借願えますか?」
男が、手を差し出した。相変わらず芝居がかっている。その瞬間、私は、全てを理解した。天啓とでも呼ぶのが相応しいくらいに。
「はい」
つんと澄まし気味に顎を上げて、そう一つ返事をする。気どったお嬢様の演技をこなす、女優のように。
スポットライトの当たらない深い海の中、私はそっと、男のてのひらに自分の小さな手を、重ねた。








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