僕は僕のために君を探すので


その日の朝、やけに学園内は騒がしい雰囲気に満たされていた。

――聞いた?聞いたよ――今回の事件といい――どうなってるんだろう、本当に――…囁き声が絶えず、リソルの周囲を取り囲んでいる。状況の読めないリソルは首を傾げ、しかしそこまで気にすることなく、自分の教室へ歩を進める。睡眠不足で体が怠く、上手く頭が回らないせいで、自分以外の事に気を回すのがひどく困難だったのだ。何が起きたかなんて時間が経てば、焦らずとも耳に入ってくるのだと考えながら、リソルはT―スペーディオの教室に入ろうとし、


「…リソル、っ!」
「……は、」


――思い切り、制服の裾を引っ張られてバランスを崩した。

見慣れた桃色の髪が視界で揺れた、次の瞬間には体が絶妙なコントロールの魔力に支えられ、重力に抗っていた。…呼吸を整え、振り向いたリソルの視界に入るのは予想通り、小柄なラピスの姿。…これがラピスでなければリソルは、何をするのか、問い詰め煽り喧嘩を吹っ掛けていただろう。普段は感情の色をナマエやメルジオル以外にうまく悟らせないラピスが、なぜ必死に自分の名前を呼び、引き留めたのか。


「…何かあったわけ」
「リソル、フウキ委員総員、緊急招集がかかっておる」
「…はあ?」
「解放したはずの屋上に、再び鍵穴が現れたのじゃ」
「……きて!」


上手く回らない頭がメルジオルの言葉を噛み砕いて理解する前に、ラピスがリソルの腕を引いた。抗わなかったリソルはそのまま、引き摺られるように走り出す。
廊下を走ってはいけません、と職員室の前で叫んでいる教師でさえ、ラピスと、ラピスに連れられて走るリソルは咎めなかった。廊下を騒めきで満たす生徒たちも走ってくるラピスとリソルを見止めるなり、さっと道を開けて二人の走るスペースを確保する。真っ直ぐ一直線、フウキの対策室まで駆け抜けたラピスは扉を開け、リソルと共に部屋のなかに飛び込んだ。目の回りそうなリソルは対策室に、ナマエ以外の全員が集っていることを確認する。


「来たわね、リソル君。…これで、全員」
「全員?おいおいシュメリアちゃんよ、ナマエの姿がねえぞ」
「…ええ、その件についてはまた後で」


不満気なアイゼルの声に、厳しい声を揺らがせないシュメリアが言葉を流し、ミッケ君を振り仰いだ。「みんなも知っているかもしれないけど、既に解放したはずの屋上に、再び鍵穴が現れました。出現時間は昨晩から、今朝のどこかね。…まったく理由の分からない、今までになかった不可解な現象よ。恐らく鍵穴の出現時間は、昨晩のうちから今日の早朝…学園内に人がいない時間に起きたってだけじゃ、この件を最悪と呼ばない理由にならないわよね」…腰に手をあて、鏡の映し出す屋上への扉を見、思考を巡らせるシュメリアは声こそ冷静だがその視線は不安気だ。


「シュメリア先生。不可解な現象は、学園に人のいない時間に起きたんですよね?」
「ええ、そうよクラウンさん」
「なら、まだ良かったと思うべきじゃないですか」
「…一人だけ、巻き込まれている可能性のある人がいるの」
「一人?」


シュメリアの声色が、微かに揺らぐ。クラウンの横に立っていたフランジュが、不安そうにシュメリアの言葉を促す。全員の脳裏にその一人として、名を上げて欲しくない人物の顔が浮かび上がる。
しばらく調子の悪さを引き摺っていたその人物は、ミランに進められ、救護室で仮眠すると言伝を残していた。その人物は学園長から随分と頼りにされており、以前も学園内に泊まり込んだことがあった。…その時、使っていたのは、救護室ではなかったか。


「その人は、学園長の許可を得て、救護室に泊まっていたの。なのに、チェルシー先生が朝、出勤したときベッドはもぬけの殻。下駄箱に靴は残ってる。学園外に出た可能性は低いわ。なのに、校内のどこにもいない。そして、屋上の鍵穴の出現…」
「待ってくださいシュメリア先生。どうしてナマエは昨晩、救護室に?そこまで調子が悪いならむしろ、家に帰ると思うのですが」
「それがね、ミラン君。私もそう思ったのだけど、ナマエさんは私達が考えるよりももっと、体調を悪くしていたみたいで…チェルシー先生が学園長に許可を取って、そのまま寝かせていたみたいなの。帰る前にこのまま泊まって、ゆっくり寝て、って書き置きを残したみたいなんだけど、それを見た形跡もないみたいで…」
「なら、夜のうちに学園で何かが起こった。ナマエはいち早くそれに気が付いて、」
「ええ、…一人で戦っているのかもしれないわ。封印の中で一人、未知の敵と」
「っ、なら早く助けに行きましょう!」


拳を握ったフランジュが、シュメリアとミランを遮り意志を示す。朝焼けの光よりも強いその視線に、リソルは思わず息を呑んだ。瞬間、脳内に充満していた霧が晴れていくような感覚を覚える。フランジュの迷いのない真っ直ぐな言葉は、リソルがナマエに与えられなかったものだ。――捻り曲がって歪んだ遠まわしな言葉で囲おうとするより、真っ直ぐな言葉で射抜いたほうが良かったのか。けれどフランジュでない限り、自分はナマエに真っすぐな言葉を与えてやれない。首を振ったリソルは俯き、静かに思考を巡らせる。今、やれること。恐らく、自分にしか出来ないことを考える。

きっと、屋上に再び現れたという鍵穴は普通の解放のカギでは開けられない。ミランの時のように、強い意志を持って想域を進まねば、きっとナマエのところに辿り着けない。…この中で自分以外に、ナマエの深淵に至る手立てを持っている人間はいるだろうか。助けに行かなければという意思ひとつで、何の手掛かりもきっかけもないまま、想域に踏み込みあの場所は応えてくれるのか。


―――声に出さずとも、確かにあの人の心は、助けを呼んでいた。


「よし、早くみんなで武道場に――…」
「あ、ちょっと」
「なんだよリソル。解放の鍵は願いの想域にしかねえぞ」
「オレ、ちょっと考えがあるから、別行動にするけど文句ないよね」
「はあ?文句しかねえぞそんなの。なんだよ考えって」


案の定突っかかってきたアイゼルに、話すのは自分ではなくナマエの役目だ。割り切ったリソルはアイゼルから視線を逸らし、煽りではなく沈黙で返す。こめかみをヒクつかせたアイゼルがこちらに歩んでくる気配があった。生徒会長の立ち位置もあり、人を纏めることに適しているアイゼルがナマエ不在の今、リーダーとしての自覚を得ているのだろう。めんどくさい、やっぱ我らがリーダー様がリーダーのがやりやすいし、楽だし、


「余所見か、リソル?」
「ゴリラみたいな会長の顔見てるより、さっさと屋上を元に戻す方法考えてた方が有意義じゃん」
「おま…いいからとにかく、行くぞ。お前も大事な戦力なんだから、きょうりょ……ラピス?」
「……アイゼル」
「…どうしたんだよ、ラピス」
「………」
「アイゼル、リソルの別行動を認めてやってくれ。私もリソルと行くから、――と」
「はあ?なんで」
「……だめ」
「リソル、ラピスは譲らんようじゃぞ」
「……分かった、あんたならいーよ」
「お前ら一年生なあ…あーもう勝手にしろ!オレたちは先に想域に潜って、鍵探してるからな!」
「それじゃ、別々に行動するのね。私は何かあった時のためにここにいるわ。それじゃ、――フウキ委員、解錠せよ!」


いつものシュメリアの合図の後、気を付けろよ!と最後に言い残してアイゼルが一番に対策室を出ていく。クラウン、ミラン、フランジュがそれに続く。


「ねえ、なんでオレと一緒に来るわけ?」
「……たぶん」
「多分、私は役に立てる。ラピスはそう言っておるようじゃな」
「まあ、確かに、あんたが来てくれるのは助かるけどさあ」
「おお、そうなのか。流石ラピス、野生の本能じゃな」


頷くメルジオルに本当にそうだと心の奥底で同調したリソルは、対策室を出るべくラピスを先導して歩き出す。「二人共、気を付けてね!」「……まかせて」背後からのシュメリアの声に振り向いた、ラピスがシュメリアに頷いたのを見、リソルは対策室を出て早足で階段を上り始める。

――目指すは救護室。あの読めない臨時教員がきっと、本よりも確かな情報をくれる。


20161117