予定調和は瓦解する


町は雨に沈んでいた。
空には重い雲が低く立ちこめ、上への視界を大きく遮っていた。それが、どことなく息苦しい。たまにいきかう人々も、酷く距離が遠く、まるで世界が断絶されたかのような錯覚に陥った。

押し寄せる圧迫感を振り払うように傘の下からちろりと前を覗きこんでみた。
前に見えたのは、ずぶ濡れの制服姿の少女だ。
こんなところで、と四ツ谷は舌打ちした。何をしているのか。

その少女はどこかで雨宿りをするでもなく、足早にその場を立ち去るでもなく、ただただ秋の肌寒くなり始めた雨を一身に受けて立ち尽くしていた。一丁前に悲劇のヒロイン気どりか、と嫌みが少しばかり頭をもたげた。

「何してる」

仕方なく声をかけた。四ツ谷から中島までの道は他に枝分かれなどなく、見ないふりをすることも出来なかったし、そのまま引き返すのは躊躇われたからだ。中島は、雨で貼りついた髪もそのままに、振り向いた。

「先輩、帰りですか」

「傘はどうした」

質問には答えず、更に問いを返した。
この雨は朝から降り続いていた。傘を持っていないはずはない。中島はいけしゃあしゃあと、忘れました、と言った。

「馬鹿だな」

「先輩から見ればそうでしょう」

中島の髪から落ちた雫が次々と顔を伝う。制服も鞄も、もう中まで濡れてしまっているに違いない。明日も平日だ。半日程度では到底乾かないだろうに。
後先を考えないやつだ、つくづく。

「風邪引くぞ」

「いっそインフルエンザにでも罹りたい気分です」

手を、上げなかったのは四ツ谷の最後の理性によるものだ。真剣な顔をして救いようのない馬鹿なことを言う中島に対してはったおす代わりに、四ツ谷は中島の手を強引に取った。

触れたところは濡れた制服がべったりと貼りついて不快な感触がする。その下にあるはずの腕は、酷く冷たかった。

「来い」

手を繋ぐなどという優しいものではなく、半ば引きずるようにして二の腕を掴んだ四ツ谷は中島を歩かせた。周りに人がいないのが救いだった。間の抜けた人さらいにも程がある。
中島は一瞬だけ、抵抗するそぶりを見せた。
それは許さない、と無言で一つ睨んでやる。四ツ谷と目を合わせた中島は、ふっと目を逸らした。




中島の家まで連れて行ってやる、という考えが自宅に辿り着くまでこれっぽっちも思い浮かばなかったのは、四ツ谷自身少なからず頭に血が昇っていたからだ。
からりと玄関の引き戸を開けてから、その選択肢に気付いたが既に手遅れで、四ツ谷はまた力ない抵抗をした中島を連れてきた時と同じく黙らせると、家にあげた。

「どこ、行くんですか」

点々と、通った後に目印の如く雫を零しながら、廊下の途中で、中島がそう声を発した。四ツ谷が中島の腕を掴んでから、初めての会話だった。四ツ谷はちらりと半歩後ろにいる中島を見た。中島は黙って四ツ谷を見返した。

四ツ谷はその問いに答えずに、左手の引き戸を引いた。半ば突き飛ばすようにして、中島を中に押し込む。そうして鞄ももぎ取った。手にした濡れた鞄も制服と同様、不快だったが仕方がなかった。四ツ谷はたたらを踏んだ中島に言い放った。

「その濡れねずみ状態をまずなんとかしろ。まともになったら鞄取りに来い」

掲げた鞄は今だにぽたりぽたりと水滴を落とし、板張りの床にしみを作り始めていた。これは早く拭いておかないと後々面倒になるだろう。玄関からここまでの道のりも同様だ。
面倒臭い、と思った。濡れた廊下の後始末も、中島をここまで連れてきた自分自身も。

中島が口を開きかけた。しかしそこから言葉が零れる前に、四ツ谷はぴしゃりと扉を閉めた。苦いものが胸を去来する。とにかく不愉快だった。




ざっと事情を説明し、風呂場に突っ込んだ中島の服やら何やらはあかねさんに頼むことにした。あかねさんは含みのある笑みを浮かべたが、何も聞かずに申し出を受け入れた。
タオルを数枚取り、さっさと自室に引き上げる。濡れた鞄は今だ、四ツ谷の手の中だ。

濡れると板張りより数倍厄介な畳の自室のために、染みない程度にタオルを敷くとその上に鞄をどさりと置いた。本来なら外と同様、かなり湿っているだろう中身を全部出してしまった方がいいのだろうが、そこまでするのは可哀想だろうと、やめた。ファスナーを開けるに留めておく。まぁ、この程度では気休めにもならないだろうが。

自らもいつもの着物に着替えて、しかし手慣れた着替えなどそうそう時間がかかるわけもなく、手持無沙汰だったので部屋の隅に積んである本を取った。
昨日の夜、途中で寝てしまったため読みかけで放りだしていた本だ。朝になり、読書灯が点きっぱなしになっているのに気付くことは、しばしばある。そして大体その次の日には、何があろうとその本を読みきってしまうのも、最早習慣と言っていい。

しかし今日に限って、文が全く頭に入ってこない。文字を追おうとしても文章は遅々として進まず、結局半頁も進まぬうちに、閉じた襖の向こうから控え目な拳の音が聞こえた。

「はい」

人物など見なくても分かっているので、四ツ谷は向こうに声をかけた。襖が、遠慮がちに開かれる。出来た隙間から、中島の指先が見えた。

「とっとと入って来い」

今更迷ったところで仕方がない、そんなことは向こうも百も承知しているだろうがそれでも躊躇う中島にまた黒い感情が頭をもたげる。ああ、腹立たしい。

多少の苛立ちを込めて促した四ツ谷の言葉に、とうとう襖が開け放たれた。

現れた中島は着物姿だ。まぁ、この家で中島の背丈に合うようなものなど着物しかないからだろうが。髪の色にあかねさんが合わせたのか、淡い桃色の着物だ。その襟元が、拭ききれなかった髪から落ちたらしい水滴で少しばかり色を増していた。

「着物、ありがとうございます」

「あかねさんに言っとけ」

礼を述べた中島に、四ツ谷は素っ気なく言った。中島はどこか委縮しているように見え、それが単によその家だからなのか、それとも四ツ谷のせいなのか、珍しく四ツ谷は図りかねた。

面倒事は嫌いなのだ。それが怪談に繋がっていない限り。
四ツ谷が中島を助手につけたのも、そんな意図があってのことだった。

馬鹿と素直は紙一重で、四ツ谷はその素直さとひた向きさを買った。素直だから思ったことはすぐ言うし、喜怒哀楽がはっきりと分かる。腹の探り合いなど必要がない。それでいて人が良いから、結局流される。

四ツ谷にとって中島は居心地のいい相手だったし、理想の助手だった。それにかまけていて、中島のことを思いやらなかったツケが、今、回ってきたのかもしれなかった。

「鞄はそこにある。まだずぶ濡れだろうが……中身出してとっとと乾かせよ」

とりあえず、と四ツ谷はタオルの上に置かれた鞄を指差した。中島はその先をじっと見ると、つかつかと鞄に歩み寄る。そして、それを手に取ると勢いよく頭を下げた。

「色々ご迷惑をおかけしました。私、帰ります」

言うなり、くるりと中島は背を向けた。その態度に、かろうじて冷静さを保っていた頭の中で、ぶちりと音がするのが聞こえた気がした。
ふざけるな、と持っていた本を衝動に任せ投げつけなかったのを自分でも偉いと思った。

「待て」

行動に移さなかった分、出た声は予想以上に怒気をはらんでいた。四ツ谷も大概自分勝手な自覚はあるが、中島も似たようなものだ。馬鹿にしてんのか、黙って帰す訳がなかろうと四ツ谷は心の中で呟く。

中島は、部屋から半身を出した状態で顔だけ振り返っていた。自分の表情など逐一分かるはずもないが、きっと今はさぞかし凶悪な目つきをしているだろうと思う。

四ツ谷は、人差し指で、とんとん、と目の前の畳を叩いた。

「話がある。来い」

「嫌です」

「中島」

「先輩って自分勝手」

自分勝手?ああ、自覚はあるさ、と四ツ谷は思う。ただそれはお前だって同じだ。
気持ちに余裕がなくなれば、すぐに相手のことなど考えられなくなるくせに。

「……まこと」

呼び方を変えると、びくりと、中島は目に見えて分かるほどに肩を跳ねさせた。姓とは違い、個人を特定する呼び名だ。

名前で呼んだのは、最初にフルネームを聞いて以来、始めてかもしれないと四ツ谷は思った。以前、突っかかられたことがあったのを思い出す。どうしてヒナノはヒナノちゃん、て呼ぶんですか、と。

それっきり動かない中島のせいで、まこと、という三文字の余韻がこの部屋を支配した。
甘くもなんともない、ただの響き。

それがどんどん薄れていき、消えてからたっぷり十秒は経ったと思われた時、中島が足を動かした。諦めたように、部屋の中に戻る。鞄を先程の場所に戻し、四ツ谷の前に突っ立った。

「座れ。話しにくいから」

もう一度、畳を叩く。中島はすとんと腰をおろして正座した。四ツ谷は、全く進まなかった本を山に戻して、中島に向き直った。

「なんであんなところで傘も差さずにいた」

言ってみてから、この聞き方ではまた黙るだろうか、と思う。しかし予想に反して、中島は素直に口を開いた。

「考えてたんです。なんで私、こんな人が好きなんだろうって」

笑ってしまうくらい陳腐な台詞だった。まるで、十代の少女たちが憧れる恋愛物語の主人公が言いそうな台詞だった。はっきり言って、理解できない分野だった。

そんな風に中島を捉えると同時に、少し羨ましくも思う。
中学生というのは、まだこういうことを真剣に考えられる時期なのだ。捩くれたずるい大人たちとは違って。
四ツ谷が答えに窮していると、中島が顔を上げた。幼い目は、どこか必死さを湛えている。

「先輩、すきです」

「気の迷いだ」

次の瞬間、ぱあん、と乾いた音が響いた。四ツ谷は最初、何が起こったのか分からなかった。
その後、じわじわと熱を増してくる頬の痛みに、はたかれたのだと気づく。

それについて、いい度胸じゃないか、とも、後で覚えていろ、とも思わず、ただただ驚いた。
見下ろした中島は、いつもの気の強い目を取り戻している。さっきまでの態度より、余程ましだと、場違いなことを考えた。
四ツ谷の見ている前で、震える唇が、開く。

「私だって、こんなの何かの間違いだって思いたい!もっと優しい人を好きになりたい!なんで先輩なんだろうって、私が悩まなかったとでも思ってるんですか!?全然見込みのない相手を好きになって、それでもやめられなくて、やめたくてしょうがないのに、自分のことすら思い通りにならなくて、そういうの先輩分かります!?」

叫ぶようにそうまくしたてたあと、中島は糸が切れた人形のように、ぱたりと俯いた。
のろのろと、また顔を上げる。
そして、馬鹿みたい、と呟いた。こんな人好きになった私、馬鹿みたい、と。

四ツ谷は最後の呟きに同意した。中島は、自分など好きにならずに同学年の男子、例えば青ちゃんと呼んでいた幼馴染や、桜野と言った、もっと中島を気遣ってくれるような相手を好きになるべきだった。

四ツ谷と中島など、合う訳がないのだ。
片や性格の捻くれた怪談以外の一切に興味がない男と、片や恋に恋する年齢と言っても差し支えない幼い中学生の少女。
不釣り合いだ、と思った。

「先輩、このお願いだけ聞いてください」

中島は、疲れたような笑みを浮かべた。

「好きになってください、なんてこと全然望んでませんから、だから、はっきり断ってください。お前なんかただの助手にすぎないよって。お前の替えなんていくらでもいるって」

四ツ谷は、密かに息をのんだ。少女少女だと侮っていた中島の変貌ぶりにだ。
恋とは恐ろしいと、この時初めて思った。中島が、酷く大人びて見えた。
あるいは、と思う。この頃の中学生は、ふとしたことでくるりと全く別の面を覗かせる不安定な年頃なのかもしれなかった。

「じゃないと私、また同じことして、先輩に怒られる気がする。中途半端って、駄目なんです。きっと懲りないから」

確かに、まともに返答をしたことなど、なかった。ずっとのらりくらりとかわし続けていたのだ。理由は一つだった。四ツ谷は、この距離を壊したくなかったのだ。

優しくなど、あるはずがない。四ツ谷は所詮、自分のことしか考えていないし、怪談さえあればいいと思っている。四ツ谷のベクトルは、怪談にしか向いていなかった。
けれど中島は違ったのだ。そういう対象で見られることになると、予想しなかった、出来なかったのは四ツ谷の思惑違いだった。

ならばきちんと引導を渡さなければいけなかった。四ツ谷は中島を選んだ側で、中島は選ばれた側だったからだ。四ツ谷は中島を引きずり込んだ責任を取らなければいけないはずだった。

中島は息をつめて四ツ谷を見つめている。四ツ谷は、少しだけ目を伏せた。

「……俺は、今までお前をそういう対象で見たことはない」

「……はい」

中島はただ静かにこくりと頷いた。
だが、と四ツ谷は続けた。

「お前はその他大勢じゃない。お前は、お前だ」

中島が四ツ谷に向ける思いと同等の物を返せるとは到底思っていない。
ただ、四ツ谷にとっても中島は、ある意味で特別だったのだ。
助手は、替わりがきくかもしれない。例えばオカルト好きの生徒を引っ張りこんでもいい。そうすれば今よりもっと効率よく、物事が進むのかもしれない。
けれども、それはまた別の人間であって、中島の替わりにするものではないのだ。

中島は、くしゃりと顔を歪めた。泣きだす寸前の表情だった。

「ずるい」

四ツ谷は黙って、中島を抱き寄せた。中島の批判に反論するだけのものを持っていないことなど、重々承知していた。
素直に預けられた小さな体は、雨の中で冷え切ったものではなく、ふんわりと温かかった。

未知のものは、恐ろしい。
それは、生物のもっとも原始的な感情の一つで、だからこそ本能に近い。
今、この少女に対する感情も、未知のものだ。それは四ツ谷にとって恐怖となり得る条件を満たしていた。
それゆえに、と四ツ谷は思った。未知のものを既知のものにすることが怖いのだ。恐らく。

しかし一方で、一つの予感もあった。
この限りなく親愛に近い情の名前をはっきりと突き付けられる時が、いつかは来るのだという、むしろ確信だ。
それは、そう遠くない未来のことなのだろう。

四ツ谷はあやすように中島の背中を撫でつつ、目を閉じた。ふわりと、覚えのある匂いが鼻を掠める。
ああ、中島の着物に付いた匂い袋か、と思った。








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