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この道は今まで何度も通ったことのある道、どの道を通れば近道か遠回りかよく知っている。ポツポツポツ。差した傘に叩きつける雨は雨粒となってこぼれ落ち俺の足下を濡らした。じめじめした足下が気持ち悪くて一刻も早く家へと帰りたい筈なのに、俺の足は自然と小さな分かれ道で止まった。
傘で塞がれた視界、少しだけ顔を上げてそちらに目をやったけどそこには何も無かった。正確にいうと、俺の見たかったものは無かった。もう随分と時間が経つはずなのに一体何に期待しているんだ、自分は。目を伏せ、その道とは反対方向の自分の家へと続く道へと足を踏み出した。ぴしゃり、ぴしゃりと水たまりが跳ねて泥を飛ばす。
右手に持った傘の柄、何もない左手がさみしくてポケットに突っ込んだ。冷たく悴んだ手がポケットの中で小さな飴玉とぶつかった。そういえば今日の任務の帰りにサクラに貰ったものだ、家に帰ってから食べようか。甘いものはあまり好きではないけれど。



「カカシー」
「ん、起きたの?まだ朝でしょ。いつもなら昼頃まで寝てるのに」
「カカシはいつも朝早いでしょ。たまにはね」
「…そ。じゃあ朝食の用意でもしようかね」

突然声をかけられて驚きぴたりと体が静止した。墓参りに行こうと部屋を出ようとしていた足を止め体ごと振り返ると、ベッドの上で眠そうに目を擦るななしがいた。こいつがこんなに朝早く起きるなんてすごく珍しい。よく眠ってよく食べるがモットーだから、多分もう少ししたら二度寝するんじゃないかと思う。
仕方ないので墓参りは後にしようとくるりと体を反転させ台所へと向かおうとすると、俺の裾が突然引かれる。

「何、ご飯食べないの」
「…うん、まだいらない。それよりカカシもう少しここにいて」
「なーに?今日は甘えただね」

ハハ、と笑う俺に返事もせずななしはぎゅっと抱きついた。「どうしたの?」そう聞きながら俺もななしの背中に手を回すけど、ななしは「何でもない」と小さく呟くだけだ。こんな状態で何でもないって言われても説得力ないんだけどな。

「カカシ」
「んー、何?」
「どこにも、行かないで…」
「俺はどこにも行かないよ」
「…朝」
「朝?」
「…何でもない」
「そ。でも何かあるならちゃんと言いなさいよ」
「…カカシ、手」
「…はい、どうぞ」

向き合い抱き合っていたななしの体をくるりと反転させ、後ろから抱きしめその手を握った。
小さな手が俺の手を包もうと両手を一杯に広げる。そんな姿がすごく可愛くて愛おしくて目を細めて笑った。

「カカシ、眠たい」
「ハハ、言うと思った。じゃあ二度寝しようか」
「うん、傍にいてね」
「はいはい」



嬉しそうに目を細めるななしの笑顔が昨日のことのように思い出せるのに、手は冷たいままだ。一生懸命俺を包んでくれたななしの両手。外に出かける時はいつも手を握った、あの小さな手はもうどこにもない。家に帰っても、お姫様みたいに眠るななしの姿はない。
あの日、ななしが寝付いた後、俺はオビトの墓参りへ行くためななしを一人にした。そして数時間後、俺が家に帰った時もまだあいつは寝ていたけど、今思うとななしはきっとずっと起きていたんじゃないかと思う。
ななしが何を思って「どこにも行かないで」とそう言ったのかは俺には分からない。だけど俺があの日ななしを置いていったこと、きっとそのことに酷く傷ついたのだろうということは何となく予想がついた。

無意識的にゆっくりとした歩調になっていた俺の足。それでも前に進むということは、いつかは家にたどり着くということで、俺は気がつけば自分の家の玄関にいた。ばさり、と雨粒を払い畳んだ傘の向こう。ほんの一瞬ななしの姿が見えたような気がして、俺は傘を放り投げて駆けだした。大通りに出て辺りを確認するが、そこには誰もいない。さっきよりも強くなった雨脚が俺の髪を濡らし、前髪が顔にかかって鬱陶しい。ゆっくりと今来た道を戻る自分の足は鉛のように重かった。

「……ななし」

俺は、今でも・・・ななしと別れた今でもその内あいつはひょっこり戻ってきて「カカシ眠い」なんて言うんじゃないかと期待している。ずっと空いたままの左手は他の誰かを握りしめようなんて考えはまるで無くて、ただあの時の温もりを待っている。別れたことに納得していないわけではない。きっとななしはすごくすごく苦しんで、俺にそう告げたのだと思うから。証拠にななしは泣いていた。やり直そうなんて言葉はあまりに烏滸がましくて言えるわけもなかったんだ。だからせめてあの日、俺はななしの幸せを願った。俺があげられなかった分の幸せをたくさんたくさん貰って生きていってほしいと思った。それは今も変わっていない。だけど、もし俺がななしを幸せにすることができたなら今も傍にいることができたならどんなにいいだろうか、と思う。


『どこにも、行かないで』


もうずっと、そう言ったあいつの顔を見ようともしなかった俺を戒めない日は無い。オビトの時と同じ、悔いても悔いてもまだ足りることないこの気持ちが無くなることはない。「ななし」と、もう一度小さく名前を呼んでみたが、その声はザァザァと降り続ける雨に綺麗にかき消されていった。なあ、ななし。お前今、ちゃんと笑ってるか。偽善でも何でもなくてただ俺はお前の幸せを願っているよ。
ぐしゃぐしゃになった靴もずぶ濡れの服も、今は何も気に入らない。ただこうして上手に俺を隠す秋雨がいつまでも止まなければいいと思った。

title by ELT
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