To dearest heart


- 逃げる -




――息の詰まるようなにおい。
滴る血と抉れた肉塊、断末魔の残響が染み込んだ煉瓦の壁。
幾多の拷問器具が並ぶ通路は、死者の悔恨で満たされている。


「…もう、随分昔のことみたい」


教団の地下に隠された通路を抜け、かつての地下牢獄に降り立つのは久しぶりだった。ナダイアと剣を交えたあの時以来だ。相変わらず冷えた空気が肌に刺さるし、濃い瘴気と死者の怨念の匂いが変わらず、凄まじい。あの時も思ったものだが、頼まれたとて長居したくない場所である。

そんな場所にセナがどうしてわざわざ足を運んだのかといえば、忘れ物を取りに来たからというほかにない。戦いを終えた後だとは言え、随分と間抜けな理由だと現在協団長として最高位に君臨するトビアスは呆れた声を出したが、セナは気にしなかった。好きにすればいいと言ったトビアスはセナの予想通りだったが、この作業が終わったら迎えに行くという言葉はセナの予想外だった。心臓が跳ねる前に時の止まったセナに、トビアスが不思議そうな顔で、おかしなことを言ったか、などと微かに首を傾げるものだからセナは思わずそれじゃああとで、と叫んで部屋を飛び出していた。――確かにセナはこの地下の、最奥で二度目の死を迎えている。あの言葉はトビアスなりの心配だったのだろうと考えたセナの頬から熱が引いたのは、それなりに地下牢獄を進んでようやく、といったところでだ。


一度通ったことのある道だ、迷うことなくセナは歩みを進めていく。エステラとセナの選んだ未来を、選べなかったと残したナダイアの面影がちらついた気がした。幻影を振り払い、セナは足早に歩を進めていく。

セナが探しに来たのは、兄の残滓だ。

あの日、オルストフに息の根を止められる直前。部屋に入ったセナが見たのは倒れ伏したアンルシアと、兄と、オルストフの三人。兄に駆け寄ったセナと、オルストフに駆け寄ったエステラ。顔を上げた兄の逃げろという言葉に状況が読めなくなったあと、視界に移ったのは倒れ伏したエステラ。――そして、暗転。
そういえば死ぬ直前には兄さんの顔を見ているなあと、会えない故に思いを馳せたセナはその記憶の中の兄が、ネルゲルに殺された時とオルストフに殺された時では少し違うことに気が付いた。勿論顔が変わったというわけではないし、伸びた髪についてとも違う。エテーネの村で過ごしていた時、パーティでラグアスとフウラを攫っていった時、氷の領界で再会したとき――…兄の耳にはいつも、セナと兄の親が遺したという、形見の耳飾りが光っていた。父親の耳飾りを兄が、母親の耳飾りを自分が。常に肌身離さず着けているそれが、一番最後に見た兄の耳の片方には無かったような気がしたのだ。駄目元かもしれないが、きっと落とすのならここだろうと、セナは協団に足を運んだというわけである。…オルストフに不意をつかれ、倒れ伏したときに落としたというなら、自然ではないだろうか。セナは唯一の肉親が存在していた証拠を、銀色のキューブ以外にも求めていた。同時に、次に兄に会うときは、落としていたよと返してあげたいとも。


「あの竜族と想いを通わせたのは最近キュ?」
「通わせ…まだに決まってるよ」
「あの様子はセナに惚れてるキュ」
「どうだろう。わかんないよ、真面目で優しすぎるひとだから」
「明らかに自分より強い女を迎えに行くなんて、気がなければ言わないキュ」
「……気があるなら嬉しいけど、そもそも対象に入ってるのかなあ。種族違うし」
「それは一理あるキュ。セナは竜族にとっての恩人、…そういう理由なら納得がいくキュ?」
「うん、納得する」


まだ、セナの旅は続いている。新たな世界、潜んでいた悪意、そして兄の遺した新たな相棒を傍らに進むために、今は後ろを振り向いていられない。――求められるなら振り向いて、この剣を捨ててしまいたいけれど、世界が、運命がそうさせてくれない。もし、もしも、もしもの話。一縷でも希望の光があるのなら。竜族の新たなるリーダーが、自分がどこへ行くと行っても迎えに行くと告げてくれる、そんな未来を望んでいる。…望むのなら直接口に出して、臨めばいいのになんてキュルル、そんな怖いこと言わないでよ。逃げ腰なのは臆病だからだよ。自信があるならとっくに今頃、私はトビアスに好きですって言っているよ。


20180206