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「起きろ」
足下ですやすやと眠っている女にそう声をかけると、少し身じろいでからゆっくりと女の目が開いた。
そして寝起き独特のとろくさい声で「晋助眠い」と訴えたので「もう夕方だ」と返した。半分ほど開かれた襖の向こう側からは橙の光が射し込んでいて、ようやく目を開いた女は眩しそうにその目を細め、そして再び閉じてしまった。
「オイ、聞こえなかったのか、起きろっつってんだ」
「―起きたところでやることなんて無いよ、いいから寝かせてよ」
「やることがあるからわざわざお前の目覚まし役をやってんだよ」
俺が言葉を終えると沈黙が部屋に流れた。目を閉じたまま微かに上下に揺れるのを見る所、この女はまた眠ってしまったらしい。
足の先で丸まった背中を少しつついててみたが、女は動かない。
いつからだったか、女は毎日がこの繰り返しだ。夜は眠り、朝や昼でさえもその目は閉じられたまま開かない。
どうして毎日毎日眠るだけの生活を送れるのか俺は不思議に思うばかりだったが、今ではこれが当たり前になってしまった。常識ではあり得ないことでも繰り返される内に自分の中の常識が麻痺してしまったのだ。
俺は女に背を向けられている位置に腰を下ろしてその姿を見つめた。
「仕事しねえのかよ」
ポツリと言葉が口をついて出た。そういえばもう暫くこいつが刀を握っている姿を見ていない。以前女は人斬りだったので、刀を持っていない姿の方が見ることは少なかったのだが、ここの所それを見ていない所為でどうにも思い出せない。
こいつはどんな風に刀を振るっていただろうか。
「何で刀を捨てちまったんだァ、――名前」
女はやはり答えなくて、寝息を立てるその背中はやけに小さく見えた。
そしてその次の日、女は永遠に目を覚ますことはなくなってしまった。
小さくなったと思った彼女の背中は間違いなんかではなく、実際に痩せ細ってしまっていたのだ。確かにそれも納得できる、あいつは食事さえも摂らず眠っていたから。
女が死んだ次の日、葬儀が終わると俺は女の部屋へと足を進めていた。何のことはない、ただ気が向いただけだ。
相変わらず西日がよく射す部屋の襖をカラリと開けて足を踏み入れた瞬間、俺は息を呑んだ。
「――名前」
俺の足下にはその目を閉じてすやすや眠る女がいた。
―何でこいつが此処にいるんだ、確かにさっき葬儀を行った筈だというのに―
状況の把握ができないまま俺は女に近づいた。すると俺の身体で影になっていた女に眩しい橙の光が射し込んだ。
眩しそうに目を固く瞑った彼女は、二、三度身じろいでからその目を開いた。
「眩しいよ、晋助」
耳に聞こえた声は紛れもなく女の声だった。寝起き独特のとろくさい声で、こいつは俺の名前を呼んだ。
「名前、――お前は死んだんじゃねえのか」
女は俺の問いに答える代わりに、眩しそうにその目を細め、そして言った。
「私は疲れたよ、人を斬ることにも、敵と戦うことにも。そんなことしたって今まで何も代わらなかった。
晋助だってそうだ、幕府の官吏を殺したってテロを起こしたって変わることなくこの国は機能しているもの」
「違う、俺はそんなくだらねえ国だからぶっ壊してやりたいんだ。
変化を求めてるわけじゃねえよ」
突然何を言っているんだ、とは言わなかった。ただ女が何かを諦めるように言ったその言葉に腹が立ったから言い返してやった。
しかし女も引くことなく、再び俺に静かに言い返してきた。
「違うよ晋助、それは違うよ。
私はこの世界が変わることを望んだ。でもそれはできなかったんだよ。
いつも残るのは人を斬った罪悪感だけだよ」
「違わなくねえ、お前が変わることを求めていたのかどうかは俺には関係ない。
俺は罪悪感なんて感じたことはねえよ」
強い口調で言えば、女の微かに開いた目は完全に閉じられてしまった。
冷静すぎる女の態度に、ますます腹が立った。俺はどうしてそんなに全てを諦めたような顔をするんだ、と問いたい気持ちになる。
「晋助、できるなら私は眠ったままの世界にいたいなあ。
私はもう目を覚ましたくないんだ」
「――じゃあ死ねばいい話じゃねえかよ、二度と疲れた思いはしなくていいだろうよ」
言ってから違和感を感じた。そういえばこいつはもう死んでいる筈だ。死んでいる奴に死ねばいいだなんていうのは随分とおかしな話な気がする。
暫く黙ってしまった女を見つめていると、女はふと目を開いた。
そしてその目の奥に俺の姿を映し出す。
「きっといつか晋助もこの世界に疲れてうんざりして、目を覚ますことを嫌になる日がくるよ」
そう言って微笑んだ女は、おやすみ、と呟いてもう目を開かなかった。
いつものように女の身体が微かに上下に揺れるのを見る所、また眠ってしまったらしい。
足の先で丸まった背中を少しつついててみたが、女は動かなかった。
この死んでいる筈の女は生きている時と何ら変わりない姿を俺の前に見せている。
「おかしな話だな」
もしかしたら、この女は元々死んでいて、生きているように見せていたのかもしれない。それなら一日中眠りこけていたことの理由になる。
俺は女の横を擦り抜け部屋を出て、襖を閉めようと振り向いた、するとそこにはもう女の姿は無かった。
そこにはただ、もう半分ほど沈んでしまった橙の光が照らす主のいない部屋があるだけだった。遠くで刀の落ちる音がしたような気がする。