エンドロールから逆再生


「……っな、んだよそれ」


目の前の、"先輩"は口を噤んだまま、目を逸らして沈黙を貫く。

リソルは得体の知れない感情に、体中を支配されている感覚を覚えた。目の前の光景は未だ封印の数多く残る、しかし平和を徐々に取り戻してきている学園の中では見慣れることのないものだ。異様で、歪な、悪意だけが目の前の存在を蝕んでいた。気持ち悪いでしょう、と自虐気味に微笑んだ声はリソルの言葉を何一つとして求めていない。ずたずたに引き裂かれた制服と、敗れたシャツの隙間から覗く白い肌に刻まれた、呪いの刻印は今にも全身を飲み込み、その存在を消し去ろうと脈を打っている。


「見ての通り、私ちょっと呪われてて」
「はあ!?何、ちょっと呪われてるって!」
「…返す言葉もないし、本当に間抜けだけど、運はいいんだよ」
「なんで?バカじゃないの、運がいいとか。さっきだって、」
「ここに来たのがリソルだったから」


主語のない言葉で後輩を惑わす、悪い先輩がようやくリソルと目を合わせた。数十分前、顔を合わせたときにこのような光景を見ることになるなどと、流石に誰も想像さえしなかっただろう。

フウキ委員の収集がかかったとき、シュメリアの指定した時間より早いうちにナマエがフウキの対策室に居るのをリソルは知っていた。知っていた上で今日も、ナマエに掃除を押し付けにきたのだ。今日こそ労わってあげるよという、甘言の皮を被った嫌がらせ。いつものように騙されると分かっているくせに、嫌がらせだと知っているくせに、ナマエはいつものようにリソルの当番である美術室の掃除を引き受けた。普段のナマエの掃除スピードと美術室の広さを計算したリソルは、集まりの時間の五分前にはナマエの掃除が終わるだろうと踏んでいたのだ。

ところが他の面々が集い、約束の時間を過ぎてもリーダーであるナマエが現れない。刻一刻と時間が過ぎ、待っていればそのうち来るだろうという雰囲気は消え、必ず一番先にこの部屋で待っているはずのナマエがいないことに、全員が疑問を抱き始めた。誰か何か知らないかと問うミランに、リソルは素知らぬふりをした。ナマエが教師に見つかり、何を言われていても構わないが、自分に火の粉が掛かるのは困る。やがて全員でナマエを探しに行くことになったときも、リソルの頭の中は"ナマエに接触した教師が誰によるかで対応が変わる"といったことでいっぱいだった。とにかく美術室に足を運んでみないことには、ナマエがどうなっているのか分からない。まあ何があっても伝説の転校生ならなんとかなるでしょ、と軽い気持ちで美術室の扉を開けたリソルが、見たのは禍々しい魔力で美術室を結界に閉じ込め、濃い闇で体中を満たした魔物だった。

魔物の身体を現世に繋ぎ止める、根本の魔力の元がその魔物と対峙する、傷だらけのナマエが流す血液から溢れ出しているのを見た瞬間、本能がリソルに武器を抜かせたのだ。切り裂いた結界の隙間から戦闘空間に飛び込んだリソルは、ナマエの隣に立ち魔物と対峙した。放り出すという選択肢もあったかもしれない。傷だらけのリーダーが戦い、気を失う寸全で勝利する光景をその場に佇み待つという選択肢もあったかもしれない。しかし、リソルはそうしなかった。リソルの隠し持つフウキの証が、それをさせなかったと言った方がいいのか。
魔物の断末魔は、リソルの槍によって齎された。魔物の完全な消滅と同時に、ナマエとリソルを閉じ込めていた魔力の結界が消え、美術室が元の壁に、床に様々なにおいが染みついたあの空間へと戻っていく。

ここでようやく、リソルはナマエに問うことができたのだ。その怪我はなんなのか。肌に刻み込まれた、そのしるしは何の証明なのか。呪いだと返され、困惑するリソルにナマエがらしくない顔だね、とリソルをからかう。どうして、そんなに余裕なのか、リソルにはよく理解できなかった。ナマエはどうして、自らの身体から生まれた呪いの魔物と戦い、傷だらけになっているのか。どうして、迷いなくその怪我を自ら治療魔法で治しながら、見られて良かったなどと言っているのか。


「約束の時間に遅れちゃったから、心配して見に来てくれたんだ」
「別に。ノロマな先輩が何やってんのかって思っただけ。…ああ、他の奴らが心配してたよ。いつも時間を守るリーダーが来ない〜って」
「あー、それは悪いことしたなあ…」
「…いつも思うけど、なんで攻めないの?あんたの仕事じゃなかったじゃん、掃除」
「リソルにはいつも戦いの中で助けられるから、いいよ」
「戦闘の借りは戦闘で返してよ、センパイ。やっぱマヌケだし、バカだよあんた」


そうかもね、と小さく呟いたナマエの自虐はリソルにも聞こえていた。「…ありがと、リソル」「はあ?」「リソルのそういう、はっきり言うとこ嫌いじゃない」微笑んだナマエは、リソルにもう一度、ありがとうと小さく礼を言う。とうとう困惑で、罵倒以外の言葉を見つけられなくなってしまったリソルは黙り込んでしまった。視線はずたぼろの制服から覗く、白い肌を這う悪意の象徴。

彼女は気づいていないのかもしれないが、リソルは以前ほどナマエのことを敵意を以って見ないようになっていた。気が付いているのは、ナマエ以外のフウキのメンバー全員かもしれない。これほどまでに突き放すような言葉を重ねても、嫌味を連ねても、騙しても馬鹿にしても笑みを崩さず、感情の何一つ揺らがずにリソルに接してきたナマエのことを、リソルは精神的な支柱として見るようになっていた。つまり、頼りにしていたのだ。それが自分の知らないところで受けた呪いに、苦しんでいる。


「…なんで"リソルで良かった"なの」
「リソルは言わないから」
「は?」
「このことを誰かに報告して、リソルには何の得もないでしょう。リソルがわざわざ、自分の得にならないようなことをするとは思えないから、良かったって思うの」
「……それってさあ、バカにしてる?」
「信頼してるの」


誰にも言わないでなんてお願い、しなくて良さそうで本当に良かった。

心からほっとしたと言わんばかりのナマエの全身を、淡い緑色の光が包み込む。覗いていた黒い刻印は薄れ、肌の白さの上ですっかり溶けて消えていた。ばらばらに対策室に戻ろうかと微笑むナマエのその顔から、リソルは目が離せない。


201611017


対策室に戻ったリソルが見たのは、真新しい制服に身を包み、何事もなかったかのような顔で定位置の椅子に座り遅いよリソル、と微笑むナマエの姿だった。既にリソル以外のメンバーは対策室に戻っており、そんなに必死に探してたのかそうか、とアイゼルが嬉しそうにリソルを見て笑った。そんなんじゃないと否定するリソルの顔に違和感を抱いたのは、事情を知っているナマエと、他にはどうやらラピスだけのようであった。