彼はきっと氷の宮殿で待っている


「…アンタは来ると思ってたよ、センパイ」


旅の扉に飛び込み、講堂に出たナマエを待っていたのは、静かに笑うリソルだった。ぼんやりと、ぼんやりと―――…リソルが待ってくれている期待をしていたナマエもリソルに釣られて少し笑い、檀上で足を止めた。見上げるリソルと、見下ろすナマエの距離は、いつもより随分と遠い。


「アンタがさ、一番みっともない顔してる」
「…そうかな」
「今の"盟友"なら、オレ一人で十分殺せそうだよね」
「……そうだね」
「否定しないんだ」
「盟友が強いのは、リソルのおかげだって今、再認識させられてるところ」
「へえ、それで?」
「…私は、どんな姿でも、リソルを受け入れたい」


行かないで、と紡いだ唇から溢れた声は、掠れて少し、震えていた。「…ビビってんじゃん」「…そうかも」怯えを肯定し、でも本当だからと、目を細め、口端を上げ、笑おうとしてみせるナマエを見ている、リソルの瞳が呆れの色を宿す。

こんなことになるまで気が付かなかった、自分も余程だとリソルは思う。手を離す時が来てもきっと、すぐに忘れるだろうと言い聞かせていたあたりから、踏込みすぎている気配はあったが、――本当に引き返せないところまで、ナマエのなかに踏み込んでいたことを知る。それは同時に自分の中に、ナマエを受け入れていた証明でもあるのだ。

――まるで、あの時と同じ。

今、リソルの目の前にあるナマエの顔は、冥王の幻影に蝕まれていた時のナマエの表情に似ていた。いつも毅然としていたナマエが、心を揺らがされ、ただの弱い生き物になっている姿に、軋む心臓を魔族が、自分が持っていていいのか。間違いなく魔族として人間に抱く感情ではないそれを、捨て去ってしまえないせいで足を止めたのだ。引き留められることを心のどこかで期待して、ナマエの行かないでという小さな願いに、狂おしいほどの喜びを得て、でも。


「でも、ダメだよ」
「…どうして、」
「アンタはまあ、オレのことは忘れて、他のヤツに幸せにしてもらいなよ」
「リソル、」
「オレはフウキをやめる。…アンタがいくら強かろうと、魔族と人間は一緒にいられない」


身体の奥からふつふつと湧き上がる、抑えていたせいで今にも爆発しそうなこの力を抱えて、――強いくせにいつだって自分の前でだけ、ただの少女に戻るナマエと、一緒にいられるはずがない。幸せになれない。幸せにできない。我を忘れて殺すかもしれない。…返り討ちにはされないだろう。ナマエはリソルのことを、心から信頼している。間違いなく、受け入れられてしまう。

――それが怖いなんて、どうして言える?


「魔族と人間が一緒にいられないなんて、」
「ナマエ!――リソル!」
「…はい、タイムオーバー」


ナマエの反論を掻き消すように、ミランの声が講堂に響く。

檀上から飛び降りようとしていたナマエは旅の扉から、フウキの面々が現れるのを見、勢いを失って足を止めた。――次の瞬間、リソルの纏う雰囲気ががらりと変わる。揺らぐ殺気にナマエは思わず一歩下がった。…これほどに強烈な殺気で、リソルは何を隠そうというのだろう。本当の声を隠す必要なんて、どこにもないのに。


「フウキはやめるって言っただろ」
「そんな勝手は許可無しに認めるわけにはいかねえ」
「何様のつもり?この後に及んでまだ、オレをメンバー扱い?…随分とナメられたもんだ」


リソルの意地は強固な壁として、ナマエ達の前に立ち塞がる。本当はリソルがどうしたいか、きっと全員が分かっている。あとはリソルが一度、たった一度、頷くだけでいいのにと、ナマエは思わず手を伸ばした。鋭い視線がどこか、苦しそうにそれを見た気がしたけれど、リソルは殺気を緩ませることはない。それどころか恐ろしい量の魔力を、その身に纏い始めている。――ナマエとラピスは息を潜め、その魔力の流れに耳を澄ます。


「オレは人間じゃない!魔族だ!下等生物は下等生物らしく、オレに怯えて逃げ出せよ!」
「リソル、…今だけでいいから素直に話を聞けよ」
「イヤだね。お前らみたいなクズに付き合うのはもう飽き飽きだよ」


目を逸らしてそんなことを言ったって、説得力なんてないことを、リソル自身がきっと、一番よく知っているのだろうとナマエは思う。「…人間共に会わせてチカラを抑え込まなきゃならないし、正直苦痛だったんだよね」「いっそバレてせいせいしたね」「これでフウキのばかばかしい活動に、付き合わなくて済むと思うと最高の気分さ」――言葉を紡いでいる、リソルがきっと、一番苦しんでいる。それが手に取るように分かるせいで、ナマエの心がぎしぎしと、嫌な音を立てて軋む。


「本当に、それがキミの本心なのか?」
「何が言いたいの、王子サマ」
「キミは、…僕たちを仲間だと思っていたからこそ、今まで一緒にいてくれたんじゃないのか?」
「本心に決まってるだろ!アンタらにはずっとイライラしてたんだ!」
「でも、僕たちを助けてくれただろ。さっきだって、魔物の炎から僕たちを庇ってくれたじゃないか!」
「…っ」


ミランの放った言葉は、リソルの言葉を詰まらせた。視線を逸らし、リソルは少しだけ言葉を探す。「………これ以上、アンタらと話をしても無駄だ」口から紡がれたのは逃げの言葉で、誰もがそれに納得できない。


「お願い、…ちゃんと話し合えば、きっと分かり合えるよ。…今、そっちに」
「寄るな!――クズども!」


――激昂の声と共に、思わず目を細めるほど、恐ろしい量の魔力が吹き出す。

呼び掛けたクラウンはその声に、本能的な恐怖を感じたのか、びくりと身体を震わせた。落ち着いて、とリソルに声を掛けようとナマエはクラウンの代わりに一歩、踏み出し―…「近付くな」…リソルの低い声に牽制され、動きを止める。「この姿のオレは、抑えが効かない。…指一本でも触れたら、」アンタでも多分、容赦しない。視線と魔力が孕んだ、恐ろしいまでの殺気がナマエの肌に突き刺さる。


「お前、本気なのかよ!?ナマエとだって、あんな!」
「私達はもう、…元に戻れないんですか?」
「オレは魔族で、アンタらは人間だ。決別する理由なんて、それだけで充分だろ?」

「…オレ達は、絶対、一緒にいられない。これ以上傍にいたらオレはアンタらを…ナマエを」


最後の声を、ナマエはその耳でしっかりと、全て聞き取った。

檀上から飛び降りるのに、迷う必要があるだろうか。「リソル、」「…っ」伸ばした腕は一歩下がった、リソルにより空を切る。「近付くな!」「死なないよ、私は!」「クソ、この、」…忌々しいと言わんばかりの声は、やはりどうしたって苦しみの色を帯びている。我を忘れそうになるほどの魔力を、抑え込んでいたそれを、解放させたきっかけが自分の我儘だと、ナマエはよく知っていた。だから、諦めるわけにはいかない。「……センパイ、は」…微かな呟きと共に、リソルの赤い瞳が怯えに揺れた。次の瞬間、殺気がナマエの心臓を視線と共に貫く。武器を抜きたくないナマエは、静かな視線でそれに応じた。一瞬、時が止まったかのような沈黙が講堂を支配する。


「…このような事態に、なってしまうとは」


――時を動かしたその声は、静かな足音を携えて、訪れる。


20170705