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 終わらない。終わる気がしない。よっしゃ諦めよう。そう思って携帯に手を伸ばした瞬間、誰かが部屋に飛び込んできた。

「ななし〜、冷たいお茶持ってきたったよ……って何してんねん」
「や、……勉強してた。ガチで」
「俺の目に狂いがなかったら、自分、今えっらいスピードでベッドから椅子に突っ込んでたで」
「げ、幻覚だよね、うん」
「……どうせ、終わらへーん。諦めたー。とか言うてサボろうとしてたんやろ」
「……」
「しっかりしいや。俺、おばちゃんに頼まれてるんやから」

 謙也が持ってきたマグカップをコトンと勉強机の上に置いてくれた。喉が乾いていたわたしはすぐさまそれを喉に流し込んだ。
 何ていうか、謙也は変な所で鋭いから困る。わたしがサボろうとしていたことも完璧に見破っている辺り、さすが幼なじみだと感心せざるを得ない。

「だいたいさ、謙也がもう宿題終わってるのがおかしいよ。最終日に慌てるタイプなのに」
「じゃかあしい、自分と一緒にすんなっちゅー話や。俺は計画的やねん。7月には終わらせた」
「ああ、いるよね。7月に終わらせたーって無駄に自慢してくる奴が一人か二人」
「え?何で俺ちょお嫌な感じになっとんの?」

 わたしは謙也の問いを華麗にスルーして、数学の問題集に向き合った。後ろで、謙也がベッドに腰掛ける音とお茶を啜る音が聞こえた。畜生、うらやましいな……。自分だけ余裕ぶって……くそう。

「はい」
「……何や」
「これ無理です謙也くん」
「気合いやでー」
「教えてくれるとかないのか!」

 くるくる回る椅子を回転させて、シャーペンを右手に持ったまま振り返ると、謙也は「しゃあないなあ」と呟き、お茶を飲み終えたマグカップをその場に置いてわたしの方に近づいてきた。ついでに近くにあった椅子を引き寄せて、わたしの隣に置くとそこに座る。

「ちゃっちゃとしいや」
「そんなちゃっちゃかできん」
「俺が見張ってたるから」

 ほら、と謙也はわたしの開いていたテキストを人差し指でとんとんと叩いた。わたしは仕方なく問題に向き合う。


 問題を解き始めてから30分。頭を抱えるわたしの手元に、消しゴムが転がってきた。と思ったらすぐさま「すまん」と言って横から謙也がその転がってきたものに手を伸ばした。わたしは返事をせずに、テキストを睨み付ける。畜生、誰だルートなんて考えたのは。答えが合わない。
 ふと、頭に違和感。横を見れば、今度はわたしの頭へ手を伸ばす謙也がいた。

「謙也ー」
「や、何や頭抱えとったから」
「抱えたくもなるさ」
「……今日な、動物園のチケットもらったから行こう思うててん」
「は?……」
「まあ今日は無理やろうから、今日中に宿題終わったら明日行こうかなあ思うたんやけど」
「……わたしと?」
「他に誰がおんの」

 終わりそうか?と聞く謙也の声に、何ていうか胸がきゅんとした。これがいわゆる胸きゅんか。なんて馬鹿なこと考えてみたりしたけど、本当は動揺を隠そうとしただけだったりする。だって、自分で言うとなかなか恥ずかしいけど、謙也ってわたしのこと好きなんだなあとか改めて思ってしまったから。
 突然、この距離が恥ずかしくなってきた。でもわたしが恥ずかしがったら謙也もつられそうだよなあ。黙っておこう。

「あのね、正直」
「うん」
「終わる気がしないんだ」
「……そうか」
「でもさ」
「ん?」
「謙也が、こう、ぎゅっとしてくれたら頑張れるかも」

 さっき、この距離が恥ずかしいとか言っておいて何を言ってるんだ、と内心自分に突っ込みを入れた。でも、何か謙也の隣にいたらそんな気持ちになった。わたしは、多分顔を少し赤らめているだろう謙也の顔を覗き見た。

「……けーんやー」
「……おう」
「頑張れるのになー、って」
「……ちょ、待って」

 まあ、何ていうか予想通りの反応をしてくれた謙也に呆れた笑いが零れる。そうだよね、謙也は付き合い始めてからは手繋ぐのにも時間がかかったような奴だし。でも、手なんて昔からたくさん繋いできて、抱き合ったりとかも同じくらいしてたのになあ。やっぱり恋人ってのは少し違うのかなあ。
 明後日の方向を見ている謙也にはもう何も言わず、わたしは問題を解くのを再開した。

「……ななし」
「んー?」
「その問題、終わったら、し、してもええけど」

 解き始めてから30秒くらい、思わず手を止め謙也の方を見た。すると、わたしに真っ直ぐ視線を向けた謙也と目が合って、今度はきゅんてするよりもまず笑えてきた。そんなわたしを見て謙也が「何で笑うねん!」と突っ込みを入れてくる。わたしはまだ笑ったまま、とりあえず「ごめんごめん」と謝っておいた。

「笑うなや!」
「や、何かおかしくて」
「なーにーがーやー」
「ちょ、髪の毛くしゃくしゃにすんの止めてって!」

 ようやくわたしの笑いが止まって、謙也の右手も止まった。と思ったら、またくしゃりと撫でられた。

「明日は動物園行くからな」
「あー、うん。まあ頑張る」
「チーター見たいねん」
「速いから?」
「せや!」

 隣でチーターとスピードについて熱く語りだした謙也を放って、わたしは明日のために宿題に取り掛かった。
 でも、まあ、やっぱり終わる気はしないんだけどね。と内心呟きながら、わたしって単純なのかもしれないと思った。
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