及川は取り敢えず呆けていた。いつもよりもずっと自分が莫迦になった気がしていけない。口からこぼれてしまいそうになる、俺は岩ちゃんのものだと思ってた、という本音を奥歯で噛み砕いて無理矢理呑み込んだら吐気がした。指先が震えないように拳の形にすると手のひらに短い爪が当たって皮膚を裂きもしない曖昧な痛みに眉を寄せる。「及川」と岩泉に呼ばれて、顔を上げると、いつも通りの顔をした岩泉が「どうしたんだよ、今日ヘンだぞお前」と訝しげに首を捻っている。いや別にヘンじゃねーしとかヘンなのは岩ちゃんじゃんとか何で女の子と登校して来てんのとかあの女誰だよとか色々言いたいことを呑み込んで、「及川さん恋煩いなうなの」と胸に手を当てて冗談っぽく笑んで見せる。岩泉はそんな及川の内心を考慮せずに、そう言えばと口を開いた。及川はその口を塞いでやりたい衝動に駆られる。危ないと思った。自分が壊れてしまうかもしれないと強い恐怖に押し潰されそうになる。

「彼女ができた」

あ。と思ったら、もう駄目で、ぽろりと何かが壊れてしまった。


寒いなと笑う岩泉の横にいる女の子が憎い。すきとか簡単に岩泉に言わせられる幸せ面が憎い。細い手首も綺麗にコーティングされた爪も女の子の香りがしてそうで憎い。大して可愛い顔でもないくせに岩泉を取られたと思う自分の心が醜くて、憎い。内心ではぐるぐると憎悪と嫌悪と殺意を抱いていても、スパイクが決まらない、ミスが増える、怪我をしそうな危ない動きをしてしまってチームが上手に纏まらない、何てことにならないのは及川がまだちゃんと人間としての理性を保って、まだ大丈夫と呼吸を続けているからだ。自分を誤魔化しながら時間を削っていくのは得意だと思っていた。今迄岩泉が隣にいても及川はちゃんといちばん綺麗なところといちばん汚いところを隠していられた。これからもそうであればいいと思った。思っているだけだとそのときの自分は自分に言い訳をしている。分かっていた筈だった。岩泉だって男で、恋愛だってするし、バレーもするし、ちゃんと及川を見てくれるけどそれは幼馴染とかチームメイトとしてで、そうやって自分を律してきた筈だった。「ヘンだぞお前」という今泉の声がぐるぐる頭を回る。元からヘンだったのかもしれない。

だって、俺はずっと岩ちゃんがすきだった。


女の子の匂いに包まれたら酷く気分が悪くなった。気持ちいい筈の行為をどうにもそうと捉えられない。快感だけ逃して息苦しさだけを敢えて掴んでいるような居心地の悪さが拭えない。静かに呼吸を整えて最後だけ頑張ろうと自分の下の女の子にキスをする。薄いリップクリームが鬱陶しい。彼女の髪を梳くと水色の香りがした。そこでやっと罪悪感が溢れて、止まらない。目の前の女の子を激しく扱ってしまえばよかったのかもしれないと思ったけどもう遅くて、健康的な肌色をした女の子はぼんやりした顔で、及川くんと喋った。及川くん。いつもは今泉の名前を呼ぶ声が自分の名前を紡いだ。それがどうしても気持ち悪くて、及川の口はどうしようもない方に動く。

「ねえ、早く死んでよ」


タイトル:深爪




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