あなたという駅で来ない電車を待っていたい
「遅ぇ!」
「…………」
「いやラピス、お前じゃないからそんなしょげるな。リソルだよリソル…あああすまん!」
リソルとラピスが屋上へ至る扉の前に辿り着いた時、既にアイゼル達は武器を手に、鍵を携えて佇んでいた。開口一番のお説教に即、そっぽを向いたリソルに対し、アイゼルの言葉を正面から捉えたラピスがしょんぼりと俯く。「あちゃー、こりゃやらかしたねえ、アイゼル?」「アイゼル、機嫌を取るには甘いものがいいぞ」「…砂糖菓子でも持ってたかな」……一瞬で危機感はどこへやら、しょげてしまったラピスのためにポケットを探る敏腕生徒会長。恐らくアイゼルがそんなに都合よくお菓子を持っていることはないだろうと察して、ポケットからキャンディーを探り当てるクラウン。
「へえ、律儀に待っててくれたんだ」
「それは勿論、リソルさんが何の考えもなしに別行動だなんて言い出すはずはないですもの」
「…ああそう」
「リソル、照れてもいいぞ」
「王子様はさあ、天然なの?確信犯なの?」
どっちだろうな、と曖昧にミランが微笑んだところでクラウンから手渡されたキャンディーが、ラピスの機嫌を取り戻した。ころころと口の中でリンゴ味のキャンディーを転がし、自慢気な顔でリソルを振り向くラピスにはいはい良かったねと適当に頷いたリソルは、アイゼルの手の中にある普段とは少し違う色の、解放の鍵を覗き込む。
「…これ、開きそうなの?」
「さあな。今からやるんだよ、それを」
一歩、踏み出したアイゼルが扉の鍵穴に、解放の鍵を差し込む。ぴったりと鍵穴に吸い込まれた鍵先が、一瞬だけ強い光を放ち、解放の鍵を認識した。さあ、後は回すだけ―…
「っ、んだこれ…回んねえぞ?」
「……回らない?どういうことだ?」
「見ての通りだ!いやに、固ぇぞ…!」
「代わってください、アイゼルさん」
名乗り出たのはフランジュだった。アイゼルを押し退け、鍵を持ち、強い意志を携えて鍵を回そうと指先に力を込める。――びくともしないのは、フランジュの眉間に寄った皺が明白に物語っていた。鍵は合っている。のに、回らない。
それは、多分、おそらく。
「フランちゃんでもダメって、どうしよう…鍵はこれでいいんだよね?」
「良いはずです。何より解放の鍵が壊れる気配はない…こんなことは初めてだ」
――ナマエの助けを求めている声を、聞いたことがないから。
「貸して」
「…リソルさん?」
半ば強引にフランジュから鍵穴の前を奪うべく、割り込んだリソルに思わずフランジュが一歩引いた。背中の槍を利き手に持ち、リソルははっきりとした救出のイメージを脳内に浮かべ、鍵に指先を触れさせた。手に吸い付くようなその鍵を、ゆっくり、ゆっくりと回す。――回せる、確信。本能で理解した通り、鍵は滑らかに回り、かちんと小さな解錠の音を響かせた。瞬間、扉の向こうから吹き出すのは冥府の風。恐ろしい何かが、この先にいる。
「武器」
「もう、いつでも戦える!」
全員を代表したミランの声にひとつ、頷いたリソルは屋上の扉を開けた。底冷えするような、墓場に漂うような死の香りが充満する薄暗い屋上。間違いなくいつも守護者と戦うフィールドではなく、リソル以外の全員にとっては初めての、リソルにとっては二度目の、そこは呪いのバケモノが創り出す結界の中だった。まるで止まった時の中にいるような錯覚すら覚えるその空には太陽ではなく、満月が昇っている。そして、
――満月に照らされる、磔にされた、血塗れのナマエ。
「な、っ……ナマエ!ンっだよこれ!?」
アイゼルの激昂がそれを見た、全員の心情を代弁していた。見るも無残なその姿に、普段の頼もしいナマエの気配はない。制服はずたずた、覗く白い肌は切り傷で埋め尽くされ、目は虚ろな色を称えたまま、身体はぴくりとも動かない。しかし微かに、必死で体内に魔力を巡らせ、呼吸して生にしがみ付いている。
戸惑う面々にリソルは一人、冷静に思考を巡らせていた。
結界のなか、宙に漂う十字架に磔にされたナマエはあの日、リソルに掃除を押し付けられていなかったら、リソルが興味本位でナマエの様子を見に行かなければ、きっと今ここで、ナマエは世界のどこからも消えていた。誰にも知られることなくじわじわと、この世に存在した痕跡すら残さず、自分に殺されていた。
「…ほんと、面倒なことに結局巻き込むんじゃん」
「リソル」
「……アンタのその目、苦手だからやめてほしい」
「……、ふ」
――微かに笑ったラピスの手にした、両手杖から突風が巻き起こる。
リソルの身体がふわりと宙に浮いた。「えっ、ちょっリソルく、…ラピスちゃん!?」戸惑うクラウンの声を聞き流し、ラピスは静かにバギを駆使してリソルをナマエの元へと導く。呆気に取られている四人と一匹が見守る中、リソルはナマエの元へ、偽りの夜空を駆けていく。
辿り着いたそこで見れば見るほど、ナマエの姿は悲惨だった。傷だらけで、声も出せずに、ただひたすら生きていなければいけないという使命感だけで、意識を繋ぎとめている。惨めで、見ていると情けなくなって、――心臓が、軋む。
「センパイ、来たんですけど、ここまで」
「………………ぁ」
微かに反応した声と共に、口端から血がたらりと伝った。触れた肩が微かに反応し、冷え切った温度のなかにまだ、血の巡りがあることを証明する。
虚ろな目が微かに動き、リソルを見た。見ているのか分からないが、ナマエの目の中に自分の姿が映り込んでいるのを確認したリソルは、手にした槍でナマエの身体を縛り付ける、悪意の枷を弾き飛ばした。空中に投げ出されたナマエの身体は、ラピスが即座にその場に留め、リソルが冷静に抱き止める。後輩の洗練された連携に上級生と保護者は、ただただ呆然とするばかりである。
「ねえ、ボケっとしないでくれる?」
「いやリソルお前、いつの間にラピスとそんな、知ってたみてーに、」
「――来る」
ラピスの落ち着いた声が、微かに震えた次の瞬間。――ナマエを捉えていた十字架が、魔族の形へと姿を変えていく。
大きなツノ。端正な顔立ちと、豪華な衣服。体中から吹き荒ぶ、死の香りと血の香り。手にした鎌から滴る雫は、ナマエのものだろうとリソルは結論付けた。喋ることはないその魔族は、呪いから生まれたいわば、"影"。恐らく、ナマエのなかにある負の激情に呼応して、生まれたそれは間違いなく、容易い敵ではない。
ナマエにとって一番恐ろしいもの。ナマエの記憶から生まれ、ナマエのなかでナマエを蝕み、ナマエの孤独を造り上げた、ナマエが決して抗えぬ恐怖の権化。
――激情は、激情で以って制せよ。
「起きて、センパイ」
「…………ぅあ、」
「ここまで一人で頑張ったご褒美、欲しいでしょ?」
虚ろな瞳が小さな声と共に、微かな光を取り戻したのは自分の声が届いたからだと、らしくもなく信じてみようか、と。
今にもナマエごとリソルを取り込もうと、大きく鎌を振り上げた魔族の姿は視界に入っている。――息を呑む、いくつもの声が、耳に届いた。構わない。愛が世界を救うなんて、戯言本当なら信じてやらないけど。…この人がご褒美に欲しいのは、その戯言でしょ。知ってるよ。知っちゃったよ。なんでオレがこんなことしてんの。どうしてこんなところまで来ちゃったの。…まあ、理由は知ってるけどさあ。
「色々、文句言わないでよね。オレが見つけたんだから」
――その場にいる全てに宣言したリソルは、ナマエの唇に喰らいついた。
20161117