思い出すべきか分からない花の名




――今日は、花が届くのではないだろうか。

朝、ベッドの上でそんな予感を得ると不思議なことに予感は当たり、その日自分の手元には花が届くのだ。今日は…青色だろうか。鼻腔をくすぐる春の風に乗り、見たことのない青色の花の香りが自分の体へ吸い込まれていく感覚。ナマエはゆっくりと起き上がり、まだ朝日の昇っていない窓の外に目を向けた。花の送り主はこの時間、まだ目を閉じているのだろうか。夢の世界で会えたなら、記憶をこちらに運べないだろうか。

かぶりを振り、ナマエはベッドから足を出す。ひやりとしたキレのある朝の空気が、ナマエの脚の熱を奪ってゆく。まるで刃のように冷え切った空気ね、とナマエの頭のなかに誰かの声が響いた。自分によく似た、自分でない誰かの声。……朝、誰かに、こんなことを言った…――思考を遮るようにきいん、と金属音に似た音が鳴ってナマエの膝が崩れ落ちる。窓辺に飾ってある小さな紫色の花の鉢植えから、ひらりと花弁が床に落ちた。


ナマエには、生まれてからの一切の記憶がない。


何かを求めていた。誰かと出会った。…漠然とそんなことがあったような、気がするだけだ。顔も、言葉も、なにもかも思い出せないけれど、ナマエのなかにはもう、その願望が夢でなかったことを祈る心しか残されていない。
自分は二度、記憶を自ら封印したのだとナマエは聞かされている。一度目は、ここに来た時。二度目は、ここから攫われそうになった時。ナマエは屋敷に侵入した悪い人間に捕まって攫われ、見世物にされそうになっていたのだという。その果てで殺されそうになっていたところを彼女の婚約者に救われ、家に帰ってきたのだとか。ナマエは自分で封じたという記憶を自分以外の人間の口から聞いても、上手く噛み砕けなかった。

二度目に記憶を封じたという夜、眠っているあいだに流し続けていたという涙の跡が残る頬だけ、それがナマエの記憶の中で絶対に確かだと言い切れる唯一のものだった。以来、ナマエは部屋の窓から外の景色を眺めるだけで、庭にすら足を踏み入れていない。呼吸をし、水を飲み、欲しいときに出される食事を摂り。まるで植物のように、言われた通りに、部屋の中で、良い子にして、じっと開花する瞬間を待つ。


そんなナマエの元には不定期に、…ナマエが予感を感じた日にだけ、花が届くようになっている。


「お嬢様、お届けものにございます」
「今日はきっと深い、海の底のような青色だと思うの。…当たっているかしら」
「……お嬢様は、どなたから花を受け取られているのでしょう」
「分からないけれどきっと、私はその人のことをとてもよく知っているんだわ」


20160418