先輩 | ナノ

人生ってそんなにうまくいかないね。
とか、わたしはまだ人生を語れるような人間じゃないしたったの十六年しか生きていない。
だけど、それでもため息をついては思う。

人生って、そんなにうまくいかない。


「すっげえ顔してるよ、山田」
「黙って脱脂綿でも作ってろ退め」
「それが手当てしてあげてる人に向かって言う台詞?ありがとうくらい言ったらどうだよ」
「頼んだわけじゃないやい」
「副長に頼まれたんだよ」

消毒液をたっぷり付けた綿がピンセットで摘まれ、わたしの頬に触れた。
反射的に体が動いた。いってー、これめっさ沁みるんですけど。

「退、もう少し優しく!丁寧に!穏やかにやってくれたまへよ」
「文句言うな、消毒液ぶっかけるよ」

退の冗談は冗談に聞こえない。だから仕方なく黙ってみたけど、やっぱり綿が頬に触れるたび「いだっ」なんて声が漏れてしまう。
退の顔は何かすごく楽しそうだ。

「舞さんも相変わらず無茶苦茶やるなあ」
「舞さん…?」
「ああ、先輩の彼女の名前だよ。あの人見た目と違っていつもああだからね」
「ふうん…すっごい絡みにくい人で驚いたけどさ」
「山田に近いものがあるよね、って俺は思ったけど」

心臓にズキンときた。ちょっと待ってよ退きゅん。わたしあの方に近い所があるのかい?
するとなんだい、わたしは日頃あんなに絡みにくいのか?

「わたしちょっと自分自身を省みるよ」
「そうしてくれるとすごく有り難いよ。ていうか省みるなんて言葉知ってたんだね」
「ねえ、わたしって退にどう思われてんの?」

そう聞くと、退が返事もせず立ち上がった。手当てが終わったようだ。
退は救急箱の中にピンセットと脱脂綿を丁寧に詰めている。あいつは間違いなくA型だ、うん。

(袴が似合わないな、退)

無言でじっと見つめていると、その気配を感じ取ったらしくこちらを見て怪訝そうに「何」と言ってきた。
「別に」と返すと全く興味の無さそうな声音で「あっそう」と言われ、わたしの座っている椅子のすぐ近くに座り込んだ。

「椅子座れば」
「いいよ、どうせもう下行かなくちゃいけないし」
「ふーん」

わたしを見上げた退と目が合った。

「あんたさ」
「何さ」
「何でそんなに今日…というかさっきから沈んでるの」
「え、わたし沈んでる?」
「うん、鬱陶しいくらいに」

そう言うと目を反らした。
鬱陶しいくらいに、とか心配の一つでもしてみろってんだ。
つーか沈んでるのか、わたし。

「沈んでるつもり無いんだけど。強いて言うなら消毒がすごく沁みました」
「沈んでるんだよ、ずっとね。山田が舞さんに会った時くらいから」
「は、何故。というかわたしと舞さんが会った所に退いなかっただろう」
「想像くらいつくよ、あんたはすぐ顔に出るからね」
「失礼な!そういう退は……分かりにくいよね、うん」

いつにも増して退が怖くて逃げ出したくなった。何だかこのままここにいたらダメな気がする。
だけど、椅子から立ち上がる勇気が、何故か今のわたしには無い。全く動かない。

「無理だよ」
「は?」
「山田には無理だよ」

言われた瞬間、体が強ばった。退がこれから何と言おうとしているのかが、不思議なくらい容易に分かってしまったから。
きっと今わたしは、顔も体と同じくらい強ばっていて引きつっていると思う。
嫌だ。こういう空気苦手なんだよ。
真面目なお話とかさ、いらないじゃん。今は合宿中なんだからさ。

言わなくていいよ、退。

「山田は、沖田さんのこと好きでしょ」

あーあ、退。
まるで予想通りじゃないか、バカヤロウめが。

沈黙ができた。ぶつかり合った退の目にわたしがどう映っているのかは分からないけど、少なくとも良い顔はしていないと思う。
だから、とりあえず笑わなくちゃいけないような気がして口を開けてみた。

「は」
「は?」
「ははははははは」
「……は?」

明からさまに嫌な顔をされた。だって今はとりあえず笑うしか無いでしょう。
退が言ったことは予想通り、わたしの思ったことと丁度同じだった。
だけど、だからと言ってそれが真実だとは限らないのだよ。

「退は一体どこを見てそんなこと言い出すのだよ、あっはっはっ」
「……どういう意味だよ」
「だって沖田先輩でしょ?先輩のこと好きになるようなエピソードわたしに無いよ。むしろ憎らしくてたまらないことの方が…!くっ、クリームパン無念!」
「あのさ、山田」
「ああ、あれだ!テンション低かったのは朝から土方先輩達に怒られたからだよ。眠かったしね!」
「……ふうん、そう。じゃあ俺の勘違いってことだね」
「そうそう勘違い勘違い!退のお茶目さん!あ、それよりも下で先輩達集まってるみたいだよ。行かなくちゃ殴られるよ退」
「……それもそうだね、じゃあ行くよ」
「うん、がんばってきなさい!影ながらですが、わたし山田なな!応援させていただきますよ」

満面の笑みで手を振った。退はそんなわたしとは対照的に笑いもせずその場から去っていく。
後ろ姿が消えるまでずっと手を振り続けていたのに、退は一回だってわたしの方は見なかった。

「ノリ悪りぃの……」

わたしの顔から自然と笑みが消え、振り続けていた右手はだらりと降ろされた。
一人になった観覧席で、わたしはぼんやりと落ちて転がっている水筒を見つめた。

「……恐るべし、退。だなあ」

呟いた声は、体育館に響く声にかき消されていった。

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