繋いだてのひらから溶けていく


ナマエは真っ暗な闇の底でひとり、静かに座り込んでいた。

以前までは隣に、寄り添い闇を分かち合う友が居たのだ。自分は光に成れないからせめて、共に居ようとナマエに寄り添った器の魂は、悪夢に纏わる一連の事件の中でナマエに別れを告げ、光ある世界へと旅立っていった。体を持たない彼女が残した唯一のものはナマエを破壊と殺戮の神の元へと導いた。

その神に打ち勝ったナマエは、確かに思っていたのだ。もしネルゲルが甦り、目の前に再び現れたとしても、今度こそ大切なものは全て守り抜ける強さが今の自分にはあると。ネルゲルは今の自分にとって、もうそれほどまでの脅威ではないこと。確かに死闘であったけれど、あの時のように一対一で向かい合ったとき、自分は何も迷わないだろうと。
友との別れを受け入れられたのも、その自信が確かに胸に生まれたからだ。確かにその自信はナマエの精神をより強靭にした。――強靭になったことで、ますます、強い自分が誰かに縋ることは許されないと思うようになった。頼られる者は常に絶対的な安心を、縋る者へと。勇者の盟友という立場が確立されてからは、それがより色濃く。自覚しているからこそ、守りをより強固に。分厚く、世界に溶け込む壁は、誰にも見えず、存在すら知らせない。

――ナマエの深淵に蔓延る闇まで、誰も辿り着けないはずだった。


「……イ、……」


誰かの呼ぶ声が聞こえた気がして、ナマエはゆっくりと顔を上げる。そして再び顔を伏せた。相変わらずこの世界は真っ暗で、何もなくて、ただ空っぽの空洞が広がっているばかりだ。なんてつまらない世界なんだろう。たったひとつも本当に、大切なものを見つけられず、意味もなく呼吸を貪っているそんな人間の心の世界に、誰かが踏み込んでくることなんてない。

兄弟の顔が浮かび、消えていく。アバの顔が浮かび、消えていく。シンイの顔が浮かび、消えていく。友の大切にしていた生活から、旅だった日の記憶が浮かび、消えていく。冥王との戦いに挑むまでの旅路、レンダーシアを目指す船旅、偽りの世界と真実の世界、――絶対的な信頼を以って、ナマエのことを頼る勇者姫の横顔。浮かんで、消えて、浮かんで、消えて、……大切だと思う人達が皆、ここまで来れなかったのは自分が心を閉ざしすぎていたせいだと、叫び狂う心臓を抑えて、


「…なに、この世界。何にもないじゃん」
「…………へ、っ」


――聞き覚えのある声に、ナマエは思わず顔を上げた。…暗闇の中、必死に目を凝らした先で微かな紫色の焔が揺らぐ。太陽としてこの世界を照らすには、聊か頼り無い闇の焔を携えて、――リソルが、ナマエの前に現れる。


「…やーっと見つけた」
「……リソル、なんで、ここに?」
「なんでだろうね。オレが聞きたいよ、そんなの」


座り込むナマエに舌打ちを吐き、歩いてきたリソルはナマエの正面で足を止めた。ナマエを見降ろすリソルの視線に呆れの色が濃いのを悟ったナマエは、何を聞けばいいのか分からなくなり口を噤む。リソルが何に呆れているのか、誰に呆れているのか、どうしてここまで来てしまったのか。まさか無意識のうちに、自分がリソルを心の内に招き入れたのか。


「あー、悪いけど、勝手に入ったよ。面倒だったし、オレ一人で」
「…どう、やって?」
「…………それは言えない」
「えっ、いや、リソルあの」
「まあ、アンタなら何でもアリでいいんじゃない。この何もない世界も、…あのバケモノも」


静かなリソルの声に思わず、顔を上げたナマエの腕をリソルが掴んだ。「見て」「…っ、」――リソルの瞳の奥に、煌いた月光がネルゲルの影を映し出した。反射的に息を呑み、腕を引っ込めようとするナマエのその行動を、リソルが許さない。


「理由は聞かない。言いたくないなら、ずっと言わないままでいい」
「…リソル、おねがい」
「でもさあ、アンタのこと大好きって言って、ここまでオレを連れてきたあいつとか、」
「……おねがい、怖い、だめ、」
「アンタのことしか考えられなくなるような奴らが、好きなんでしょ?」


「…オレも、アンタにいなくなって欲しくないから、ここまで来たんだってば」






―――それは恐らく、リソルが初めてナマエに素直な感情を伝えた瞬間だった。

深淵の中で漂っていた、ナマエの心に一筋の光が差し込む。差し込んだ光に照らされた、リソルの顔が微かに赤いのを認識した瞬間、ナマエの心を閉じ込めていた死の闇の世界が晴れていく。
今度はしっかりと目の前で差し出された、リソルの手のひらを見つめたナマエは、少し躊躇ったけれど迷わなかった。握った自分よりも少し小さな、自分よりも頼もしいその男の子の手のひらの体温に引かれ、ナマエはゆっくりと立ち上がる。



家族は、もうどこにもいない。
故郷は、もうどこにもない。
たった一人、孤独を分かち合った友とも別れ、握る手のひらを探して彷徨い、


――その果てで、この優しい箱庭に辿り着いたと言うのなら。


「ちゃんと言って。求めて。アンタはどうして欲しい?」
「……たすけて、ほしい」
「はい、良く言えました。…今回だけ特別。貸しも借りもなしに、アンタを助けてあげる」


理由は教えてくれないのかと小さく呟いたナマエに、お互い様だとリソルが毒付き、二人は光の差す方へと歩き出す。手を繋ぎ、足を揃え、ひとりぼっちの闇から二人で。


20161117


微かにぼやける視界の隅で、紫色の前髪がちらついている。

目を覚ましたナマエは屋上に座り込む、リソルの腕の中で目を覚ました。「……ナマエ、っ」「…ラピス?」暖かな体温に包まれて、安心しきっていたナマエの心を風が凪いで、吹き抜けた。自分を抱えたまま、目を閉じているリソルは。心配そうに今、顔を覗き込んでいるラピスは。ここはどこ。冥王は。私の心の弱さから生まれた、あのバケモノは、


「あ、起きた」
「っリ、リソル!?なん、なんで、抱き締め、っ!?」
「……ナマエ?」
「おや、てっきりもう出来ておるのかと思っておったのじゃが」


不思議そうなラピスはナマエがリソルに抱かれて眠っていたことにではなく、それにより動揺しているナマエに不思議そうな表情を向けている。疑問符で頭中を埋め尽くされたナマエはぴくりとも動けなく――…なりそうになったものの、今はそれどころではないと頭のスイッチを切り替える。

周囲は結界に閉じられ、冥府の心臓の香りで満たされている。ナマエの怯えるもので埋め尽くされナマエを追い詰めるためだけに、顕現し完成された空間。その中心で、ミランとフランジュ、アイゼルとクラウンが自らの産み出した恐怖の化身と武器を交えて動いていた。――状況は、劣勢。当然である。影とはいえ、記憶から生み出されたとはいえ、ネルゲルは魔王だ。優秀とはいえまだ未熟な、学生に倒されるレベルなら魔王とは呼べない。


「………いいからほらセンパイ、ぼーっとしないでよ。アンタをここまで連れてきたんだから、最後の処理ぐらい自分でやって」
「うん、ありがとう。――リソル、ラピス、みんなに、後でちゃんとお礼を言わせて」


立ち上がったナマエの制服はずたぼろで、もう衣服としての役割を果たしていない。

だというのにその圧倒的なオーラはまるで、ナマエがこの空間を支配する絶対的王者であるかのように錯覚させるのだ。誰よりも脆いくせに、誰よりも強く、――それは激情に狂っていたから。今もナマエは激情の赴くままに、自らと立ち向かう。
歩み寄るナマエにようやく、アイゼル達も気が付いたようだった。安堵で顔を緩ませるクラウンとフランジュに仕草だけで、下がれと合図したナマエは、今までになく落ち着いた表情で狂喜に顔を歪ませる、冥王の影と対峙した。ナマエ、とアイゼルの声が屋上に響き、ナマエの手に片手剣が渡る。手に馴染むその片手剣は、戦いの最中で落としたもの。

握り直したその剣の柄は、恐ろしいほどに手に馴染む。

――もう、二度と取り落としたりしない。


「…さようなら、臆病なわたし」


別れの言葉と共に吹き荒ぶ激情が、ナマエの剣の先に集い、そして、