私だけの優しい世界


「……へ?リソルと私が、キス?」
「えっ」
「えっ?…クラウン先輩?」
「や、もしかしてナマエちゃん、やっぱり記憶ないの?」
「……キス?リソルと私が?」
「あ、もしかして初めてだったとか、」
「…………………………………」
「あらリソル君ったら、ナマエちゃんのファーストキスをナマエちゃんの許可なしに…強引!?強引ね!?ナマエちゃんっ!君は少し強引なくらいが好きなんだね!?ああもう!アイゼルとミラン君が知ったらリソルくん、どうなっちゃうのかしら!アイゼルを応援したいけどこれは、リソル君を応援してたラピスちゃんに負けちゃったかな!?」


ハイテンションなクラウンの女子トークは、ナマエの耳を右から左へすり抜けていく。

体中の至る所を包帯で巻かれたナマエは呆然と、虚空を見つめて恐ろしいクラウンの言葉を飲み込もうと躍起になっていた。
屋上再封印事件から数日。
救護室で怪我を癒すべく、三日三晩寝込んだナマエが目を覚ましたことにより、ようやく学園長とシュメリアからフウキ委員に限り、ナマエとの面会の許可が出た。授業が終わったメンバーから顔を出すということで、放課後一番に救護室にやってきたのはクラウンだった。元気になって良かったとはしゃぐクラウンが、リソル君の愛のパワーだね!などと言い出したあたりから、ナマエの中で心臓が破裂しそうなほどに音を上げている。


「…リソルと?」
「あらあら、本当に信じたくないんだ」
「いや、リソルが…私に?」


あまりに信じられなさ過ぎて、本当はネルゲルの影に取り殺されてここは冥府ですよと言われた方が信じられるぐらいだ。いや、なんでキス?どうしてキス?何のために?えっ、えっ!?


「混乱してるなあ、ナマエ」
「あ、アイゼル……アイゼルも見てた、の?」
「おう。とりあえずあのガキ、シメてやんねーとな」


次いで、救護室に入ってきたのはアイゼルである。…入ってくるなり物騒な言葉を聞いた気がしたが、ナマエは流すことにした。今は構っていられる余裕がない。ファーストキス、今までの人生でキスだのなんだの、そういった普通の女の子に関わりのある行為に限りなく縁遠いところにいたせいで、ナマエはどうすればいいのか分からなくなっていた。とにかくリソルと話をしなければと思うものの、リソルのことを考えるたびに顔が熱を放つのは何故なのか。…いやまさかそんな。恋しているみたいだなんてそんな。戦いの中に生きる宿命背負って、恋とか。まさかそんな。


「………なんでキス?」
「知るかこっちが聞きてえよ!わけもわかんねえまんま、ナマエのこと抱き締めてるリソルのやつをあの魔族から庇おうと、フランジュが飛び出してクラウンが弓矢で鎌弾いて――…んで、ラピスがお前とリソルを自分の傍に運んで。お前だけじゃなく、リソルも気ィ失ってたからびびったんだよ。んで、あの魔族はこっちに標的定めてくるだろ」
「そ、そう!ネル…――っ、あの魔族の影はちゃんと消えた!?」


「消えましたよ、ちゃんと見届けましたもの、私達」
「…ナマエ」
「すごかったと言っておるようじゃ」
「やはり伝説の転校生は違うな、ナマエ。素晴らしい剣技に圧倒されたよ」


ナマエが叫ぶように投げた質問に、答えを返したのは救護室に入ってきたフランジュ、ラピス、ミランだった。「…っ、」「わ、ラピス!?」静かな足取りで救護室に入ってきたと思いきや、ナマエと目が合うなり早足でナマエの元に歩みよったラピスが、ベッドで半身を起こすナマエの胸に両手を広げて思い切り飛び込んだ。反射的にそれを受け止めたナマエの全身に痛みが走るものの、ラピスが本当に嬉しそうにナマエの首に腕を絡めるせいで、誰もラピスを咎められない。

――ナマエの記憶がはっきりとしているのは、弱い自分に別れを告げた、あの瞬間まで。

振るった剣が何かを切り裂いた感覚も、怯えと決別した意志も、はっきりと胸の内に残っている。…冥王の去った心のなかは広く、これからたくさんのものをあの世界に、届けることが出来るだろうとナマエは思う。大切だと思うものを入れる器は、"ナマエ"が残した大切なものだ。…きちんと使わなければ、意味がない。


「……ナマエ、だいすき」
「…ありがとう、ラピス。ごめんね、たくさん心配掛けて」
「………」


ナマエの胸に顔を埋め、ふるふると首を振るラピスの頭を撫でる。「…僕たちは?」「もちろん、みんなもありがとう。…ごめんね、変なことに巻き込んで」「ついでみてえな言い方だな…まあ、あれが何なのか…それはお前が話そうと思った時、話せばいいだろ」とにかく無事でよかった、と笑うアイゼルにミランが頷き、同調する。本当はきっと今すぐに、知りたいと思っていることをナマエは察している。しかし今でも、無理矢理に聞き出す権利があるとすればそれは恐らく、リソルだけが持っているのだ。


**


「へえ、もう一人?あいつら、帰ったの。結構薄情だね」
「…リソルが来るなら邪魔かもしれないって、アイゼルが」
「……ふうん。別に邪魔とか無いのに。ねえ?」
「どの口が言うの、それ。みんなが帰るまで待ってたくせに」
「まあ、気まずいし」
「秘密が多いのはお互い様だね」


隣り合わせのベッドで横になる、ナマエとリソルを区切るのは薄いカーテンたったひとつ。


「よく眠れた?」
「…アンタが心配で眠れなかったとか、ほんと腹立つ」


不満気な声が欠伸を噛み殺し、微かに映る影がカーテンに腕を伸ばした。「…おはよう」「…どーも」ナマエの声で夕刻にモーニングコールを告げられたリソルは、まだ完全に拭い去れない眠気を振り払おうと、こめかみを指で揉み始める。
あの屋上の事件があった日の前日から、ナマエが目を覚ますまで。血塗れで救護室に運ばれ、しかるべき処置を施された後、死んだように眠るナマエに相反するように、リソルは眠りにつけないでいた。何も知らずに眠ろうとしていた、あの夜のように寝付けなかった。…まあ、それがようやくナマエの目覚めにより安心して、眠れるようになったというところである。ラブね、と小さくリソルの耳元で囁いたチェルシーの何もかもお見通しよと言わんばかりの、声を振り払おうとリソルは首を振る。


「寝癖ついてるよ、リソル」
「…アンタもね。寝すぎじゃない?三日とか」
「起きなかったら死んでたみたいだし、やっぱり私運が良いんだよ」
「どこが。呪われてたくせに」
「……うん。でも、薄くなってる。もう、前みたいに脈打ってない。…たぶん」
「多分?」
「解呪はきっと、とっくに――…」


シャナクで解かれたのは、ダークドレアムの刻印だけではなかったのかもしれない。本当は解けているそれがいつまでも体に残っていたのは、私のなかにいたあの子が旅立ってしまって、共に立ち向かうひとを失ってしまって、不安が常に付きまとっていたからかもしれない。――ナマエはそっと真新しいシャツの胸元を抑え、大切な友に心の奥底で謝罪をいくつか、繰り返した。ごめんね、情けない魂を入れてしまって。ごめんね、倒れそうになってしまって。でも、また、あなたのように私に手を差し伸べてくれる人が、出会ってくれたんだよ。


「…ねえリソル、聞いてくれる?私の話」
「やっと聞かせてくれるんだ。退屈で眠くならない話だって保証してよね」
「眠ってもいいよ」
「…眠りませんけど」


ナマエを睨み据え、早く話せと促すリソルの視線にナマエは一瞬、自惚れたくなった。…自惚れても許されたり、してしまうのだろうか。この生意気な後輩は素直じゃないだけで、本当は優しいから私が、勘違いしているだけではないだろうか。……でも、優しさだけであの深淵まで、辿り着ける?そもそも、どうやって入ってきたのか。何をトリガーにして、リソルは私のなかに踏み込めたのか。…トリガーって、もしかして。



「話す前にひとつ、聞きたいんだけど」
「…………………なに」
「や、その、私は何一つ、覚えてないんだけど…キス、した?」
「〜〜ッ!」


――問いの意味を理解した瞬間、リソルの顔が爆発したように赤くなるのをナマエは見た。

ファーストキスだったとか、記憶にないだとか、もしかしてキスという行為をきっかけとしてナマエの精神世界に潜り込んだのか、問おうと思っていたことがナマエの頭から次々と吹き飛び、消えていく。リソルの真っ赤な顔を見た、ナマエの顔も同じように、爆発したかのような熱を放っていた。思考は熱に侵され、回らないどころの話ではない。


「……悪い!?あんたの心の中に入るには、それだけ強い意志表示が必要だったってだけ!別にオレが意味もなくキスしたかった……わけじゃない!」
「や、やっぱり、何かの魔法で私の中に入るために、したってこと…よね?」
「そう!」
「う、うん!分かった!ありがとう!?」
「……………」
「……………」
「……まあ、確かに。戯言だと思ってた精神論が、ほんとに通じちゃったわけだし」


理屈は分からないけど、とぼやいたリソルは誤魔化すように手のひらで顔を仰いだ。「…バウンズ学園長が、ここでは何が起きても不思議じゃないって言ってた」「…ふうん」さして興味の無さそうな様子のリソルを見て、ナマエはどことなく勿体ないことをした気分になる。――つまり、記憶にないリソルのキスはカウント外。人工呼吸と似たようなもの。緊急時に仕方なく、どうしても必要に迫られてやったというだけで、その対象が私だったってだけで、………うわあ。


「ご、ごめん…本当、それは申し訳ない…多大なるご迷惑を…」
「センパイ、なにそれ。気持ち悪い」
「きもちわる……」
「いちいちショック受けないでよめんどくさいなあ。何、また無かったことにしたいの。…それとも、やり直したいの」
「…やり直す?」
「………はあ」


言葉の意味を上手く理解できず、首を傾げるナマエにリソルは大きな溜息を吐いた。「ほんと、バカだよねえアンタって。鈍いし」「う、うん…ごめん?」「…はあ」再度、溜息を吐き出したリソルに幸せが逃げていくよと言おうと思ったナマエだが、リソルの機嫌を損ねそうだと思い。慌てて言葉を飲み込んだ。静かな動きでリソルがベッドから抜け出し、立ち上がるのをナマエはどうすることも出来ず、見守る。


「ほんとに、言わなきゃわかんない?」
「う、うん…」
「……オレはナマエのこと好きだから、無かったことにしないで欲しい」
「……………へっ」


今までにないほど間の抜けた声が口から漏れるのを自覚し、しかし耳にした言葉が信じられずナマエは目を見開き硬直する。「うっわ、何その間抜けな声…」リソルの呆れた声も、右から左へすり抜けていく。好きって、好きってそれは、仲間としてではなく?


「…今、私告白されたの?」
「アンタさあ、そんなにオレを道化にしたいんだ」
「ちが、そうじゃな、………顔、真っ赤だ」
「…人の事言えないんじゃない?アンタこそ、すげえ顔」


ふつふつと湧き上がるこの熱に、狂わされてしまいそうだ。

熱でどうしようもない顔を隠すことも出来ず、正気を保つために伸ばしたナマエの指が、ベッドサイドに立つリソルの指に捉えられ、絡み合う。「…ありがとう、リソル」俯き、囁くようにその言葉を口にしたナマエの背に、まだ細い少年の腕が回される。

――心臓の鼓動が、良く聞こえる、そこは。


私だけの優しい箱庭
20161117