To dearest heart


- 追いかける -




冷たい視線に胸を貫かれ、身体は圧力に抗えず、沈んでいく。

自分に譲れないものがあるようにトビアスにも、同じように譲れないものが存在することをセナはよく知っていた。それがトビアスの生きる理由であることも、トビアスの進む理由であることも知っていた。だからこそトビアスがその逆鱗に触れられ、噴火したカルサドラの火山のような怒りを露わにした瞬間、自分の言葉が届かなくなることを心のどこかで悟っていたのだ。エステラの言葉すら届かないのに、自分の言葉がどう届くというのか。煮えたぎるマグマのように冷めることのない怒りが、トビアスを暴走に導いたのは必然であり、彼の性分上どうしようもないことだった。セナがフィナを殺せと言われ、出来なかったのと同じように。それは、どうしようもないことだったのだ。

それでも教団と道を違えた事実だけは揺らがない。自分の選択に後悔が一切無かったと言ってしまえばそれは嘘になるが、それでもセナはフィナ――神獣カシャルの口から語られたナドラガントの歴史方が、ナドラガ教団の語った救いの神の話よりも、真実味があると思ったのだ。故に、セナのなかにフィナを殺していれば良かったという思いはない。思いは無いが、間違っていればたとえ歪んだ未来でも、トビアスの信頼を失わずにいられたかもしれないと思うのも事実。当然、そんな未来はセナの望むものではないが、それでもエジャルナに踏み入ることすら許されず、馴染みのある教団関係者から敵意の目を向けられ続ければ、歪んだ未来の方が今よりもマシではなかっただろうかと考えてしまうのだ。眠れない夜、幾度も幾度もセナはそればかり考えを巡らせる。考え疲れ、眠りに着いた先は、闇よりも深い海の底なのだ。そこからセナは手を伸ばし、聖塔の最上階で自分に背を向け、振り向くエステラの腕を引き、歩き出すトビアスに手を伸ばしている。


―――真っ暗な水の底で、必死に、必死に手を伸ばしている。


「……ッ、い、おい、――おい!」
「……………あ、覚め、た」
「覚めた、とは…悪夢を見ている、自覚があったのか」


不思議そうな顔をしたディカスが、もうすっかり慣れた所作でセナの目の前に水の入ったグラスを差し出し、呆れたように溜息を吐いた。「…ヒューザ殿の部屋が俺の部屋の隣でなければ」「わかってるよ。…いつもご迷惑おかけします」ディカスの言葉を遮るようにしてグラスを受け取ったセナは、グラスの中身を一気に煽る。全身から汗の吹き出した体の熱が、少し引いた感覚を覚え、セナはようやく息をつく。


「あなたも疲れてるのに、毎晩起こしてしまって、ごめん」
「謝罪は聞き飽きた。…自分の言葉に責任を感じているのも事実だ、気にするな」
「どうしようもなかったって、…これも言い飽きたから、何か別の理由を考えなきゃ」


フィナの直属騎士の座を降り、邪悪なる意志と戦うために一人で行動すると告げたヒューザは既にルシュカを発っている。炎の領界へ戻ることの出来なくなったセナは嵐の領界へ進む機会を伺うための、仮の拠点をルシュカに決めた。そこで寝泊りするにあたり、元々ヒューザが使っていた部屋をそのまま引き続き、使っている次第である。

ところが教団との別れ、エステラとの別れ、――トビアスとの別れがセナのなかで余程堪えたようだった。ダークドレアムの刻印に苦しめられた時とはまた違った、悪夢に毎晩悩まされるようになった。その悪夢というのが、現実に起きた出来事であるのがまた性質が悪い。二度と見たくない、思い出したくない、暖め続けてきた感情と一緒に葬り去ってしまいたい――…歪み、捻じれ、曲がって、取返しのつかないことになっていく夢はセナを容易く追い詰めた。壁越しに声が漏れ、隣の部屋のディカスが深夜、セナを起こし水を飲ませたのはもういくつ前の夜のことだろうか。悪夢の内容は鮮明に覚えているくせに、セナはそういったあたりを上手く思い出せない。


「別の理由か。…まるで手のかかる妹が出来たようで悪くない、は駄目か」
「…ふふ、悪くないかも」


――ディカスは自分の言葉が一番最初の切っ掛けとなって、セナと教団の別れに繋がったと、…それに責任を感じているなどと言う。

その生真面目さが、どうしても弱った心を想い人へと重ねさせるのだ。主人への忠実さが、こういった瞬間に見せる優しさが、けれど決して自分だけを見ているわけではない、線引きが明確に見えるその姿が、どこまでもどこまでも、トビアスに似ているなどと。


「優しくされ過ぎたら勘違いするから、ほどほどにね」
「……勘違いすればいい」


信じられないような言葉が聞こえた気がしたけれど、セナはそれを聞かなかったことにした。ディカスも聞かせるつもりはなかったらしく、聞こえているとは思っていない顔だ。「…これは、自分の言葉に責任を取っているだけだ。違うか」「…わかんないけど、優しくされるのはすごく嬉しいから、ありがとう、いつも」礼を言い、頭を下げれば遠慮がちな手がセナの髪に触れた。兄が幼い自分を寝かしつけるとき、頭を撫でてくれていたのをセナはふと思い出した。

――それでも、自分の感情に不誠実な勘違いだけはしたくないのだ。


20161026