手を取り合う日




ターバンで髪と顔を隠したナマエを背負ったまま、テリーはアークボルトを出た。森を避け、整備された街道を旅人の一人として進み、南にしばらく行くと海が見えた。テリーの背中に体を預けたナマエも、それに気が付いたのか小さな声を上げる。

陸地と海の境目に辿り着くまで、時間はそうかからなかった。波打ち際でテリーは足を止め、ゆっくりとナマエを地面に下ろす。驚くほど優しいその動作に、ナマエは戸惑いながらも地面に足を付けた。そして座り込み、ナマエはテリーに借りた服を脱ぐ。テリーは何も言わず視線を逸らした。ナマエが足先を海に触れさせると、水が吸い上げられるようにナマエの脚に纏わりつき、ナマエを生まれたままの正しい姿へと戻していく。


「…で、どうしてあんなことになった」


ようやく、テリーはナマエにその質問を投げた。弱々しく口元を緩めたナマエは、憧れの陸地から自分の住むべき海へ体を投げ、しばらく浮かび上がって来なかった。話す気がないわけではないことをなんとなく理解しているテリーは、黙ってナマエが顔を出すのを待つ。
やがて数分もすれば微かに生気の戻った顔をした、ナマエが海面から顔を覗かせた。謝るべきか、ナマエは悩んでいるようだった。なんでもいいからとにかく話せと、テリーは目を細めてナマエを睨む。


「……水が、足りなくなったの」
「それで?」
「水を求めて…テリーの言いつけを破って宿の外に出たわ」
「……」
「人気のない小池があったから、そこで水を浴びてこの姿に戻って…そうしたら、あの人がいたの」
「馬鹿か」
「…ごめんなさい」


すっかりしょげた様子のナマエに、テリーは深く息を吐き出した。管理が不十分だった自分にも責任があることを自覚しながらも、それを直ぐに口に出せるほどテリーは素直ではない。
放り出して悪かったと言うべきか、言わなくても大して影響はないか。考えるテリーの無言をどう取ったのか、ナマエはぽつぽつと、青年と出会ってからのことを話し始めた。美しいと称えられたこと。人魚でも人間でもなく、ナマエのことを知りたいと言われたこと。小屋に案内され、"紅茶"と呼ばれる飲み物を出されたこと。名を教えること、明日も同じ場所で会うという約束を交わし一時は逃げたこと。――そのまま約束を放棄するつもりだったが、青年は自分の居場所を突き止めていたこと。


「……あんなに、固執してたのにか?」
「本当に、出会ったのは昨日よ。…知ってるはずだわ、テリーが一番」
「まあな。…しかし、面倒臭い相手に惚れられたもんだ」


ナマエに捨てさせた剣の刃には、ルーン文字が刻まれていた。聖なる力で悪を祓うその剣は間違いなく、破邪系の剣の一振りだった。そんなものを腰に携えている人間が多少身なりの良い、一般人であるはずがないのだ。運が良くて下流貴族、現実は上流貴族と言ったところ。倒れ伏してはいたものの、一国に終われる身にはなりたくないのがテリーの本音だ。――…ナマエが人間ではないおかげで、大事には出来ないだろうがそれでも旅をする上で、誰かに追われるというのは避けたい。

とにかく今はほとぼりが冷めるまで、アークボルトの大陸から出るべきだというのがテリーの出した結論だった。しかしアークボルト領から出ている船は漁師のものがほとんどを占めているうえに、魔物のせいで漁に出る船は激減している。陸路は山をいくつ越えることになるのか、考えたくもない。


「…なあ、こんなことがあってまだ、帰りたくないのか?」
「………………」
「海の底に帰れば、親だっているんだろ」
「……そうね」
「虐げられてたわけでもなし。お前のその力が悪い方に走らないよう、部屋に入れられてただけなんだろ」
「……ええ」
「帰れば、もうあの男はお前に手出し出来ない」


ナマエの瞳が揺らぐ波を反射し、視線が海の底へ向けられた。ナマエの脳裏に刻まれているのは、狂気に満ちた青年の目と捻り上げられた手首の痛み。毒を孕んだ愛の言葉。
それら全てから逃れるための唯一の道は、あの牢獄へ帰ることだとテリーは言う。ナマエは顔もよく思い出せない、父親と母親の姿を瞼の裏に描こうとした。…浮かび上がるのは自分の力を制限するために施された魔法陣のルーン文字と、誰かの喋り声が聞こえてくるたった一つの窓の形だけ。


「…きっとあの人に捕まっても、帰るのと同じだわ」
「同じ?」
「偽りの愛を信じ込まされて、一生光の届かない闇の底で過ごすなんて」


――私、耐えられないわ、どうしたって。


帰りたくない、と繰り返した時よりも小さな声の主張は、生まれて初めて得た光を失う恐怖に怯えていた。テリーは諦め、地面に座り込む。こんなことになるのであれば、最初から情を捨てるべきだったと考えるテリーは掌で波を拾い、ナマエの顔に投げた。それをまともに顔で受け止めたナマエはテリーの行動に驚きで目を瞬かせる。


「なら、一緒に逃げるしかないな」
「…いいの?」
「飼い主だって言い切ったんだ。…責任持って、守ってやるさ」


20160519