先輩 | ナノ

絶対に後悔すると分かっていたから、先輩を好きにはなりたくなかった。
頑張るとか幸せとかそういう文字の前に、わたしの頭の中には望みがないという言葉が浮かぶから。



「何で泣いてんでさァ」

突然明るくなった視界。眩しくて反射的に目を細めるその向こう側で先輩が驚いた顔をしていた。
顔を隠すという意味のない行為さえできなくて、わたしは先輩の目を見つめ返した。

「幽霊まだ怖いのかよ、布団の中にいたとか」
「そんなんじゃ、ないっす」
「じゃあ何で」
「戻ります」
「はあ、意味が分かんねえでさァ。第一、戻るってどこに戻るんでィ。幽霊の出る部屋にかィ?」
「お邪魔してすみませんでした、じゃあまた明日の練習で」

後ろからわたしを呼ぶ声が聞こえたけど無視して、急いで先輩の部屋を出た。そしてそれから自分の馬鹿さ加減に呆れてくる。これからの部活、先輩と顔を合わせるのがいちいち面倒になるじゃないか。こんなの。

先輩はわたしのことを追いかけてくるような真似はしなかった。そんなの当たり前だって分かっているのに、頭のどこかで期待している。
どうして期待してしまうんだろう。先輩に彼女がいることは最初から知っていた。国語準備室で先輩のあの笑みを見た日から、ずっと心の中のどこかで望みが無いことも知っていた。

「どこで寝よう」

とにかく先輩の部屋からは離れたくて走ってきたが、わたしには行く場所がない。部屋に戻ることはできないし、先生の所はきっとさっちゃん先輩がいる。変なことに巻き込まれるのはごめんだ。
神楽ちゃんと志村先輩は今頃温泉……あ、そういえば温泉に来いって言われてたんだ。どうしよう、しばかれる。二人の所も行けない。

しばらく考えて思い当たったのは、あいつの元へ行くということ。絶交切ったけど…まあ、仕方ないよね。妥協策。


「退、開けて」
「俺は君みたいな知り合いいないから無理。帰ってよ不審者」
「友達でしょ。困ってるんだからちょっとくらいいいじゃんか馬鹿!下がる!」
「その呼び方止めろよ。大体俺は絶交切られたんだけど!お前に!」
「絶交もーどす!だから開けろオオオ」

退の部屋を偶然廊下で出会った原田先輩に聞き出して、三階までやってきた。退は一人部屋だそうだ。何でも余ったとかで本来二人部屋である部屋を一人で使っているらしい。
今度から余り物退と呼ぶことを今決めました。

「開けてよお願いだからさ。わたしもこんなこと廊下でするのは恥ずかしいんだから!」
「知るか、帰れ。恥ずかしいようなことをするな」
「帰れないからわざわざお前なんかの所に来てるんだろ馬鹿アア!」

いつまで経っても開けてくれる気配の無い退にしびれを切らしたわたしはドアノブに手をかけガッチャガチャと回した。

「フハハハ退!開けないとこの扉は五秒後に爆破するぞ!」
「ちょっと、本気で止めて。さっきもそうやって脅されたんだから」
「え、さっきって…ああ」

退の言葉に数十分前を思いだした。あの人、こんな所まで来たのか。というか、あの人と同じような行動取ってしまった自分に軽く自己嫌悪なんだけど。
ドアノブを回す手を止め、少し考えた。退の言ったとおり、少し似てるのかもしれない。だから何ってこともないんだけど。

「…山田?」
「…え、ああ。ごめん退。開けて」

突然静かになったわたしに驚いたのか何なのか、退はさっきより少し穏やかな声でわたしを呼んだ。
そして、わたしの頼みを聞いてようやくその扉を開けてくれた。

「…何で泣いてたの、お前」
「泣いてない…」
「下手な嘘吐かなくてもすぐばれるから、その顔じゃあね」
「…お邪魔します」
「入っていいとは言ってないけど」

退の部屋に入り居間の隅の方に正座してみた。退もわたしの後ろを追って部屋に入り、わたしとは反対側の座布団の上に胡座をかく。

「で。何で部屋に帰れないんだよ」
「ス、スタンドが。というか、うん。クローゼット開けたら妖精さんがいてそれで」
「分かるように説明して」
「部屋に怖くていられなくて飛び出して、偶然行き着いた部屋が沖…先輩の部屋で、そこにいたら彼女さんが来てわたしは布団に隠れてて、また先輩の部屋を飛び出してきました」
「…あんた本当に日本人?」
「生まれも育ちも」
「…まあいいや。それで何で俺の所なんだよ」
「神楽ちゃんと志村先輩の部屋は事情があって行けなくて、先生の所もさっちゃん先輩がいるから。最終手段として仕方なく、退の所へ来ました」
「あのさ、出てけ」
「無理。いいじゃん一晩くらい!明日は九ちゃんの所に行くからお願いします。本当に頼みます退様」
「無理だから」
「何で!」

相当下手に出たっていうのに退は頑なに嫌を繰り返す。何で、と聞いても、何でも。と返すだけではっきりした所が分からない。
何なんだこの野郎。ケチ男かよ。山崎ケチ男。

「可哀想な友達を匿ってくれることもしないのか!二人部屋を一人で使っているのだろう!良いではないか良いではないか!」
「駄目だって言ってるじゃん。いい加減しつこいよ」
「くっ…そうなるとわたしの最終最終手段は野宿以外・・・もしくは部長の所に」
「駄目だから。野宿はともかく何で近藤さんの所なんだよ」
「へ、だって部長ならいいよって言ってくれそうだし」
「そういう問題じゃなくて、ああ…山田お前よく考えろ」

退は相当いらついた様子でわたしに怒鳴った。何でこんなこと退に言われてるのかが分からん。駄目だって言うなら退がわたしを置いてくれればいい話なのに。
大体、退は話の要点が分かりにくいんだよ。いつも。言いたいことはずばっと言え、男らしく!

「退は回りくどい。分からん」
「だから、俺も部長もまがりなりにも男だろ。しかも高校生。山田はそんなでも女ってことくらい察しろよ、単細胞!」
「単細胞だあ?というか退はそんな目でわたしのこと見てるのかど変態」
「見てる見てないの問題じゃなくて、もしもってこともあるだろ」
「ない、あり得ない」
「何でそんなこと言い切れるんだよ」
「退は、あり得ない」

絶対に、と言い切ってやると退はものすごく渋い顔をした。
なんだかわたしは、今、思い切り退が男であることを否定してしまった気がするけど…まあ、どうでもいい。傷つけられて強くなれ山崎退!

「今日だけ。今日だけお願いします。隅っこにいるから」
「…分かった、じゃあ俺は他の誰かの所に」
「いや、それもちょっと…」
「何?今さら気ィ遣うとかいらないから」
「あ、気を遣うとかじゃなくて、その、ね。ほら、さっき言ったじゃん」
「は?はっきり言ってよ」
「…怖イノデス」
「……は?」

別に気なんて遣わないよ。第一、気遣ってたらここまでして頼まないっつーの。
そうじゃなくてね、ほらわたし今逃げてきたって言ったでしょ。
そう言ったらバシリと頭を叩かれた。すごく痛いけど文句を言って部屋を追い出されるのはごめんだから我慢してみた。
わたしが叩かれた所を押さえ上を見上げると、一瞬だけ横顔の向こう側にある表情が目に映った。

「退?」
「温泉くらいは一人で行けるだろ。さっさと行ってきなよ。それと、俺の部屋に出入りする所を誰にも見られるな」
「ハイ」
「…はあ」

退をため息をつくとドアの方へと歩いていった。しばらくしてがちゃりとそれが開く音がすると退がわたしに向かって手招きをしたので、従った。

「今ならいないから」
「分かった。…あ、退、ジャージ貸して」
「はあ?」
「いろいろと部屋に置きっぱなしで取りに行く勇気はないのだよ」
「…なんか、もういいや。ちょっと待ってて。あ、大きな声出すなよ」
「うい」


* * * *


カポーン

そういえば、漫画とかによくあるカポーンて何の効果音なんだろう。不思議だ。
とか考えながらわたしは温泉に浸かっていた。旅館のすぐ後ろに作られた小じんまりとした、だけど家の風呂よりはずっと広いミネラルたっぷりの温泉。
背景にある山からは、いのししやフクロウと思われる鳴き声が聞こえてきて少し怖い。

「…あー、いい湯」

ちゃぽん、と白濁色のお湯を手にとって肩にかけた。
なんだか今日は濃い一日だったなあ。九ちゃん、東城さんとの初対面だったり退と絶交切ったり(仲直りしたけど)…先輩の彼女が来たり、とか。

「むー」

思い返せば、わたしは何であの時泣いてしまったんだろう。単純にいけば、どこかを打ったりしたわけじゃないから、悲しかったから。だけど何が悲しかったの?分からない。
いや、違うか。分かってるけど分かるのが怖いのか。
わたし言ってることおかしかったりするかもしれなかったりする?これもおかしいな、うん。

「とりあえず頭洗おう」

ざばりとお湯から上がって洗い場へと向かった。
そうだ、細かいこと気にするのは性に合わないしまだ合宿は二日も残っているんだから今からこんなじゃ大変だ。
よし、ポジティブポジティブ。わたしは何も知らない何も考えてないシャンプーを頭に塗りつけるのみに存在する。

「あ、た、ま、ゴッシゴシッ」

わしわしと頭を白く泡立てていく。お湯の流れる音と静かになった山に流れる風の音だけがわたしの耳に響いていた。

「目、痛ー…」

微かに開いた両目に額を伝い垂れてきた泡が入ってきて沁みた。
慌ててシャワーのお湯で流して目を擦ったけど、やっぱり痛い。痛い。

「いったー、ほんと痛い」

痛い。痛い。痛い。
出しっぱなしにしたお湯が泡を洗い流していく。ザアア、という音に混じって呟く自分の声が聞こえた。
何でだろう、目にちょっと泡が入っただけなのにこんなに痛い。

「…痛い」

口にすれば、口にするだけ痛くなっていくような気がした。だけどそれでも溢れる言葉を止めることはできず呟き続けた。
そしてそれが溢れるのと同じように、わたしは小さく泣いた。
そんな涙をも、噴き出すお湯は一緒に排水溝へと流していった。

「…」

ザアアアア

「…」

いつからだろう。いつからこんな気持ちになったんだろう。
最初は何でも無かった、ただの先輩だった。
他の人よりも少し人気のある、有名な先輩。わたしはその先輩が所属する部にいるってだけの後輩。
それだけの関係、以上でも以下でもなく、ただそれだけの。
だけど今また、あの日笑った先輩の顔が離れない。

「…っ」

流れ落ちた筈の泡が、目にしみてまた泣けてきた。
ねえ、わたしはどうせ叶わないなら、好きになんかなりたくなかった。
せめてこの気持ちに気付きたくなかった。

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