To dearest heart


- 触れる -




―――――ォォォォォオオオオオォォオオオオオオオオオ!!!


錯乱した竜の咆哮が、空気を伝わりびりびりとセナの肌を突き刺す。のたうち回るように暴れながらも時折苦しみ、もがく紅蓮の竜は暴走している分、いつかの薄紅の竜よりも厄介だった。狭い地下空間の中で必死に走りながらセナは思考を巡らせる。鋼鉄の肌を切り裂こうと剣を振り下ろしても、戸惑いが剣先を鈍らせているし、迷いを捨てようと足掻く時を与えまいと長い尾が薙ぎ払うために、セナの吐き出される灼熱の炎は髪をちりちりと焦がして、心臓までも焦げ付かせる。…どうすれば、トビアスは元に戻るだろう。どうすれば、どうすれば、どうすれば――………エステラの時と同じく戦うことに躊躇っているとはいえ、ナドラガとの闘いを切り抜けたセナから見て目の前で暴れる竜の脅威はナドラガの比ではない。弱らせなければトビアスが元に戻らないことも知っている。しかし、セナの本能は"何かがおかしい"とセナに告げていた。この部屋の空気が、がむしゃらに力を求め足掻くトビアスが、――元の場所に戻ってこないような。


「トビアス、…起きてよ!」


吐き出された炎を剣で切り裂き、地面を蹴ったセナは吼える。瞳の中から光を消した竜は応えず、ただただもがき、再びセナにその鋭い爪を振り下ろし、殺そうとする。――今までセナは何度か、こういった状況下に陥ったことがあった。戦いたくないと思っていた存在と死を意識する刃を何度も交えたし、そのたびにその時々の結末を迎えた。これもまたその瞬間の一つであることは分かっている。――皮肉でしか、ないでしょう神様。竜神ナドラガ、あなたは私のことがどこまでも嫌いみたい。反吐が出そうだと泣きたい自分が、ただただ悲しみながらもこれがエテーネの運命だと受け入れる自分と混ざり合う。

洞窟の中に竜の咆哮が響き渡る。一瞬足を止め、剣で震える空気を遮ろうとセナは微かに目を細める。…例えばもし、うまくいかなくて、トビアスをここで殺してしまったら。私は二度と剣を取ることなく、この場で自らの命を絶つだろう。けれどこの身に使命ある限り、魂は再び別の体に入り込み生きようとするのだろう。ある意味呪われたこんな体で恋なんてするもんじゃないと、紅蓮の竜を見つめ、セナは微笑う。


「…こんな時まできれいで、……ずるいよ」


女神の果実に身を染めてなお、自分がただの人間ですなんて言えるほどセナは傲慢ではない。種族の壁はもちろんあれど、セナがこれまでに出会った多くの人間の顔を思い浮かべた時、その中でもやはり一際目を惹く美しい紅蓮の髪が脳裏を過ったとき、セナの心はぽかぽかとまるで何も知らぬ少女が夢を見る春の午後のような、優しい暖かな温度で満たされるのだ。…焼き付いて離れない、深紅の美しさはセナを"人間"として保たせる。トビアスに人間らしい感情を繋ぎ留められていなければ今頃自分は、――おそらくナドラガとの闘いの最中で、いや、もっとそれ以前に――…人間であるために必要な感情のいくつかを、取り落としていったのではないかと思うのだ。

美しいあの竜に、いつか想いを伝えられたら、――…それだけで突き進んで、立ち止まって、走り出して――…その果てで刃を交えているなんて、とんだ結末があったものだ。ここでトビアスの暴走を止めたとしても自分の刃で大切な存在を傷付けた事実は自分の中に残る。どうしようもなかったなんて、慰めの言葉に過ぎなくなっていく。…それにここでトビアスを救ったとして、うまくいったとして、……トビアスは自分のものになってくれるのかと問えば、首を振る自分が確かにいる。彼は竜族の指導者だ。解放者なんて過去の存在に縋ることなく、自らの足で進み、竜族を導いていくひとだ。そしてその隣にはきっと、あの可愛らしい赤い彼の娘が立っている。――トビアスの隣に立つ前に、私は彼の知らぬ時間の知らぬ場所で、息絶えているかもしれない。考えれば考えるだけ、刃を持つ腕は重くなり、切り裂こうとする咆哮と共に泣き叫びたくなるのだ。もういっそ、いっそ楽になってしまいたい。この気持ちを捨てられたら、何度そう考えたことだろう。…捨てられるはずがない。初めての特別なひとだ。もし世界を救った代償としてなんでも一つ願いが叶うなら、目の前で苦しむ竜の心が、心臓が欲しいと名前は願う。けれどこの美しい竜の本意で選ばれなければきっと、セナは全てにおいて満たされない。


満たされないけれど、――でもきっと、今すぐ手に入れたいならここしか、ない。


「……ばかだなあ」


セナは剣を放り投げた。すべての戦いを共に切り抜けてき剣を捨て、目を閉じ、静かに意識を集中させていく。――自我を失っている、トビアスの意思がないところでこんな強行手段に及ぶなんて、私もずるい人間になっちゃったなあとセナは自嘲する。けれどトビアスの意思がないところではきっと、トビアスの意思を尊重してしまう。恋だの愛だの、面倒くさいことばかりだ。トビアスが欲しい私とトビアスに選ばれる存在が、同一であるとは限らない可能性に怯えて、ばかなことをしようとしている。無理矢理にでも手に入れたいと願ってしまったら最後、それを可能にする力を世界のためではなく自分のために、使おうとしたが最後の最後。――あの少女はきっと恨むだろう。魔障を吸い上げたからだで父を託した存在が、父を奪い去っていくなどと。


「いいんだよ、自分の弱いところをそんなに卑下しなくていいんだよ。トビアスのことは私が守ってあげるから、弱いままでもいいよ、頑張ったよ。もう、どこにもいかなくていいよ――お願い、」


どうか、私と一緒にいて。どうか、……何も考えないで、私のものになって。


両手に集わせた護りの光が、セナの全身を包み込む。眩しさに一瞬、足を止めた錯乱の竜はセナの全身を包み込んだ光が周囲に放たれたことによって、戸惑いの呻き声を喉の奥から微かに漏らした。動きを止めた竜に丸腰で一歩、一歩、セナは歩みを進めていく。……かぶりを振り、セナを踏み潰そうと竜が足を上げたその瞬間に、セナは力強く地面を蹴った。護りの光でふわりと、重力に逆らい浮き上がるからだ。名前は自分の何倍もの体になってしまった、トビアスの顔の前で動きを止めた。光を失っているけれどやはり美しく輝く、星のように美しい黄金の瞳。覗き込んだその世界を、ひとりじめしたいと願ってしまったら、もう最後。

伸ばした腕が、指先が熱を持った竜の鼻先に触れる。好きだと、結局一度も言えないまま、こんなところまで来てしまったことに少しだけ、後悔があるのかもしれなかった。セナのすべてを喰らい尽くそうといわんばかりに開いた竜の喉の奥で、爆ぜる炎からそっと目を逸らす。


「私と一緒に、ここで眠ろう」


セナの手のひらからうまれた淡い光が竜の頭を、体を、翼を伝ってゆく。猛る竜の全身から、力を吸い上げて膨張していく光はやがて、セナと錯乱の竜を全身を包み込む光の球に成った。静かに竜の瞼が下りてゆき、その瞳が完全に閉じられたと同時、ふたりを包み込む光の球が洞窟のすべてを照らし出すような光を放ち、その封印を完全なものとした。光の球の中で眠る竜の瞼に指先を伸ばしたセナは、その瞳がもう二度と開かないことを知っている。悠久の時を経てこの封印が綻び、エテーネの運命を引き継ぐ者がこの封印を解こうとしない限り、――私とあなたは、ずっと一緒にいられるよ。


「……おやすみなさい」


振れた瞼は固く閉ざされている。それでもいい、欲しいものが得られたからもう、それでいい。世界のために全てを捧げてきた。誰よりも血を流して、剣を振るってきた。たったひとつ、一度くらい、望んだっていいじゃないか。許してよ神様、私とこの人が同じ場所で眠る未来のひとつぐらい。


20180324


錯乱の竜を封印する分岐