いつかのあのこのなみだのおあじ


――それが夢だと、すぐにナマエは理解する。

ナマエは走っている。ただただ真っ直ぐ、前だけを見て、崩れてゆく冥府の心臓から抜け出すために足を動かしている。背中が焼けるように痛みを訴え、じくじくと熱を持つ部分が脈打っていた。それでもナマエは、走ることしか出来ない。走らなければ飲み込まれ、死んでしまうことを知っていた。冥王の心臓で共に戦った、もうこの世を去ったあとでナマエと出会った友のために、ナマエは死ぬわけにいかなかった。

走りながらナマエは思い出していた。冥王と対峙した瞬間の、身体の芯から湧き上がる恐怖。フラッシュバックするのは、どうしたって忘れることの出来ない光景だった。兄弟の呆然とした顔。炎に包まれる見慣れた家と、焦げるにおいと、元は人であったモノが倒れ伏すいつもの道。
恐怖でうまく剣を握れないナマエは最初、冥王に弄ばれていた。冥王の鎌が服を、肌を切り裂き、やがてナマエの背に六芒星が浮かび上がったその時に、呪いはナマエのなかに刻み込まれたのだ。ようやく辿り着いた最果て、冥府の心臓でこんなにも容易く、自分に負け冥王に負け、志半ばで朽ち果てるのか。剣を取り落としたナマエが激痛に苛まれる意識のなかで見たのは、必死に自分に手を伸ばす、もうひとりの自分だった。孤独な旅路、孤独な戦い、――そうではなかった。ナマエが生きることを諦めたとき、もう一人のナマエも死んでしまう。若くして、志半ばで、掴み取れなかった夢に焦がれたまま。

――死ぬわけに、いかない。


「…っ、は」


目が覚めたとき。夜眠る直前。呪いの獣と対峙している、今この時の瞬間――悪夢から現実に引き戻される度、その決意が今も胸の奥で息をしていることに、ナマエは心から安堵するのだ。

闇の奥に引き摺り込もうとする悪意が、ナマエを手招きしている。体から零れ落ちた血は、身体の外に出た瞬間、自分のものではなく目の前のバケモノのものになる。吐き出した息のなかに、微かな血の匂いが混じっていた。呼吸をすることさえ、バケモノの力をより高めることになっていても、ナマエは生きていねばならない。
対峙する呪いから生まれたバケモノは、日を重ねるごとに強く、強くなっていく。そして冥王の面影をより鮮明に、浮かび上がらせるようになっている。精神がすり減り、どうしても体に染みついて一生取れることのない恐怖が、ナマエの心をぐらつかせる。鎌を構えたバケモノが、そんなナマエの魂を刈り取ろうと容赦なく襲い掛かる。

ぎいん、ぎいん――…武器と武器の衝突する音が、耳の奥でずっと響いている。それは冥王と戦ったときから、ずっとナマエの耳の奥で響いている。気が狂いそうになるほど、長い時間その音を聞いている。
バケモノの動きをしっかりと読み、呼吸を整え――…戦闘の空気を支配下に置いたナマエは迷いのない、完璧な流れで剣を横に凪いだ。鮮やかとも見えるその剣技に、今宵の勝者が決定付けられる。視界の隅で吹き飛んだバケモノの頭部が一瞬で霧となり、夜のなかへ消えていくのを見送ったナマエはひとり、ほっと息を吐いた。ナマエを閉じ込めていた結界が消え去り、真実の世界に降り注ぐ月光が。ナマエの姿を宵闇のなかに見つけ出す。

リソルに助けられた時と違い、今夜のナマエは冷静だった。そもそも学園で、あんなタイミングで、呪いに牙を向けられることはナマエにとって想定外だったのだ。
動揺が戸惑いを産み、普段の調子を崩す。場所が学園内だったこともあり、ナマエは普段通りに動けず、バケモノに弄ばれていた。それは嫌でも冥王に弄ばれ、呪いを刻み込まれた瞬間のことを思い出させていた。

…リソルが来なければ、ナマエは死んでいたかもしれない。肉体的にだけでなく、精神的にも。恐怖に支配された記憶のなかで、たったひとりで。


**


「はあ、お礼?」
「そう。リソルは私の命の恩人だもの。そういえば何も、お礼してなかったなって」
「いらない」
「うーん、じゃあベスのカレーパンでいい?」
「……アンタの命って、ベスのカレーパン程度なんだ」


購買で偶然鉢合わせたリソルは一刀両断、ナマエの申し出を断ったくせにナマエがベスのカレーパンを購入し、差し出してやるとまあくれるんならもらっとくよ、と言葉を濁してそれを受け取った。時刻は昼、昼食を求める生徒たちで購買部はそこそこ、賑わっている。ホイミンやきそばパンを抱えたリソルとなんとなくの流れ、一緒に昼食を取ることになったナマエは食堂でバランスパスタを頼み、二人掛けのテーブルにリソルと向かい合って座った。非情に面倒臭そうな顔でホイミンやきそばパンを頬張る、リソルがナマエを睨みつける。


「やっすい口封じ代」
「でも口封じしなくても、リソルは言わないって思ってるよ」
「それって腹の底じゃ絶対言うなよ、って言ってるじゃん」
「…まあね」
「言うかもしれないじゃん、ちゃんと分かるように釘刺さないと。ぽろっと、さ」
「リソルは言わないよ、面倒なの嫌いでしょ?」
「アンタなんかにオレを分かった風に言わないで欲しいんだけど」
「…分かってるよ。面倒なのが嫌いなら、わざわざ一人で教室解放して回ろうなんて思わないこと」
「オレが面倒事嫌いって言葉の、真意は?」
「それこそリソルは分かってるでしょう。私はリソルが面倒事を嫌いな性格の方が、都合がいいの」
「アンタの都合通りに動いてやる義務も義務もないことについては?」
「……リソル、私のために頑張ってくれるって言ってるみたいだよ、それ」
「…は、自意識過剰もいいとこだね、バッカじゃないの?土下座して助けてくださいって言われたら話は別だけど」
「しないよ」
「なら別に、今まで通り、何もなかったようにしてれば」


食堂の隅で二人の交わす言葉は欠片すら残らず、喧騒のなかに消えていく。ナマエの持つ番号札の番号は呼ばれず、ナマエの昼食のパスタはまだ完成しない。


「みんながね、リソルの様子がおかしいっていうんだけど」
「オレはいつも通りだけど、なにがおかしいの」
「元気がないとか」
「自意識過剰なリーダー様はそれで、私のせいで悩んでる!とか言いたいわけ?」
「そういうことになるかなあ」
「脳筋生徒会長より救いがないね」
「アイゼルは聡いひとだよ」
「…信頼してるならそれこそ、頼ればいいじゃん」


リソルの呟きに似た小さな言葉が、ナマエの脳の奥を殴る。

食券と引き換えに受け取った小さな番号札を、ナマエは強く握り締めた。もし、ここで、出来た仲間に、自分のことを語ったとして、距離を置かれることはきっとない。寧ろ自分達も協力するから、その呪いをどうにかしようと言い出してくれる。間違いなく、全員がナマエの為に動くであろうことを、他でもないナマエ自身が一番良く知っているのだ。その全員の中には当然、目の前のリソルも含まれている。


―――リソルに、頼れと言われるなど。


「……頼れないや、ごめんね」
「…ほんっと、センパイは救いようのないバカだね。オレ本当に、何も見なかったことにするから」
「うん、ありがとう。…ごめんね、一番弱いくせに、リーダーなんて」
「ほんとだよ。やめちゃえば?オレが代わりに仕切った方が、余程上手く回る気がする」


隠されようともしない言葉の棘が、ナマエの心にざくざくと突き刺さる。しかしその痛みは、リソルの誠意を、裏切った代償であることをナマエ自身がよく理解していた。不器用なリソルが言葉を探り、助けを求めろと言っていたのに、ナマエは自らの意志でそれを跳ねのけたのだ。自分は部外者だからだとか、巻き込むのが嫌だとか、理由は探せば探すだけ、湧き出し溢れ返すくせに、全て言い訳じみている。単純にナマエは見栄を張り、弱い自分を張りぼてで覆い隠しているだけなのを知られるのが恐ろしいのだ。臆病者で恐怖に苛まれ、夜眠るたびに討ち果たした敵の幻に囚われる自分を、晒すのが恥ずかしい。はずかしい。おそろしい。…弱いからいらないなんて、言われるはずないのを知っているのに。

――本当に、フウキのリーダーを下りた方がいいのかもしれない。


「呼ばれてるけど」
「……へ、」
「だから、アンタの昼飯。パスタ。伸びる前に早く取りにいきなよ」


ナマエの脳裏を嫌な考えが過ったと同時、リソルが知らせたのはナマエの札の番号がカウンターから呼ばれているという、なんとも現実的な情報のひとつだった。すぐに我に返ったナマエは立ち上がり、上手く回らない頭でカウンターからパスタを受け取り、フォークを持って席へ戻る。

リソルの姿は、どこにもなかった。


20161112


――フウキのリーダーを、降りた方がいい。

それがリソルの心からの本音でないことなど、ナマエはちゃんと分かっている。分かっているけれど確かに、言葉は心臓を突き出した。リソルからやめちゃえばと突き放されるほどに、ひどいことを言ったのはナマエのくせに。

傷付く資格を、持っていないくせに。

ナマエはフォークを手に取って、心臓に見立てたパスタにそれを突き刺した。今更、助けて欲しいと言いたくなっているなんて、縋りたくなっているなんて、誰にも悟られてはいけなかった。

痛みを訴える心臓よ、どうか、死んでその声を途絶えさせてくれ。泣き叫びたい衝動よ、どうか、殺されて沈黙に支配されてくれ。ここにいるのは恐怖に抗い、生きていなければならないという使命感だけで、地面に立つ生き物なのだ。