縋るように、誰かの名前を呼んでいた




「俺達はアークボルト領を出た。東に向かい、…トルッカの周辺の森を彷徨ったな」
「…その後は?」
「レイドックに行くべきか迷ったが、大国は情報の共有が早いしな。何より伝説の剣も探さなきゃならなかった。そのまま南に進んで、アモールに向かった」
「海路は、どうやって進んだんだ?」
「漁師の船に乗せてもらったり、あとはナマエの背に乗ったかな」
「……アモールから、先は?」


レックの言葉に、一瞬だけテリーは言葉を詰まらせた。間違いなくアモールで何かあったのだろうと察したレックは何も言わず、テリーが言葉を続けるのを待つ。


「…嵌められたんだ。情けないことにな」
「嵌められた?テリー、お前が?」
「ああ。トルッカから情報が漏れたんだろうな。後から知ったがあの男は、レイドックとアモール、それからペスカニに自分の部下を送ったらしい」
「……そこまでやるのか」
「そこまでして、ナマエが欲しかったんだろ」
「でもテリー、お前相手じゃアークボルトの兵士がいくら束になっても敵わないんじゃないか?」
「…お前の中で、俺はそこそこ評価されていたんだな」
「こんな時に捻くれた発言はやめろ」
「悪かった」


レックの視線から逃げるように、テリーは夜と朝の狭間を見つめた。話を始めて、一体何時間が経ったのか。気配を悟られないよう目を開けて耳を澄ませている全員に気が付いているテリーとレックは、それでも二人だけで話をしている体を装う。


――アモールで是非と差し出された水に、呪いが含まれていた。

後に知ったのは男が魔法や呪いの類を、知識として広く知っていたことだった。死に至らせる呪いを編み込んだ飲み水は、差し出した旅人に何も疑わせない。自ら移動魔法を駆使し、部下を予想出来る全ての場所に配置し、男は部下に姿を偽らせた。そうして呪いを配り、ナマエではなく必ず物資の調達できる町に入らなければならない、テリーを狙ったのだ。町人に扮した男の手の者から水を受け取ったテリーは、そこがアモールでなければ飲むことを多少は躊躇っただろう。テリーの喉を通った呪いは血液と共に全身を巡り、体の自由を奪い去った。倒れたテリーの元に駆け寄った複数人のうちの一人がルーラでアークボルトへ飛び、やがて男がテリーの前に姿を現した時の、その顔は歓びに満ちていた。

戻らないテリーを心配したナマエの目の前に、男の手の者が現れる頃、テリーは呪いでかなり消耗していた。捕らえられたテリーを認識した瞬間の、ナマエの表情をテリーは一番忘れたかった。あんな顔をさせるのは、間違いなく主人失格だった。
男はテリーの腕を掴み、ナマエの目の前で持ち上げて笑い、ナマエに毒を投げ掛ける。その一言一句を、テリーは鮮明に思い出せる。


これは、君の大切な人間だよね

今にも死にそうになっているね

僕は君の大切な人間を、助けることが出来るんだよ


―――人間は、願いの代償に対価を望む。


ナマエは願った。自らの主人を助けてくれと、男に懇願した。――…代わりに何でも、自分に差し出せるものを全て差し出すから、と。…男の望みを知った上で、ナマエは願った。光の届かない場所に行くことよりも、光が世界から失われてしまうことに怯えていた。


本当に、僕の望みを叶えてくれるんだね?

ええ、なんでも。――私にテリーよりも大切な者はないわ

ならば、まず一つ。君の主人を忘れてもらおう

……それから?

海を捨て、人間となってもらおう。僕のことを愛し、僕に一生を捧げてもらおう

………そして?

僕の管理する空間に、自ら望んで、来てもらおう。


出来るね?とナマエに問いかけたその声は、拒否を許さなかったのだ。霞む視界でテリーが見たのは、地面に涙を流しながら何度も頷く、ナマエの影だけだった。男の望みはナマエにとっての、地獄に再び捉えるものだった。


『"生まれながらにして海の底に囚われ、ようやくの思いで逃げ出した先で光を掴み、――…その光を守るために次は、地上の牢獄へ"って、ところかしら。……あのね、私、…テリーに何度も謝ってきたけれど、今回はきっと…何度謝っても足りないわ』

やめろ

『最初に思った通りだった。テリーは本当に優しい人で、私はテリーに出会えなかったらきっと今も海の底で太陽に憧れたまま、窓の外の声にいつか、いつかって繰り返すだけだった』

…頼むから、

『愛おしいマスター、貴方を忘れてしまう私のことをどうか、…その広い心で許してください。願わくば私を忘れて、忘れ去って、………やっぱり私は悪い子ね。忘れないで、欲しいわ。でもそんなこと、言ってはいけないのでしょう』


…ナマエ、


『大好きよ、ずっと。―…この世から消えてしまう人魚であった"ナマエ"の心は、世界でたった一人だけ。テリー、あなただけのものだから』


自らの力に祈り、魚の尾を捨て、記憶を書き換える直前に、ナマエがテリーに残した言葉は、テリーの耳元で泡になって消えた。もう自分の知っている"ナマエ"ではなくなった存在を見届けたテリーが思い出したのは、彼女の名前を、一度も声に出して呼んだことが無かったということだった。


20160519