其の二


落ち着いたコロネを会議室にそのまま残し、ナマエは第一本校舎前のテラスまでやって来ていた。あずま屋には丁度人がおらず、ナマエは静かなその空間から遠くに見える海を眺め、微かな波の音にほっと息をつく。

コロネ曰く。

想いのテラスにはキューピッドさんと呼ばれる"なにか"が居るらしい。キューピッドさんはあずま屋の南側の柱を三回叩くことで現れ、コロネの恋愛相談に乗ってくれていたという。
ところが最近、何度柱を叩いても、何度テラスを訪れても、キューピッドさんと話すことが出来ないのだとコロネは語った。相談も出来ず、不安が募り、どうしようもなくなってしまったのだと泣きつかれ、ナマエはキューピッドさんについて何もかも調べることを約束してしまった。元々お人好しな上、人の涙に弱いナマエである。恋する乙女のお願いを、無碍にすることはまあ、無理な話だった。しょうがなかった。誰かの頼みを引き受け、解決してきたことが積み重なり、ナマエはここにいるのである。

それにキューピッドさんにナマエ自身も、興味を抱かずにはいられなかった。ポケットに忍ばせたのは例の手紙、相談事は勿論、この手紙と、リソルのこと。リソルに気を遣わせたままでいいのかということ。リソルに好きだと、一生を共にしたいと願っていることを伝えてもいいのかということ。…自分を好きになったという物好きに、どう返事をすべきかということ。
フウキの仲間に(勿論、リソルを含む全員の内の誰かに)相談するという手もあるのだが、間違いなく大騒ぎになるだろう。リソルの機嫌も損ねたくないし、しかし誰にも相談しないまま○日を迎えるのもおそろしい。何よりどうすればいいのか分からない!そんなところにキューピッドさんである。コロネに深く感謝しながら心臓を高鳴らせ、ナマエは拳を握り、テラスの南側の柱の前に立った。すう、と深く息を吸い込む。そして、


―――こん、こん、こん。


―――…………。


―――こん、こん、こん。


――――……………。



「………」


反応、無し。いや反応がないからコロネはナマエに相談してきたと分かってはいるのだが。


「…もう一回、やってみようかな」


―――こん、こん、こん。


―――…………。


―――こん、こん、こん。


――――……………。


――ごん、ごん、ごん!


耐えきれなかったナマエの気合い三回分。反応、無し。やはり学園七不思議的なものには縁が無かったかと、諦めたナマエが別の場所に聞き込みにでも行こうかと思い、踵を返したその時。何やらガサガサ、と小さく何かが動くような音が、ナマエの耳に飛び込んでくる。
やはりキューピッドさんは実在するのか!ぜひとも私の相談にも乗ってください!思いっきり振り向いたナマエはもう一度だけ、柱を叩いてみることにした。こん、こん、ごん!


「わ、っ」


丁度ナマエの頭上に、落ちてきて跳ねたのは感覚からして、紙束。降ってきたそれをなんとか手の中に収めたナマエは、それを見てあら、と思わず目を見開いた。馴染みのある色と質感、それは生徒手帳だった。もしやこれはキューピッドさんの生徒手帳…期待に胸を膨らませたナマエは、持ち主を探るべく手帳の最初のページを捲る。この手帳の持ち主は、ええと、T―スペーディオの………


「ん、んん!?」


ナマエは再度目を見開き、手帳の持ち主を少なくとも三回は確認した。名前と写真をそれぞれ三回は目を閉じ、開き、確認した。テラスに人がおらず、ナマエの奇声を聞く者はいなかったのが唯一の救いといえば救いか。――そんなナマエの脳内は、疑問符が埋め尽くしている。なぜ。なぜ。


「……リソルの生徒手帳が、なんでここから」


生徒手帳があるということは、リソルがここにいたということ。そして自分は相手をリソルと知らず、リソルにリソルの相談を持ち掛ける可能性があったということ。
恐ろしい可能性にナマエは思わず黙り込んだ。キューピッドさんに頼ったなんてリソルに知られたら…なんて言われるだろう。ナマエにはそのあたり、よく分からない。関係性が変わってしまったから、よくわからない。


「よし、無かったことにしよう」


ナマエは何も考えないことにした。キューピッドさんに相談するのはナシナシ!いやあ危なかった、危なかった。口に出していないのでセーフ、ラブレターの秘密は守られている。
現実から逃避気味、ナマエはリソルの顔写真が映るページを再び開く。貴重なリソルの真面目な表情は、"あの時"のことを思い出させた。記憶のなかで今なお鮮やかに、蘇るリソルの真剣な表情の理由が自分だった事実、それだけで心臓が歓喜に震える。誰かの一番であるのなら、それが誰だっていいわけじゃないと、ナマエに教えたのはリソルだ。リソルだからこそ、ナマエはきっとあの深淵から抜け出せた。目覚めたとき、それはナマエの世界が色鮮やかに、大きく開けた瞬間。

だからこそナマエはリソルを大切に、大切にしていたいと思うのである。


20170119