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 悪いな。と呟いた彼の顔が今も忘れられないでいる。わたしが未練がましいのか何なのか、あれから五年が経っても、眼球に焼き付いて離れない。泣くなと言われたこと、必ず帰ると約束されたこと、何一つ忘れていない。忘れられたならよかった。そうしたら幸せだった。信じて待つには、五年は余りにも長すぎたのだ。
 攘夷戦争が終わった年から数えて二年。わたしは上京してしばらくすると、江戸の小さな甘味屋さんの家に嫁いだ。恋愛結婚だった。彼はいつでも愛を与えてくれて、待ち続けていたわたしにはそれが心地よかった。幸せだと、そう思えた。彼のことはまだ、忘れられずにいるけれど、一人ではいられないわたしは誰かを愛さずにはいられなかったのだ。そういう生き物として、人は創られているらしい。

「ななし、お客様だよ。つぶあんの団子を三本持っていっておくれ」
「はい、わかりました」

 ある日のこと、いつものようにわたしは甘味屋の店番をしていた。あまり大きな店ではないので忙しくはない。わたしは普段から店の奥にある椅子に腰掛けて外を眺め一日を過ごしている。その日の夕飯を考えてみたり、お休みの日の計画を立ててみたり、それでお客さんが来た時だけ表へお団子を運んでいった。
 だから、この日のわたしがあの日のことを思い出して過ごしていたのも普段通りのことと気にもしなかった。だけどもしかしたら、わたしの中の何かが予期していたのかもしれない。彼に会う確率は、必ずしもゼロではなかった。

「お待たせいたしました」
「おう。悪いな」
「……」
「ん、どうした」
「……いえ。何でもありません」
「そうか。勘定はいくらだい」
「え、と。三本で二百十円になります」
「二百十円ね。……ほい」
「ありがとうございます。では、失礼します」

 心臓が跳ねる音を聞いた。銀髪を見た瞬間、もしかしたらとは思ったのだ。銀髪の男なんて、滅多にいるものではない。だけどまさか、その横顔が重なるとは思いもしなかった。
 わたしはそっとその場を離れようとした。再会を喜ぶことは間違っているような気がしたから。

「……なあ姉ちゃん。一つ聞いてもいいかい」
「……はい」
「俺ァ今人探しをしているんだけどよ。……昔、故郷に女を置いてきたんだ。女とは必ず迎えに行くと約束した。だけどな、別れてから五年経った頃そいつをようやく迎えに行ったらそいつはもういなかったんだ」
「……」
「……若い奴を五年も待たせるなんざ、無理な話だったのかもしれねえ。だけど俺は、まだ探してんだ」
「……」
「女は甘味が好きだったから、もしかしたらお宅にも来てんじゃねえのかと思ったんだが、知らねえか」

 男に向けた背が痛いと思った。振り向くこともできない。ただ盆を握りしめ、唇を噛み締める。「さあ、知りませんね」と何とかひねり出した言葉はちゃんと伝わっただろうか。後ろで男が立ち上がる音がした。

「そうかい。そりゃ悪かったな」
「……いえ」
「団子美味かったぜ」
「……」
「じゃあ俺は行くとするわ。
……幸せになれよ、ななし」

 思わず振り向いた。その先にはもう男はいなかった。そこには食べ終えた団子の串が三本、皿に乗っているだけで他には何もない。
 もしもわたしが何もかもを投げ出して彼の元へ走ったならわたしは幸せになれるのだろうか。あの日、待つ辛さに耐え切れず逃げ出したわたしが、待ち続けていられたなら今は彼の隣にいるのだろうか。銀時。あなたはどんな気持ちで、わたしを探し続けたの。
 からんと下駄の鳴る音がした。

「ああ、お客様はもう帰ったのかい?」
「……ええ」
「そうか。じゃあ奥で一緒に団子でも食べようか」

 銀時。わたし、あなたを待ち続けていたかった。あなたのことを、きっと一生かかっても忘れられない。だけど、どうして、この人を捨ててわたしは走り出せないの。わたしはこの人を、愛さずにはいられない。
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