先輩 | ナノ

山田が俺に剣道を教えてくれと頼み込んできたのは、つい最近のことのように思う。
実際には、確か五月の合宿後の話だったはずだ。
あの合宿ではいろいろあって何かと大変だったが、俺にしたらそのことが一番の衝撃だった気がする。
あいつに一体何があったのかは知らないけど、何かがあったのは確かなようだしね。


「退ー、もう一本ー!」
「…あのね、山田。基礎ができてないのに稽古やっても意味ないって何回言ったら分かるの?」
「基礎なんてつまんないもん。ただでさえ部活でアホみたいに素振りさせられてんのに」
「て言っても、竹刀振り回すような奴は怖くて相手できないんだけどさ。真面目にやる気ある?」
「いや、さっきまでふざけてたけど」
「叩いていい?」
「嫌だ」

ふう、とため息をつく。やっぱり山田はよく分からない。
俺は結構、人間観察が得意な方だと思ってたんだけどな。まだまだなのかな。
ふと山田を見ると、竹刀を杖にしてスポーツドリンクを飲んでいた。それ副長の前でやったら殴られるからね。あー、今日午後練だよな。そろそろ行かないと。

「山田、そろそろ学校行くよ」
「え、もうそんな時間になんのか」
「うん。昼飯も食べなくちゃいけないし三時間もやれば十分だろ」
「あああ。またグダグダと走らされるのか、面倒な…」
「仕方ないだろ、一年なんだから」
「自分はレギュラーだからってコノヤロウめ」
「稽古止めてもいいんだけど」
「…くっ」
「いや、意味分かんないよ」

いいから行くよ。そう言うと、やる気のない間延びした返事をして山田は竹刀を片付け始めた。俺も片付けて、荷物を背負う。

「今日もハンバーガー食べに行くの?」
「えー、不健康」
「だよね。俺もそう思った」
「今日はチキン食べたい」
「似たようなもんだろ、それ」
「チーキーン!チーキーン!」
「何そのコール、うざいから止めてくれる?」
「それならケンタへレッツゴー」
「あー、もう何でもいいよ」
「よっしゃ、ついでに退の奢りでいいんだよね?」
「いや、ないから」
「…ケチじゃのう」
「…誰の真似?」
「わたしは元からこんなしゃべり方しとうよ」
「…」
「ちょ、見捨てないでよ」

山田は歩く速度を速めた俺に小走りで着いてくる。竹刀が邪魔なのか、ときどき足に引っかけている姿を見ると、なんかアホっぽくて笑えた。

「笑うなこんにゃろー」
「笑ってるように見えた?そんなつもりなかったけど」
「ほんっと、退って性格悪いよね。びっくりするよ」
「そんなこと言われたこともないけど」
「言ってんじゃん、わたしが現在進行形で」
「あ、ケンタ混んでる」
「綺麗に話を逸らしたね。混んでるってどの程度?」
「うーん。まあいいか、持ち帰りして部室で食べようかな」
「退がチキンを先輩に取られる確率は百パーセントだな」
「…やっぱ食べてこうか」
「言うと思ったー」

にひひ、と笑って山田は店の中に飛び込んだ。クーラーでキンキンに冷えた店内に、さっきまでの汗が引いていく。
山田は地球温暖化に貢献してんね、と言いながら列の最後尾に並んだ。何食べようかな。ここはマフィンがうまいんだっけ、確か。

「お待たせしました。次のお客様どうぞ」
「はーいお待たせされましたー。わたしセットで飲み物はジンジャーエールでーす。退は?」
「んー、俺も同じでいいや。あ、飲み物は烏龍茶で」
「かしこまりました。出来上がりますまで横でお待ちください」

そう言われて、列から出る。再び「次のお客様どうぞー」と店員が声を張るのを何となく聞いていたら山田に話し掛けられた。

「わたしも烏龍茶にすればよかった。退、交換して」
「嫌」
「ケチ!退なんてミロ飲んでればいいんだよ」
「なんでミロ?!」
「あーあー、烏龍茶が飲みたいなあ。烏龍茶飲まないと死ぬ」
「…分かったよ。でも俺も飲みたいから少しあげる」

言うと、「さ、退が優しいなんて!」とオーバーなリアクションをとって驚いた。
いや、普通、リアクションとるべきとこはそこじゃないだろ。

ふと首を反転させれば、チキンを片手に困った顔をした店員がいた。




「うあー、チキンで手がデロデロに…」
「食べ方が悪いんじゃないの」
「退は無駄に器用だよね」
「器用に無駄も何もなくない?」

がぶり、手を油でベタベタにしながらチキンに噛り付く姿は何とも異様だ。肉食獣みたいだな。
その様子を何となく見ながら、俺も残りのチキンに噛り付く。部活前に油っこいなあ。

「あのさー」
「なにさー」
「何で突然やる気になったの?」

食べ終えた残骸をナプキンで包み、おしぼりで手を拭きながらさりげなく聞いてみた。
すると、山田は手を止め俺を見て、にっと効果音がつきそうなくらいに口を弧にして笑った。

「ヒミツ」
「…へえ」
「案外、追及しないね。退」
「したら教えてくれんの?」
「んーん。教えない」
「まあいいけど。それより早く食べなよ、遅刻する」
「ういー」

山田はまたチキンに噛り付く。俺は、その姿を黙って見ている。見ながら考える。
きっと、山田のやる気の原因は沖田さんなんだろうなあ。
意外にこいつは単純な奴だから、負けたくないとか追い付きたいとかそんなこと考えたのかもしれない。
山田は分からない。でも、分かりやすい。矛盾だけど、俺が言ってることはきっと間違っていないはずだ。

ようやく食べ終えた山田が、油っこくなった手と口をおしぼりで拭きはじめた。
俺は席を立ってトレーに乗ったゴミを捨てにゴミ箱へと向かう。

「退ー、わたし手洗ってくるから先に出といて」
「早くしないと置いてくよ」
「うん、待ってて」

そう言って手洗いへと駆けていく山田の背中を見送った。
背が特別低いわけじゃないのに、その背中をすごく小さく感じた。
こんなこと思うようになったのは、いつから?
いまいち覚えていない。
俺は、言われた通りに外へ出て店の前に突っ立った。あー、暑いな。

「退メンゴ」
「うん。じゃあ行くよ」
「…なーんか今日の退おかしいね」
「そう?普通じゃない」

山田は納得いかない、という顔で俺についてきた。
歩幅の違う俺に早足で合わせようとするこいつはいつもなら「ゆっくり歩け」とか文句言うんだろうけど、気を遣ってるのか何も言わない。
俺は、わざと歩く速さを遅くしてやらない。何でかって? さあ。

「…怒ってんの?」

しばらく黙ったまま歩いていたら、山田がそう口を利いた。
別に。怒ってないよ。そう言うつもりで何も言えなかったから、俺はただ歩く。
本当におかしい。
俺はいつから?いつからこうなった。
そんなつもりはこれっぽっちもなかった筈なんだけどなあ。
理屈じゃないってのはこういうことかもしれない。

「山田さあ、泣いてたよね」
「ん?何の話」
「合宿の、行きのバス。隣で泣いてたから驚いた」
「マジか。ぜんっぜん、記憶にない」
「寝てたからね」
「うん。あー、なるほど。それで?それがどうかしたの?」
「ううん。特に意味はないけど」
「そうか、よく分からんね」
「…山田さあ、まだ沖田さんのこと好き?」
「…話の飛躍しっぷりに一瞬言葉を失ったよ山崎氏」
「いいから」
「あー…うん。そうだね」
「そっか」
「聞いただけーってやつ?殴っていい?」
「まあ、がんばれば」

そう言うと、黙った。誰がって山田が。
意外だったのかもしれない。そりゃそうか、今までさんざ無理だとか言ってきたんだからな。

「退、本当に今日おかしい…。部活休んだ方がいいよ、うむ」
「馬鹿にしてんの?」
「心配してあげてんのに」
「余計なお世話。それより急ぐよ」

さっきよりも更に早足で歩く。すると山田が後ろで「さっきから歩くの速いじゃん!」と文句を言うので何だかおかしくなった。
なあ山田、お前って変なやつだよ。

「あのさあ、退ー」
「何?」
「わたしさ、がんばることにしたんだ。先輩に追い付くために」
「ふーん」
「今のままじゃ、先輩がすごい遠いから」
「…まあ、知ってたけど」

山田はまた驚いた顔をした。ほら、やっぱりこいつは単純だった。
俺の人間観察の腕は、やっぱり本当かもしれない。
俺はふっ、と笑って山田の竹刀入れを掴んだ。

「あ、ちょっとわたしの」
「いいから急いで、なな」

そう言って前を向いたから、こいつがどんな表情をしたのかは知らない。
少しは何かが変わったか、分からないけど、分かることは明日もこいつと俺はあの場所で練習してるってこと。

「退、ありがと」

あ、と思って振り向いてしまった。山田は俺よりずっと前の方を向いて走っていた。
沖田さんのことなんか、早く諦めてしまえ。
不覚にもそう思ってしまった俺も、やっぱり失恋組だよね。


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