To dearest heart


- 想う -




満月の光が煌々と部屋を照らし、胸騒ぎを覚えさせる。

――どうしても、寝付けない夜であった。

暫し目を閉じたり、開けたり、寝返りを打ってみたりしたものの、やはりどうしても眠気は襲ってくる気配を見せない。やがて諦めたセナは上半身を起こし、カーテンの隙間から覗く満月を見上げた。久方ぶりに見るアストルティアの天体は、底の知れぬ美しさを放っている。闇の領界で見た月も美しいものだと思ったが、やはり"本物"には敵わない。
ナドラガンドに思いを馳せた瞬間ふと、セナは太陽のない、灼熱の炎により巻き起こる煙で満たされた赤い空が恋しくなった。じわり、じわり、燻るように胸の奥でちらつくその熱は、燃え尽ききれなかった破片だった。その熱を隠すように、守るようにセナは掛けてあった上着を手に取り、肩に羽織った。なるべく音を立てぬようにベッドから抜け出し、部屋の扉を開けて廊下に出る。一人で暮らすには広すぎるその家の、廊下を静かに歩いていく。

使用人室にはまだ電気が付いていた。主が眠れなかったなどと知れば、間違いなく気を遣い始めるであろうコンシェルジュに気付かれぬよう、セナは既に戸締りを終えている玄関からではなく窓を開け、ひらりとその身を外に投げた。危なげない足取りで裸足のまま、地面に足をつけて夜空を見上げる。
肌身離さず持ち歩いているルーラストーンを夜空に掲げ、エジャルナの名を呟くと同時、風がセナの髪を揺らした。アストルティアはもう上着一枚では肌寒い季節になっている。ナドラガンドに行けばまったく、これらも関係なくなるのだが、それがセナにはどうしようもなく寂しかった。移ろう季節を共に眺めていたい人々は今、セナの心から遠い場所にいる。


**


「……解放者様、何をしていらっしゃるのですか」
「あ、トビアスだ。こんばんは」
「何をしていらっしゃるのですかと聞いています。何ですかその姿は」
「いや、見ての通りパジャマです、けれど」
「貴方は肌を焼きたいのか?それとも、よからぬ輩を引っかけに来たのか」
「な、なん、っ!?え、エジャルナにそんな変な人はいないよ!?」
「裏通りまでは保証出来かねません。とにかく、―――…なぜそんな姿で…」


炎の領界の空の色は変わらないが、竜族達も就寝時間は皆、合わせているようである。そして今はおそらくナドラガンドも、アストルティアでいう"夜"なのだろう。静寂が街を包み込み、街並みから人の気配は消え、エジャルナの酒場前に降り立ったセナの背後にある、酒場の扉にはcloseの看板が掛けられている。――目の前に丁度立っていた、トビアス以外は賑やかなエジャルナの通りに、人っ子ひとり見当たらない。

そういえば街の巡回は、教団員が交代で行っていると聞いたことがあると、セナは思い出していた。なるほどつまり今日は、トビアスが当番だったのだろう。教団を遠くから眺め、後はアペカへの道を軽く散歩して、眠くなったらアストルティアへ戻ろうと考えていたセナは、思わぬ話し相手の登場に嬉しくなり、自分の姿を見てこめかみを人差し指で押さえたトビアスの元へ駆けていく。


「トビアスは、今日巡回の当番だったの?」
「たまたま、手が足りなかったもので……解放者様、とにかく、これを」
「え、いらないよ、暑いし」
「羽織ってください」
「いやだから暑、」
「………」
「………あり、がとう…?」
「賢明です」


肩からマントを外し、半ば押し付けるようにセナにそれを押し付けたトビアスは、はああ、とあからさまな溜息を吐くのだが、セナにその意図は通じない。
確かにセナは底知れぬ強さを持つ、歴戦の戦士である。しかし年頃の女でもある。剣を持つ腕は細く、呪文を唱える唇はやわらかい。ナドラガンドが異種族の土地でなければこのように、戦いの日々の中で感覚が鈍り、寝間着で無法地帯をうろつくような少女はすぐに、不埒な輩に傷を付けられるのではなかろうか。…返り討ちの可能性の方が高いだろうか。


「ねえトビアス、これハーフマントにぎりぎりなるか、ならないかぐらいなんだけど」
「無いよりマシでしょう。貴方はもう少し、危機感を覚えるべきだ」
「…うーん、そうだねえ…ガメゴンロードとか出てきたら、流石にパジャマじゃ防御面が心配かなあ」
「……………」


そういう問題ではないのだが、セナには通じないのだろう。――壁際に追い詰めて、貴女の甘さに付け入り、男が襲ってきた時はどうするのですかと問うてやろうかと一瞬考えたトビアスは、異種族の男では説得力に欠けるかと肩を竦め、再び溜息を吐いた。「トビアス、疲れてるね」「…そうですね」パジャマ姿のセナが地面に降り立ったのを目にした瞬間に、どっと疲れた、が正解に違いない。

セナは一度、同種族の男に追い詰められ、恐ろしい思いをすべきではなかろうか。そうして多少でいい、男に壁を作るようになりはしないだろうか。例えば、そう。今セナの目の前に立っている、エステラと同期の神官の男に対して。
――戦場に立つ、セナには嫉妬すら、抱くことを許されない。それほどの強さを彼女は持っており、そして彼女はそれを、自分以外の誰かに、望まれるまま、使うのだ。誰かに望まれるため、誰かに手を伸ばしてもらうため、誰にでも求められるように――…セナが隙だらけなのは、彼女の欲求を真に満たす存在が、彼女を求めていないからではないか。


「うーん、眠くなったらすぐに帰るし、大丈夫だよ。本当にちょっと、散歩するだけ」
「…どこまで、散歩の予定ですか」
「一応、アペカへの道をぶらぶらと…」
「では、お供致しましょう」
「え、いいの?でもトビアス、見回りは?」
「"解放者"様を守るのが、我らの役目ですので」
「心配性だなあ、大丈夫なのに…」
「では、行きましょう。眠くなるのは早い方がいい」


――踵を返し、門の方へ歩き出すトビアスは知らない。

セナが歩き出すトビアスの背を見つめ、その背にいつも揺らぐマントが今、自分の肩に掛けられていることをまるで、夢のように思っていることを。駆け出し、トビアスの隣に並んだ瞬間に、何よりも満たされた表情で口元を緩めていることを。


「……解放者様」
「んー?」
「思うに、こういった類の誘いを、軽率に受けるのはどうかと」
「誰にでも着いて行くわけじゃないよ」
「どうだか」
「…本当だよ」


小さなセナの声は、トビアスに届かない。想い、慕えど、それは種族という大きな壁を乗り越えるにまだ、至らず。いつか手が届くようにと祈りながら今は、言葉の裏に感情を伏せて、あどけない少女のように振る舞い、秘密の散歩を楽しむのだ。


20170203