耽溺
私が家庭科室を出たのは、もう5時も半分を回ろうかという時間だった。
決して新しいとは言えない備品の数々ではあるが、それなりのスペースに加えミシン、アイロンなどの基本的な道具がそろっている家庭科室は、自分の狭いワンルームの部屋を考えると古さを考慮してもいささか贅沢と言って差し支えない場所である。ついつい長居をしてしまうのも、そのせいだ。
チェック柄のYシャツに裾に工夫を凝らしたズボン、個人的に作りたいものは色々あるが出費と時間が追いついていないのが正直なところで、近頃はもっぱらそっちの方面に頭を悩ませている。
新しい布地をどこで調達しようかといくつか心当たりの店をリストアップしたところで、見かけぬ人物が廊下に立っていることに私は漸く気付いた。
最近はかなり日が長くなったとはいえ、まだこの時間は夕暮れと夜の狭間のような微妙な色合いを見せる時だ。夕方に相応しい色のオレンジは少しずつ影を潜め、群青を含んだ最後の光が淡く差し込むその廊下に、男は一人で立っていた。
「失礼ですが、どちら様ですか?」
不審者。そんな単語が頭に浮かび、声に自然と警戒心が表れる。男はこちらを向いて、慌てた風もなく、ああ、と言った。
「今度こちらの学校に赴任することになりました、カウンセラーの者です。赴任の前にあらかじめ雰囲気を知っておきたいと頼みましたら許可が頂けましたので、少し」
男の言葉の内容は、確かに私の記憶の琴線に触れるものがあった。あれは、半月ほど前だっただろうか、正式にここに赴任するカウンセラーが決まった職員会議は。申し訳ないがあまり興味関心を持てず、半分以上聞き流していたことも思い出した。言われてみれば、赴任式は来週の月曜だった筈である。
自分の早とちりに、少しばつが悪い。
「あ……そうとは知らずに失礼しました」
「いえ、先生として当然だと思いますよ」
申し訳ない、と謝罪した私に、男は気分を害した風もなくにっこりと笑った。器用に口角が上がり、そこで初めて、男がなかなか整った顔立ちをしていることに気づく。これは、と私は思った。カウンセリングと銘打って女子学生が押し寄せる気がするな、と。
「ところで、ここに展示されている作品は全て先生の作なんですか?」
男は先程まで見ていたらしい、廊下の壁に埋め込まれているケースを指差した。裁縫の基本として参考にされるようなシンプルなブラウスなどをはじめ、数点の服が展示されているケースだ。
「ええ、まぁ、いくつかは。……その服は、私が作ったものですね」
男が立っているのは、つい最近出来た子供用のワンピースの前だった。私の自慢の作でもある。男はそれを見て感嘆の声を上げた。
「すごいですね。僕なんてボタンつけも碌に出来ないレベルですよ」
「得手不得手は人それぞれでしょうから」
ありきたりな答えを私は返した。
素直な称賛の声に、若干照れくさかったための返事だった。
男は、自分にないものを羨むのは万人の本能ですよ、とカウンセラーらしいのからしくないのか、よく分からないことを言う。
「けれど、残念ですね。これほどのものがただ展示されているだけなんて」
展示用の素っ気ないトルソーにかかっているそのワンピースを、男はそう評した。それが、先ほどの称賛と合わせ、少なからず私の自尊心を擽ったのは確かだった。
同時に、それは私のある持論にも見事に合致していたので、余計に。
人は誰でも理解者を必要としているのだ。
私は、知らず、口を開いた。
「私もね、せっかく作ったからには着て欲しいですよ」
「でしょう?」
男は我が意を得たりとばかりに頷いた。
「服はそれだけではただの布の集合体です。着る人間が現れて、初めて服は服として存在できるんです」
私の持論を、男は黙って聞いていた。少なからず、熱くなっている自分に気づく。
ただしかし、そのくらい、私にとってこのワンピースは愛着のあるものだったし、譲れない一品だった。それゆえの行動だった。
言い切ったところで、そう言えば目の前の男はカウンセラーだったな、と思いだす。こう易々と人の話を引き出せるのは、やはりプロだからなのかも知れないとちらりと思った。
そこで、初めて男が口を挟んだ。軽く、首を傾げる。
「そのお気持ち、よく分かりますよ。……ただ、そこまではっきりした考えをお持ちなのに、どうしてこんな所に展示を?恐らく自信作とお見受けしますが」
男の疑問はもっともだった。腑に落ちないという表情をする男に、私は苦笑した。
「いいモデルがいないんですよ。この子なら!というような子がね。完璧な子はいないんです。皆どこかしら欠点がある。でもね、妥協はしたくない」
「なるほど、確かに完璧は難しい」
それは、明白な答えだった。
男は納得したように繰り返した。完璧。
でも、と男はしかし、言葉を続ける。それは本当に、今思いついたかのように。
「完璧はいない。それには賛成です。……でも、部分的な完璧は?それならどうでしょう」
「部分的?」
意図をうまく汲み取れなかった私はオウム返しに呟いた。
そう、部分的、ですよ、と男は囁く。
それは、するすると当然のように耳から脳へと伝達され、私の記憶の澱に沈んでいった。
「例えば、右腕だけ」
つうっと、男がケースの上から人間が着たならばそこに存在するであろう右腕の部分をなぞった。細い指だった。それは男とはまるで別の意思を持った生き物のように見えた。
「右腕という、『部分』のみを見たのであれば、完璧な子を探すのはそこまで難しくないと思いませんか?」
「……部分、」
ええ、と男は妖しく笑った。男の声が、表情が、仕草が、私を侵食していく。
「あなたがこのワンピースを作った時、様々な布地を切って縫い合わせたでしょう?あなたなりのコーディネート、こだわりを持って。……同じですよ。全体ではなく、部分として見ればいい」
それは、とても新鮮な考え方に見えた。ぱっと、目の前が開けたような気がした。
部分。全体ではなく、部分ごとに最も良い場所を選ぶ。
それはいつも私がやっていることで、至極当たり前のことだった。それを聞いた今となっては、何故思いつかなかったのだろうというくらい、当然のことに思えた。
私は、その思いつきに虜になる自分を自覚した。まるで小さな子供に与えられた新しい玩具のように。
「まぁ、それでもあなたを満足させられる子がいるかどうかは僕のような門外漢には図りかねますが、一つの意見として参考になれば、ね」
呆然と、今言われた言葉を整理している私を横目に、男は静かに、ケースから指を外した。外はとっぷりと日が沈み、電気のついていない廊下は薄暗かった。男は周りを見渡し、今気づいたかのように、もうだいぶ暗くなりましたね、と言った。そして軽く、私に頭を下げた。
「では、僕はそろそろ退散します。一応まだ部外者ですしね。……では」
立ち尽くしていた私の前で、こつり、こつりと、男の履いているらしい革靴の音が、他に物音のしない廊下に大きく響いた。あまりにも、非現実的な音だった。
赴任式で、もう一度その男の姿を見た時、私は酷く意外に思ったものだ。
あの日の出来事は薄ぼんやりとした皮に守られているように曖昧で、あの男が実は狐狸妖怪の類で、私は化かされていたとでも言われる方がどうにも現実味があった気がした。
しかし現実としてあの日の男はあの日の言葉通り、この学校にカウンセラーとして赴任してきて、今壇上で挨拶をしている。早くも、ませた女生徒たちは、集会中にも関わらずこそこそと内緒話をしているようだった。
――部分的。
壇上の男を見ながら、あの日言われた言葉を、私は無意識のうちに繰り返していた。
赴任の挨拶が終わったらしい男が、階段を降りてくる。私と目があった瞬間、にこりと会釈された。それは、あの男自身も私のことを認識しているという証拠に他ならなかった。
「こんにちは。ワンピースのモデル、どうですか?」
男は私の隣に立つと、小声で話しかけた。やはり、その話題だった。
「……あなたには、とてもいいアドバイスを頂いたと思っています」
「そうですか。それは良かったです」
男はあの日と同じように口角を上げ、笑った。私も知らず知らずのうちに、笑っていた。
私が、最初の少女を手にかける、2日前のことであった。
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