玉手箱は開けない方が幸せでしょう


――特にお前だ、ナマエ

シナイジッチから向けられた明確な悪意に怯むことなく視線で応じたものの、その時ナマエの心はクラウンのことで迷っていた。今まで共有してきた時間は、共に笑い合った、切磋琢磨した日々が全て偽りだったなどと、ナマエはどうしたって信じたくなかった。その迷いを抱えたまま傷を負えばおそらく、それはナマエの心にまた、深い傷を刻むことになっただろう。
だからこそクラウンがシナイジッチの杖を破壊したときはクラウンのその行動に安堵したし、全てが偽りと成らなかったことに感謝した。ナマエは大切な仲間を本当の意味で失わなければ、いつだって強くあれる人間だった。石化したクラウンに動揺はしたが、シナイジッチの一派に刃を向けることを躊躇わなかった。


「ナマエちゃん、あーん」
「あ、あーん……ん、おいしい」
「ふふ、よかった!ほらほらもっとあるよ、たくさん食べてね」


対策室のソファーに隣り合って座り、クラウンお手製のメギス鶏のから揚げを口に運んで貰いながら、ナマエは先日の出来事に思いを馳せる。ナマエが上の空でクラウンに甘やかされていることに、気が付いているのは部屋の隅で、普段より悪い顔色を取り繕っているリソルぐらいだ。ちなみにクラウンの溺愛っぷりは、先日の件のお礼とのことで、ここ最近頻繁に見るものになっていた。外部の人間どころか内部の男さえも踏み込めぬその空間も、見慣れてしまえば日常の一部である。

結局、ナマエ達はオデット達を捕らえたものの、肝心のシナイジッチを取り逃がしてしまっていた。クラウンの石化の呪いは解けぬまま、誰にもどうすることも出来ぬままだと思われていた。ひとまずの対策として石像と化したクラウンは、保険医エリシャのように、学園長の知人の元へ解呪のため送り出される予定だったのだ。――実際、そのつもりでフウキの面々は暫しの別れのために、石となったクラウンの周囲に集い、別れの言葉を紡いだ。…リソル以外は。


『もし、アンタにタヌキ先輩を治すだけの力があったとしてさ、』


――リソルの問いが、ナマエの脳裏に蘇る。口の中で広がる、唐揚げの塩味が薄れていく。


『でも、そのチカラを使うと命を落とす危険があるんだ』
『……リソル、私いま、そんな話ききたくない、よ』


シナイジッチの強い恨みを買っていた自覚を覚えていたナマエは、恐らくアイゼルと同じぐらいに、若しくはそれ以上に自分の力不足を嘆いたのだ。ナマエの大切な場所を守るためにクラウンはこんな姿になってしまったのだと思うと、ナマエは喉が焼けるように熱かった。…いくら力をつけたって、いくら魔力が上がったからといって、こういった時に得た力が役に立たないのでは、強くなった意味が無いではないか。ナマエは大きな無力感に、クラウンに守られた事実に、大きな悲しみを覚えていた。リソルのもしもの話は、そんなナマエに淡い期待を抱かせるようなもので、ナマエは聞きたくないと首を振る。――リソルは、そんなナマエの主張を無視して、いいから、と言葉を続ける。


『…それでもアンタは命を懸けて、タヌキ先輩を治すだけの覚悟があるかい?』
『あるよ。…あるに決まってる。だから、無力な自分が今、一番許せない』
『……そっか』


二人の間に降りた沈黙は、それなら、とリソルが紡いだ言葉で破られた。二人きりの講堂で、リソルと名前は約束を交わした。固く、固く。

――これから見ることは、誰にも言わない

リソルの周囲に濃い魔力が集っていることに気が付いたナマエはしかし、黙って脳裏で約束を反芻し、待った。紫色の瞳が揺らめき、ナマエを射抜いた。やがてリソルの身体を包み込んだその魔力は強い光を放ち、リソルの髪から色素を奪い、瞳の奥に灼熱の炎を燈した。揺らめく濃い血の色は、人間の身体では出すことの難しい色素だった。


「ナマエちゃん、ぼーっとしちゃって…あ、唐揚げばっかりじゃ飽きちゃう?」
「う、ううん、そんなことないよ。お腹いっぱいになってきたかな、って」
「ご飯食べたあとって眠くなるよね!今日は膝枕のサービス付きだぞ」
「タヌキ先輩のことが好きな物好きにでも聞かれたら、センパイ恨み買いそうだねえ」
「こら、リソルくん!ナマエちゃんを独占されてるからって、ヤキモチ焼かない!」
「はいはい、せいぜいタヌキ先輩は束の間ナマエを独占してる優越感に浸ってなよ」


まったくいつも通りを装う、顔色の悪いリソルが肩を竦め、手を振りながらお邪魔みたいだし、とフウキの対策室を出ていく後ろ姿が、ナマエの喉に言葉を詰まらせた。――表向きには学園長が何等かを察し、クラウンの石化を解いたのは学園長自身だということにしてくれているが、真実は違う。目を閉じれば今もありありと鮮明に浮かぶ、リソルの"人間ではない姿"がナマエの思考のほぼ全てを縛っている。


――強めのチカラを使うと、こんな風に元の姿に戻っちゃうんだよね


軽い調子で魔物のような姿のリソルの口から紡がれた言葉に、ナマエはどう言葉を返していいのか分からなかった。リソルの両手に集った光はナマエにとっても未知な、人間の扱う魔力とはまったく違った類のにおいを孕んでいたし、……何より禍々しいツノと美しい銀の髪、燃える深紅の瞳。魔族のようだ、と直感的にそう感じたナマエの脳裏では、冥王の嘲笑が蘇った。しかし不思議なのは、そのリソルが例え魔族のようななりをしていても、普段のリソルとまったく違うのに、それがリソルだというだけでナマエの中に恐怖心を生まなかったこと。
そしてナマエはようやく、リソルがどうしてあの時、自分の中に入って来れたのか、リソルがどうして誰よりも自分の願いを理解していたのか、その理由を知ったのだ。想いを持ち、誰も踏み込めなかったナマエの心に踏み込めたのは、……人では無かったから。なのにこれほどの力を持ちながら、無理矢理にこじ開けるのではなく、人として考えた果てで。ナマエのなかで堪えきれないほどの愛おしさが痛みとなり、胸を締め付ける。――リソルは、たぶんリソルは、誰よりも人の願いに近しい場所にいて、だから、…優しいこの子は今も私のクラウンを助けたいって願いを、


『今回のコトはふたりだけの秘密だからね。…約束だよ?』

「……やくそく、」
「うん?ナマエちゃん、何か言った?」
「…ううん、なんでもない。寝言みたいなもの」


20170509


ナマエは知らない。リソルが一人、力の代償に苦しんでいることを。

ナマエは知らない。リソルがそれを、ひとつも後悔していないことを。

しかし、ナマエは一つだけ知っている。自らを見つめるリソルの瞳が出会った頃とは大きく違う、愛おしいものを見るものになっていることを。リソルが自らを深く想っていることを知っている。
故にナマエは月の美しい夜、遠きレンダーシアの方へ窓を開き、夜空を見上げてリソルの横顔を思い浮かべた。リソルに会いたくて会いたくて、たまらない日々が緩やかに過ぎていく。学園長からの手紙を心待ちにしながら、盟友は今日も世界を駆けるための眠りにつくために、そっとベッドを振り向いた。

――いつかリソルと二人で、静かに暮らせたのなら。