だって空が青いから
「先輩」
私は、むう、と口を尖らせた。屋上の変人は、そんなものどこ吹く風と言った体で優雅にソファに肘をつき、飲むおしるこを片手に読書と決め込んでいる。ぱらり、とページが捲くられた。
「……なんだ」
「不公平だと思いませんか」
「……なにが」
私のその重々しい言葉に、四ツ谷はいかにも面倒臭そうに返事をした。はぁ、というため息まで聞こえてくる始末である。全く嫌になる!ため息をつきたいのはむしろこっちだわ!と言い返したい。
だからその代わりに、私はすぅっと息を吸った。
「だって!私は先輩の為にネタ集めもやりおしるこを買いにいかされるというパシリまがいのことも押し付けられて、あげくの果てには怪談づくりの手伝いですよ!誰がどうみても!私が先輩にこき使われてるようにしか見えないでしょ!」
言葉を重ねるうちにどんどん声は大きくなり、最後の台詞は空に吸い込まれた。見えないでしょ!ああ、今日は空が青い。
隣で日向ぼっこをしていたクマキチはそれにびっくりしたらしく、飛び起きて顔をふるふると振っている。ごめんよクマキチ。
それに比べて、と私は思う。この叫びが一番伝わってほしい相手はこれでも眉一つ動かさない。
流石だ。そのふてぶてしさが。断っておくと、決して褒め言葉ではない。
私がさらなる文句をぶつけようと口を開ける。と、四ツ谷はうーん、と返事ともつかないものを返した。がしがしと後頭部を掻く。
「じゃあさ、お前、何をしてほしいわけ?」
おおう。思いもよらない展開だ。
四ツ谷からの言葉に私は一瞬だけ狂喜乱舞した。一瞬だけ。
そのあと、すぐにぐう、と詰まることになる。
やってほしいこと。そんなもの考えていないのである。
ただこちらばかり労力を割いている気がして、ちょっと腹が立ったから言ってみただけなのだ。だから早い話、四ツ谷が「お前いつも頑張ってんな、これやる、奢りだ」なんてコンビニのバナナ・オレでも差し出してくれたりなんかすれば気の一つや二つ、すぐに収まってしまうのではなかろうか、と、思う。
考えていて、我ながらちょっと、情けない。
「とっ、とにかく。あれですよ、あれ。世の中ギブアンドテイクですから!」
何か私の労力に見合ったものを、という意味を込めたつもりで、私はしどろもどろに主張した。それが果たして伝わったか、どうか。自分で言っていてなんだが、なんとも苦しい答えだ。
それに、ぱらり、とまた本のページをめくろうとしていた四ツ谷の手が、空中でぴたりと止まった。
「ふーん……。ギブアンドテイク、ねぇ」
そう、ギブアンドテイク!とここぞとばかりに私は繰り返す。四ツ谷は空中で止まっていた手を動かして、ページをもう一枚、めくった。少しばかりの、沈黙。
「中島ぁ、ちょっとこっちこい」
それから、ちょいちょい、と手招きされる。何を考えているやら。だが、まさか怪談はないだろう、と私は足を進めた。四ツ谷の隣に立つ。
座っている四ツ谷を、自然見下ろす形になる。
「はい、そのまましゃがめ」
四ツ谷が頭を、ぽん、と押した。私は言われるがままに、足を屈める。ソファから上半身を起こした四ツ谷より、少し低いくらいだ。
「よしよし、上出来」
四ツ谷は、上機嫌な笑みを見せた。
バタン!と屋上の扉がやかましい音を立てて閉まるのも気にせずに、私は階段を一気に駆け下りて、気がつくと昇降口を出たところだった。目の前には誰もいないグラウンドが広がっている。当たり前だ、テスト前だから、部活は停止されている。
こんなときでも鞄を忘れなかったのは、単にずっと手に持っていたからに過ぎない。
思わず見上げた空は、屋上で見たのと同じく、青かった。
はぁ、と私は息をつく。呼吸が乱れているのは、心臓がうるさいのは、3階建ての校舎を一気に上から下まで駆け下りたからだけではない。
上出来、と言い放った四ツ谷は妙に機嫌がよく見え、怒られるのかと内心びくびくしていた私はあれ、と首を傾げた。
その時である。四ツ谷の細く長い指が、私の顎を捕えたのは。
えっ、と私は心の中で声を上げた。状況をよく理解出来ていなかった。私の頭は、考えることを放棄していた。
動かない、動けない私をよそに、四ツ谷が、静かに近づいてくる。私は、条件反射的に、目を閉じた。
それを見て、四ツ谷が少し、笑った気がした。
目を閉じると、それを補おうとする他の器官の感覚が、鋭敏になる。顎を掴まれた指先、微かにかかる吐息。
それから、唇に触れた、かさついた感触。
誤って触れたと考えるにははっきりしすぎていて、しかしそれを客観的な言葉で表すのを脳が拒否していた。
ようやく私が目を開けたのは、唇に触れたものが無くなり、四ツ谷の指が離された後のことだ。
四ツ谷は既に、読書に戻っていた。ページをめくる音に、びくりとする。
「せ、せんぱ……」
「ん?」
私の言葉に、四ツ谷が顔を上げた。いつも通りの表情だった。ぼさぼさの髪に、つり気味の目に、薄い唇。
「なっ……んでもない、です!」
見るんじゃなかった!と思った。
見るんじゃなかった!見るんじゃなかった!私の馬鹿!
頭の中で先程の出来事を再生してしまえば、それはもう私の勘違いではなく厳然たる事実として記憶の中に居座ってしまう。それに気付いたのはもちろんリプレイが終わった後で、居た堪れなくなった私はそのまま、くるりと後ろを振り向いて屋上と四ツ谷から逃げ出した。
一人きりのグラウンドで、私はもう一度、はぁ、と息をついた。
「な、にが、したかったんだろ……」
それは四ツ谷に対しての疑問であり、同時に自分に対しての疑問だ。
もう一度見上げた空は、やはり青く高かった。
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