彼女と花 1




季節は冬から春へ、優しい温さの空気を孕み移り変わる途中だ。

雪解け水が滴り落ちる窓辺で、ナマエは青い花の揺れる鉢植えを静かに見つめていた。送り主の名前を知らされないまま、もう随分と長いあいだ送り続けられている花は決まって青色か、銀色か、紫色か。その全てに共通する何かを知っている気がするナマエは、どうにもそれを思い出せないまま部屋で静かに一日を過ごすのだ。どうしても呼び起こされない記憶は、断片すら蘇ることはないからきっと永久に失ったままなのだろう。

それでも送られてくる花を見つめていれば、失った記憶を惜しいと、取り戻したいと嘆き悲しむどこかの自分が少しだけ、穏やかな気持ちになれることをナマエはよく知っている。世界中に流れる穏やかな時間の流れの中で、魔王の脅威に震えていた記憶は風化していく。……風化とはまた違う形で失われたナマエの記憶は、ナマエにあまり深く疑問を抱かせない。記憶がないからといって、死ぬわけではないのだ。確かに幸せなこともあったが、無理に思い出すことはない。これから失った数年の記憶を探すより、幸せなこの先何十年の記憶を詰め込んだほうが幸せに違いない。ナマエの父も母も、そう言ってナマエを慰める。何も心配することはない、おまえは幸せな記憶を今からたくさん手に入れられる。

ええ、そうね――失ったということは、きっと辛く悲しいだけの記憶ね。たくさんの幸せの記憶を詰め込んで、悲しい記憶のことは気にしないでおくわ。思い出そうともあまり思わないの。大丈夫よ、心配しないで。


告げど、それが自分の本音であるのかどうか、ナマエはよくわからないままだ。気にしないでおくと言いながら、届く花を拒絶することはない。むしろ花が届くのを、いつだってナマエは心待ちにしている。父も母もそれだけは、黙認してくれるようだった。誰から送られているのか、知らないからこそ何も言えないということもあるのだろうかとナマエは考える。

薄青色から濃い青色へと、色を重ねた花弁を見つめながら、記憶の糸を手繰り寄せようとしたナマエは、その糸屑すら残っていない自分の体の全てに行き渡るよう、深く、深く息を吸い込んだ。ふわりと甘い、穏やかな春の香りの交じったにおい。きっと優しいお花の人は、ここよりも春の訪れが早い場所にいるのね。


「…いつか、会いに来てくれるかしら」


花は沈黙で、その問いかけに返した。

20160423