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――自分の意識のある空間のなかに、体のある感覚を覚えられない。

まるで泡になって水面に浮かび上がっていく気分だと、ナマエは浮遊感に抗うことなく目を開ける。目は当たり前のように動き、機能として周辺の景色をナマエのなかに流し込む。そこは、石造りの空間だった。プラスでもマイナスでもどちらでもない、何にも侵されることのない魔力が満ちており、大きな天球儀が恒星の軌道を示すべく、動く。

やけに体が軽いと、自らの身体を見下ろしたナマエは肌が透けていることを知った。闇の力に満ちた光に、体を貫かれた瞬間の喪失感といったら!魔法力や生命エネルギーを根こそぎ奪い去られた後、あんな風に捕らえられて気絶して目が覚めて、体が無事であるなどと、そんな甘い話が有り得るはずがない。体のある感覚がないのはおそらく、自分が意識だけ、魂だけ、思念体としてこの場にいるからであろうとナマエは冷静に結論を出した。意識と体に繋がりがあるなら、恐らく今ナマエはこうして考えを巡らせるほどのエネルギーを体から絞り出せなかったろう。意識だけで切り離されたのは、物事を考えるに最適だ。ならばまずはここがどこなのか、どうして意識だけでこんな場所にいるのか考え、


「……わあわあ、騒ぐかとも思ったが、そうでもねえな」


突如響いた声にナマエが振り向くと、見たことのない緑色の――…羽をもつ、ドラゴンに似た、なにかが寝そべる形で宙に浮き、ナマエのことを見つめていた。よう、と片手を上げられ、ナマエはただただ困惑するばかりである。無意識的に安心を求め、楽器に手を伸ばそうとするも自分の身体のある場所に、腕である意識は触れてくれない。


「冷静なのは良いことだ。混乱し過ぎてるにしても、騒ぎ立てないのは賢明だ」
「…ええと、あなたは?」
「アクトもメーアもディルクのヤツも、お前の話をしてた。他のヤツもだ。――ところが、お前だけはおいらの所に来る機会は無かったな」


――当たり前のように並べられたその名前に、ここにはないはずの心臓が脈打つ。


「……アクトとメーアは時々、試練のほこらに行くって…合間に時間を作ってた。戻ってくるたび、二人の剣技は磨き抜かれて…強くなって。私は多分、こういった場で受けるものではない試練を、あの旅の合間に受けていたから、会うことはなかった…」
「おう、その通りだ。会えて嬉しいぜ、ナマエ。こういった形になるとは思わなかったがな」
「…あなたの名前を、二人から聞いたことがある。なんだかんだ情に厚くて、面倒見が良くて、照れ隠しが苦手で、自分達よりも自分達の力のことをよく把握してくれている――ガゴラには本当に世話になる、って」
「おいおいおいやめろやめろ!ケツの穴が痒くなる!」


飛び起きるように舞い上がり、ナマエに背を向けた――ガゴラの頬が微かに赤いのを見てしまった、ナマエの心はぽかぽかと暖かい。ここに体があったなら、ナマエの頬は緩み、嬉しさに指はそわそわと、笛の穴を探ったであろう。

同時に、記憶に確信を持っている存在の口から告げられた名前を認識することにより、ナマエの中には劇的な変化があった。どうして今までよく思い出せなかったのか、わからないほど鮮明に、ありとあらゆる記憶が溢れかえり、とめどなく流れ出す。サンマリーノからの帰り道に、神鳥を見たこと。気が付いたときそこは、光の塔の内部にある、上下するフロアの小さな部屋だったこと。扉を蹴り破り、怯える自分に手を差し伸べたアリーナの笑顔。引き上げられたそこで、懐かしいテリーとの再会。

スイッチが切り替わるだけで、こうも記憶が溢れ出すのか。意識ひとつでは受け止めきれない量の記憶が流れ込み、ナマエの魂が悲鳴を上げる。頬の熱が引いたガゴラがナマエを振り向き、やはりかと言わんばかりの顔で苦しむ魂の様子を見守った。視界にちかちかと白い星が瞬く感覚を覚えたナマエは、ガゴラの可愛らしさに穏やかさを覚えていた心が、混乱に塗りつぶされていったことを知った。――流れ込む記憶を全て受け止めた後、恐ろしい疲労感がナマエの魂ごと包み込む。


「……え、あれ、ガゴラ、わたしは」
「…まあ、もう一度寝りゃいいだろ。世界ふたつ分、記憶抱え込んだんだから精神の疲労もたまったもんじゃねえ。もう一度目が覚めたらその時、ちゃんとお前について話してやるさ」


20161014